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スイッチは意外なところにあるもので?

お久しぶりです

更新再開いたします

 黒い毛糸が縦横無尽に展示室中に張り巡らされていた。その中央で、白いドレスが浮いている。ドレスにたくさんの黒い線が入っているように錯覚する。


最初はどうやって鑑賞するものかまったくわからなかったけれど、よくよく見れば、すべてが毛糸のジャングルとなっているのではなく、トンネルの形の空白地帯が残るように設計されていて、何着かあった白いドレスの一群を自分の足でぐるりと観察できるようになっている。しかも階段がある展示室だったから、二階からでも作品を一望できた。今、まさに私はその作品を見下ろしている。


 すごいインパクトだ。


 展示室全体を使ったこの「作品」は、きっと期間が終われた跡形もなくなり、もう一度作ろうとしてももう二度と同じものはできない類のものだった。まるで、白いドレスが真っ黒な蜘蛛の巣に捕らわれているように思う。二階から見れば、一階にいる他の観客の姿も一緒に毛糸の巣の中でもがいているみたいでもあった。


 引き込まれるけれど、何だか怖い作品だ。


 何を表現しているのかよくわからないけれど、剥きだしの強い力があって、何かを訴えかけているような気がする。


 一緒に二階から眺めていた菱川さんがくい、と少しだけ私の手を引いた。

 私の意識が現実に戻る。

 私と菱川さんがいるのは、少し遠出した先にある美術館。電車に乗ってやってきた。

 そして今日は菱川さんの出張が終わってからの久々のデートだった。


「梢さん」

「……は、はい」

「ここのところしばらくずっと、僕のこと、警戒してるよね?」

「お……おっしゃる通りでございます……」


 いつかそう言われるだろうとずっとびくびくしていましたとも。目もなかなか合わせられない挙動不審ぶりは自分でも自覚していて……心の中では「うわぁああああ」と悶えていますとも。ずっといたたまれない気持ちで一杯というか。


「……梢さん、僕のこと嫌い?」

「そんなことはないです! ……ちゃんと好きです。ただ……どんな顔をしたらいいのかわからなくて」


 私としても普通に接することができるはずだった。……ほら、ファーストキスは以前にも意識していたから、覚悟だってできていたし、私一人がわあわあ騒いだところで、取り越し苦労で終わるかも、世間では皆やっていることだからそんな大したことないし! ……と強がっていた時もありました。


 全然そんなことなかった。


 中ボスかと思いきや、いきなりラスボスで。初めて使うマッサージチェアでいきなり最強もみほぐしコースを選ぶような。……そう、「上書き」するつもりが、私の方が逆に刻み込まれました。予想をはるかに上回りました。


 そんなわけで今の私は思考回路が省エネモード。下手に考え過ぎれば……か、感触が生々しく思いだされて、処理落ちに……。あぁー、不甲斐なくてごめんなさいー。


 菱川さんが申し訳なさそうな顔をすると、こっちの方が謝りたくなってきた。やばい。めんどくさい女になってるぞ、私。


「うん、まぁ……僕も夢中になりすぎていたからね。少し焦った気持ちもあったのかも。あと、必死に袖にしがみついてくる梢さんが可愛くて」


 い、言わないでー。思いだすからー。処理落ちするからー。

 ごほん。落ち着こう。


「菱川さん。落ち着きましょう!」

「うん。梢さんも落ち着こうね? 手が熱くなってるよ」



 なんと思わぬ伏兵がいた。

 頭の中で横文字のテロップが流れた。「うわああああああぁあ」って。意味を成してない。


「わかりました。一旦、手を放しましょう」


 では、と手を放してみる。


 きゅっ。なぜか菱川さんが私の手を再度つかむ。


 ……もう一度やってみた。


 きゅっ。


「……菱川さん」

「楽しくなってくるね、こういうのって」


 菱川さんの口許が面白そうに緩んでいる。マリアさまじゃなかった。ダヴィンチの《洗礼者聖ヨハネ》が浮かべるような意味深な笑みだった。


 結局繋いだまま最後まで展覧会を回ってしまった。今回は蜘蛛を取り上げているだけ、非常にユニークな作品が並んでいた気がする。アトリエの近くにいい蜘蛛の巣を見つけるたびに嬉々として紙で採取してできたという作品があったりとか。それが壁に八十点。ある意味、壮観な光景だった。


 その後、昼食を美術館二階のおしゃれなレストランで食べた。ほろほろになるまで柔らかく煮込まれたポークステーキが絶品で、菱川さんがデザートまで付けてくれた。大菩薩菱川さんに感謝してもし足りないぐらいだ。


 なんという幸せ。

 美味しいものを好きな人と食べると、さらに美味しさが増すと言いますか。ふふふ……。


 今日の私は非常に浮かれていたのである。帰り道、駅までの急な坂道を下りるときまでは。


 決定的にまずかったのはその前、美術館のお土産コーナーで、同じ絵葉書を覗き込んでいた時だったんだと思う。


 一枚の絵葉書を手に持って、いいですね、と菱川さんに呼びかけたところ、耳元で囁かれそうなぐらいに顔が近くて。かあっと熱が上って。気づけば菱川さんとの間をあけるように手を突き出していた。


 すみません、と反射的に謝ったけれどどうしようもなかった。一見菱川さんの態度は変わっていないようだった。……でもそれだけで終わるはずもない。


 一瞬だけ、菱川さんは傷ついたような表情を見せたのだ。


 一生忘れられそうにないと思った。


「しばらくは、手を繋ぐだけにしようか、梢さん。それ以上のことは何もしない。約束する」

「菱川さん、さっきのは私が悪かったんです。意識しすぎてしまって」

「わかってるよ」


 菱川さんは私の頭に手を伸ばそうとするも、一瞬止まる。真面目な顔を作って、


「頭を撫でるのはありということで」


 宣言をしてから実行に移す。

 しばらくは猫のように撫でられていた。


「それだけ男として意識してもらっているってことなんだよね? なら、多少待っていたっていいと思うんだよ。それにこれは僕の自業自得という部分もあるからね。……この間は本当にごめんね、歯止めがきかなくなってしまって」

「……あれぐらい、私だって大人ですから覚悟していました」


 と、言いつつ、明後日の方角を見やる私。見えない夕日がそこにあるようだ。


そういえば、と菱川さんの声にもう一度向き直る。


「梢さん、キスするのは初めてだった?」


 う、と詰まる私。


「初めてですよ……。付き合った人はいましたけど、メールのやり取りぐらいで終わってしまいましたし。……こうやってちゃんとデートして、お付き合いしているという感覚になるのは、菱川さんが初めてで……」


 もだもだと言い訳がましく言ってみるけれど、途中から「あれ、だいぶ恥ずかしいこと言ってるんじゃ」と思い始めて、声は尻すぼみになる。


「そっか……」


 菱川さんはしみじみと、嬉しさを噛み締めた顔になっていた。冗談めいたように、


「梢さんの初めての男になれて光栄だよ」


 発言が意味深じゃないでしょうか、菱川さん。……あれ、でも間違っていない? 

 気にしちゃいけない。きっとそこまで含めての発言ではないはずだよ、うん。


 人目がないのをいいことに、繋いだ手をぶんぶん振ってみた。菱川さんも笑って付き合ってくれた。


「そうだ、さっきの話の続きだけれど。いつなら解禁してくれる?」

「解禁というと……」

「ハグとキスだね」


 さらっと爽やかに告げる菱川さんは今日も清々しいほどのキシリトールぶりだった。でも、黒縁眼鏡の奥にある瞳は、何だかそういう爽やかさとは無縁の何かがあるようで、そのギャップにどぎまぎしてしまう。

 私は前開きだったコートの前を閉めた。その間に答えが出るかと思ったけれど、何も出ず。


 解禁、解禁……。ボジョレー・ヌーヴォーの解禁はとっくに過ぎてしまったしなぁ。

 冬の間、というのも酷な気がしてくるし……どれが適当なんだろう。


 私が、対菱川さんに順応するとき? それって曖昧過ぎない?


 考え込む私に、菱川さんは苦笑い。


「困らせたいから言ったわけじゃないんだけどな……。僕の方は準備万端だから、いつでもいいよ」


 菱川さん、その、「いつでも」とか「どれでも」というのはなかなか難しいものでして。


「うーん……」


 駅前の遊歩道を歩きつつ、菱川さんを見上げる。


 ……本人にはまだ言えていないけれど、最近は会えないと、たまにとてつもなく「抱き付きたいなぁ」なんて思うときもある。菱川さんにされるんじゃなくて自分からだったら、タイミングが計れそうだし、意外と何とかなりそうな気もする。もちろん実行したことはないけれど、我が愛犬モモに抱き付く要領ならいけるんじゃないだろうか。モモは犬だから抱きしめかえしたりしないけれど……。


 何ともいいことを思いついた。テンションがハイになった私はさっそく実験を開始した。


 自分のマンションに送ってもらった時、周囲に誰もいないことを確かめてから、菱川さんの目を見ないようにして、えいやっと勢いをつけて胸に飛び込んでみた。


「……えっ?」


 菱川さんの驚いた声が頭上に響く。身体がびくっと震えたところからも、不意打ちが成功したのは明らかだ。あの菱川さんが驚いている……私をいつもどきどきさせてきた菱川さんが……。カチッと私の中のいけないスイッチが押されている気がする……! 私の中で眠っていた悪戯心スイッチが……!


 少し離れて、菱川さんの顔を見れば恥ずかしさはぶり返してきたけれど、これで一つ立証されたことがある。


「菱川さん……私、抱き付くぐらいなら、自分からの方がハードルが低いようです」

「そうみたいだね……」

「なので、しばらくは菱川さんからじゃなくて、私のタイミングに合わせてもらってもいいですか? きっと、自分からキス……できるぐらいになったら大丈夫になっていると思います、たぶん」


 菱川さんは微笑んだ。


「つまり、梢さんからのキスで解禁ってこと?」

「そ、そうですね……」


 ……あれ。私かえってとんでもないこと言ってる? 言ってるよね? 回り回って、次にキスするときは自分からって……。


 墓穴だ。とんでもない墓穴を掘ってしまった!


 けれども訂正する間もなく、話は容赦なく進んでいった。


「わかった。雰囲気づくりにはいつでも協力するよ」


 ではまた今度、と去り際に菱川さんは手を伸ばして、私の唇に人差し指を乗せていく。


 呆然と取り残される私。



 今の行動はどういう意味ですか、菱川さん!

 これからこんなふうにガンガン攻めていくのでよろしくねって意味ですかー!


 声にならない叫びは冬の寒空に吸い込まれていく。

 世間は冬。菱川さんと私の解禁日をめぐる駆け引きの始まり……になるかもしれない。





 










 

梢さんはなんだかんだと菱川にだいぶ慣らされているのではないかと

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