07:契約から真実へ
数日後。穏やかな日差しが差し込む部屋で、私は回復したセオドア様と向かい合っていた。
「……すまなかった」
彼は初めて素手で、おそるおそる私の手に触れた。ガラス玉のようだった灰色の瞳には、温かい感情の色が宿っている。その手は思ったよりもずっと温かかった。
「君を、危険な運命に巻き込んでしまった」
「いいえ。これは、私が選んだことです」
私がそう言うと、彼は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「アリアーナ。結婚の契約を、破棄してほしい」
その言葉に、私の心臓がどきりと跳ねる。
そう。私と彼の結婚は、一時的な契約に過ぎない。
彼は呪われていて、余命いくばくもなかった。私はただの平民で、兄の死の真相を知りたくて賢者の塔に飛び込んだ。ただそれだけだった。
呪いから解放されたセオドア様は、これから公爵として国を支える存在になるだろう。
妻である人は釣り合いの取れる、高位貴族や王族のお姫様でなくてはならない。私みたいな平民はお呼びじゃないのだ。
今まで契約とはいえ結婚できたのは、種々の事情が複雑に絡み合っていたから。それが解決した以上は、私はここを去らなければならなかった。
わかっていた。わかっていたはずだった。
なのにどうしてだろう、胸が締め付けられる。
もっとここにいたかった。彼の隣にいたかった――。
涙が出そうになる。けれど別れの時にみっともない真似はできない。
笑わなければ。お兄ちゃんを殺したヴァルデマール公爵は、罪が明らかにされて、きちんと報いを受けるだろう。
セオドア様は呪いが解けて、これからは孤独ではなくなるだろう。
それで十分じゃないか。
セオドア様は懐からあの羊皮紙の契約書を取り出し、私の目の前でゆっくりと破り捨てた。
私たちを唯一つなぐ紙切れを。
破れた契約書ははらはらと宙を舞って、少しずつ床に降り積もった。
私が涙をこらえながらその様子を眺めていると、彼は不思議そうに首を傾げた。
一歩、前に出る。
「そして、改めて申し込ませてほしい」
彼はその場でひざまずくと、私の手を両手で包み込み、真っ直ぐに見上げてきた。
今までの彼からは考えられないほど、素直で、真剣な眼差し。
「契約ではない、真実の愛で、君を私の妻にしたい。アリアーナ、結婚してくれませんか」
「え……!?」
頬を伝う涙を、私は止めることができなかった。
彼の言葉が信じられなくて、青灰色の瞳を覗き込む。涙が後から後からあふれて、視界がぼやけた。
セオドアは泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれた。指で涙を拭って、そっと囁く。
「アリアーナ、泣かないでくれ。まさか私と結婚するのが、そんなに嫌なのか……?」
その言葉はひどく真剣で、動揺しているのが手に取るようにわかった。
「貴族のしがらみや面倒から、全て全力で守る。君の手を煩わせることはしない。ただ、隣にいてほしいんだ――」
「ふふっ」
懇願するような口調に、つい笑みがこぼれてしまった。この人は本気だ。本気で私を愛してくれている。
貴族とか平民とか、そんなことは関係なく、一人の女として求めてくれている。
それが何よりも嬉しかった。
だから私は答える。目を閉じて、額と額を触れさせたまま。
「――はい、喜んで」
彼の手が頬に伸びて、唇に柔らかいものが触れた。
私の偽りの結婚生活は、こうして終わりを告げた。そして、本当の物語がここから始まるのだ。
+++
しばらく後。
賢者の塔の中庭では、あの日、小さな芽吹いた古木が、見事な白い花を咲かせていた。
「見てくれ、アリアーナ。君が来てから、この塔はすっかり明るくなった」
隣でセオドアが穏やかに微笑む。
「あなたが、素直になったからですよ」
私がそう言って笑うと、彼は少し照れたように視線を逸らし、私の肩をそっと抱き寄せた。
兄の死から始まった、偽りの契約。
それはたくさんの悲しみと謎に満ちていたけれど、確かに私を、このかけがえのない幸せへと導いてくれた。
空の上から、お兄ちゃんも笑ってくれているだろうか。
風に乗って運ばれてきた花の甘い香りを吸い込みながら、私はそっと、愛する人の胸に寄り添った。
――私たちの新しい生活が、これから始まる。
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