06:祝福
時間が引き伸ばされたようにゆっくりと動いていた。
セオドア様の苦悶の声。床に散らばる、砕けたティーカップの破片。そして私の心臓を鷲掴みにする、絶望感。
彼の身体から溢れ出す魔力は、もはや嵐などという生易しいものではなかった。塔そのものが軋んで悲鳴を上げ、空間が歪むほどの純粋な破壊の奔流。
彼は最後の理性を振り絞り、私を庇うようにその背を向け、一人で魔力の奔流に耐えている。まるで全世界の苦しみをその一身に背負っているかのように。
(……ああ、そうか)
絶望の淵で、私の思考は奇妙なほどに澄み渡っていた。
脳裏で今まで散り散りだったパズルのピースが、凄まじい勢いで組み合わさっていく。
――兄が遺した『器』『調律の波長』という言葉。
――セオドア様が言った『グレンジャー家の特殊な資質』。
――私が塔に来てから起きた、小さな変化の数々。
――嵐の夜、私の声に鎮静化した彼の魔力。
比喩でもなければ偶然でもない。
すべて真実だったのだ。
「そういうことだったのね、お兄ちゃん……」
私こそが、この奔流を受け止める『器』。
私こそが、乱れた波長を正す『調律官』。
兄はそれに気づき、私を彼に引き合わせようとしていた。そして、そのために殺された。
怒りと悲しみと、そして不思議なほどの使命感が、私の全身を貫いた。もう臆病な書庫官の私ではない。恐怖を振り払い、私は覚悟を決めて立ち上がった。
「セオドア様、聞いて!」
私の声は、魔力の轟音にかき消されることなく、凛と響いた。
「あなたの力は呪いじゃない! ただ、行き場をなくしているだけなの! 私が、あなたの『器』になる!」
それは彼にだけでなく、自分自身に言い聞かせる誓いの言葉。
兄の手帳にあった、魂の波長を共鳴させるための短い詠唱を――私自身の解釈で、想いを込めて紡ぎ出す。
『――その奔流、我が魂に注ぎたまえ。我が波長、汝の魂に届きたまえ。今こそ、孤独の戒めを解き放て! 静かの海へと流れ出て、我が器を満たしたまえ!』
不完全だった詠唱が、正しい言葉と音律によって変わっていく。荒れ狂った魔力が戸惑うように揺れる。
私は走り出した。
契約で禁じられていた、彼との接触。その禁忌を破るため、私は暴走する魔力の渦の中心に向かって、ためらいなく手を伸ばした。
彼の黒い手袋を剥ぎ取り、その冷たい素肌に自らの手を重ねる。
その瞬間。世界は音を失い、まばゆい光に包まれた。
予想していた痛みも衝撃もない。ただ――温かい。濁流が清らかな泉に変わっていくような、圧倒的な浄化の感覚。私の魂が彼の魂と共鳴し、荒れ狂う魔力を優しく、穏やかな流れへと『調律』していくのがわかった。
彼の身体に禍々しく浮かび上がっていた呪いの紋様が、光の粒子となって霧散し、その下から精緻で美しい、祝福の印とも言うべき刻印が現れる。
光が収まった時、部屋には静寂が戻っていた。
+++
塔の入口、扉が勢いよく開かれ、騎士団長アレクシスの力強い声が響く。
「ヴァルデマール公爵! エリアス・グレンジャー殺害、およびアシュベリー公爵殺害未遂の容疑で逮捕する!」
今まさに立ち去ろうとしていたヴァルデマール公爵は取り押さえられて、顔を歪めた。
懐から小さな銀の筒がこぼれ落ちる。その中に僅かに残っていた粉薬を確かめて、騎士団付きの薬師が声を上げた。
「間違いありません。禁制の魔力薬です。効果が高すぎるゆえに、魔力暴走を引き起こす危険性のあるものです!」
「と、いうことだ。言い訳は法廷で聞こう、公爵」
「はっ。小僧め、まんまと罠にかけたというわけか」
ヴァルデマール公爵は唇の端を歪めた。
アレクシスはそれに構わず、部下の騎士たちに連行を命じる。
平民のエリアス殺害だけでは、公爵であるヴァルデマールを拘束する理由としては弱かった。しかし今回、セオドアの殺害未遂を現行犯に近い状況で押さえられたことで、話は変わった。
セオドアは死ぬつもりだったのだ。アレクシスとの打ち合わせで、その意志を示していた。
アレクシスは余命短い友の願いを叶えるつもりで、逮捕劇を引き受けた。
(だが、妙に静かだな。あいつが死ぬ時は、間違いなく魔力暴走を引き起こすはずだったのに。まさか……)
アレクシスの胸に希望が灯る。
そうして塔の主に報告をするべく、階段を登っていった。




