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公爵夫人は謎解きがお好き  作者: 灰猫さんきち
第2章 公爵夫人の魔力相談室

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08:公爵様の初めてのおでかけ

 呪いが解け、偽りの契約が真実の愛に変わってから。

 賢者の塔には穏やかで、そして少しだけ甘ったるい空気が流れている。原因は目の前で私の淹れた紅茶を、うっとりとした顔で飲んでいる我が夫、セオドア・アシュベリー公爵、その人だ。


「やはり、アリアーナの淹れる紅茶が一番だ」


「お気に召して何よりですわ、セオドア様」


 私はにっこりと微笑んで見せたが、内心では盛大にため息をついた。


(誰よ、この甘い台詞を臆面もなく口にする男は)


 ついこの間まで眉間に谷間のような深い皺を刻み、「私に構うな」オーラを全身から発していた呪われた公爵様はどこへ行ってしまったのか。無感情だった白皙の美貌は、今やデレデレとした愛情を隠そうともしない。今の彼は妻の淹れた紅茶を褒めるのが日課の、ただの愛妻家である。

 いや、呪いが解けて人間らしい感情を取り戻したのは大変喜ばしいことなのだが、この急な変化にはさすがの私も時々めまいがする。


「どうかしたか? 私の顔に何かついているか?」


「いいえ、何も。ただ、あなたのそのお顔もすっかり見慣れたものだな、と」


 呪いの苦痛から解放された彼の顔立ちは、以前のガラス細工のような冷たさが消え、人間味のある柔らかな光を宿していた。元々の造形が美しすぎるせいで、ただそこに座っているだけでまるで名画の一部のようだ。まったく目の毒である。


「なあ、アリアーナ」


「はい、なんでしょう」


「君は、欲しいものはないのか?」


 唐突な問いに私は首を傾げた。


「欲しいもの、ですか? 特にこれといっては……。この塔には、一生かかっても読み切れないほどの本がありますし」


「物以外でもいい。何かしたいこととか、行きたい場所とか」


 真剣な青灰色の瞳が私を見つめている。どうやら彼は、塔に籠もりきりの私を気遣ってくれているらしい。どこまでも不器用で、そして優しい人だ。


「では、一つだけ」


 私は悪戯っぽく微笑んでみせた。


「王都へ、お買い物に行きませんか? 二人で」


 その瞬間、セオドア様の動きがほんのわずかに固まった。

 無理もない。呪われていた長い間、彼はこの塔から一歩も出ていない。彼にとって外の世界は、未知の領域そのものだ。大勢の人間、雑多な魔力の流れ。それらが今の彼にどう影響するのか、正直、私にもわからない。


「もちろん、無理にとは言いません。ただ、あなたが良ければ、と」


「いや」


 彼は私の言葉を遮るように、はっきりと告げた。


「行こう。君と、行きたい」


 その瞳に宿る、わずかな不安とそれを上回る強い意志。

 私は思わず苦笑した。まるで、初めてのおつかいに送り出す母親の気分だわ、とシニカルに思いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。



+++




 数日後、私とセオドア様は人々の活気で溢れる王都の中央広場にいた。


「すごい……これが、市場か」


 セオドア様は子供のように目を丸くして、色とりどりの果物や、香ばしい匂いを漂わせる屋台を眺めている。その無邪気な様子が微笑ましくて、私は自然と頬が緩むのを感じた。


 だがそんな穏やかな時間は、長くは続かなかった。

 どこにいても、美しく気品に満ちた彼の存在は人目を引く。そして、その隣にいる平民出の私に向けられるのは、あからさまな好奇と、時折混じる侮蔑の色だった。


「あれが、呪いの解けたアシュベリー公爵様?」


「なんてお美しい……。でも、隣の女は誰なのかしら」


「書庫官の娘ですって。まあ、平民の出だわ」


 聞こえてくる心ない声に平静を装いながらも、指先が冷たくなっていくのを感じる。わかっていたことだ。これが現実。私と彼の間には、決して埋まることのない身分の差が存在する。

 俯きそうになったその時だった。


「アリアーナ、顔色が悪い」


 隣から心配そうな声がかけられた。見上げると、セオドア様が私の顔を覗き込んでいる。その瞳は周囲の喧騒などまるで意に介していないかのように、ただ私だけを映していた。


「大丈夫です。少し、人に酔っただけ…………」


「嘘だ」


 彼は私の手をぎゅっと握りしめた。

 そして噂話に興じていた貴婦人たちの方へ、毅然とした足取りで歩み寄る。


「――聞こえているぞ」


 その声は決して大きくはない。だが絶対零度の静けさをたたえたその響きに、周囲のざわめきがぴたりと止んだ。

 彼は私の手を握ったまま、はっきりと告げた。


「彼女は、アリアーナ・アシュベリー。私の妻であり、私の命を救ったこの世で唯一の女性だ。彼女への侮辱は、私自身への侮辱と心得よ」


 その声は、かつて私を震え上がらせた冷徹な響きとは違う。愛する者を守るためだけの、力強く、そしてどこまでも優しい声だった。

圧倒された貴婦人たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていく。残された広場には、気まずい沈黙だけが漂っていた。


「……少し、やりすぎでは?」


 塔への帰り道、私は隣を歩く夫にそっと尋ねた。


「君のためなら、これくらい当然だ」


 彼は事もなげに言うと、私の手をさらに強く握りしめた。その不器用な優しさが、どうしようもなく愛おしい。


 その夜。塔の書斎で、二人きり。

 セオドア様は今日市場で買ってきたばかりの、蜂蜜がたっぷりかかった焼き菓子を一つ、おもむろにフォークで刺した。そして、それを私の口元へと、ぎこちなく差し出してくる。


「……あーん、か?」


「なっ……!?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。顔に火が集まるのがわかる。

 私が固まっていると、彼は悲しそうに眉を寄せた。


「違うのか? こういう時、こうするものだとアレクが……」


「……はい、あーん」


 あんなに悲しそうな顔をされて、逆らえるはずもない。観念して小さな口を開けると、彼は満足そうに、しかしどこか照れくさそうに、お菓子を私の口に入れてくれた。甘い蜂蜜の味が、心の中にまでじんわりと染み渡っていく。

 私たちは、どちらからともなく顔を見合わせ、そして、吹き出した。


 呪われた公爵様と偽りの花嫁。

 私たちの奇妙な関係は、こんな風に少しずつ本物の夫婦の形へと変わっていくのだろう。

 まあ、それも悪くない。この不器用で愛おしい人の隣でなら、どんな未来だって。きっと。


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