45:最後の調律
まばゆい光が収まった時、そこに立っていたのは、もはやラザラスという名の青年ではなかった。
背には純粋な魔力でできた六枚の光の翼。感情の色を失い、ただ紫色の光で満たされた瞳。それは、自らを神と称するにふさわしいほど神々しく――魂の底から凍てつくほどに禍々しい「何か」だった。
「――我は新世界の神なり。古き世界の咎人よ、その身に裁きの光を受けよ」
その声は複数の男女の声が混じり合ったような、奇妙な響きを含んでいた。
彼が、いや、『それ』が片手を振りかざすと、聖堂の空間そのものが歪み、私たちに襲いかかってきた。セオドアが即座に展開した幾重もの防御結界が、まるで薄いガラスのように、あっけなく砕け散る。
あれほど苦戦していたケルベロスさえ、空間の歪みに飲み込まれてあっさりと消えた。
「くっ……!」
「セオドア!」
これまでの幻影兵など児戯に等しい。天変地異のような純粋な力の奔流。私たちはただ防戦一方に追い込まれた。しかも確実に追い詰められている。私の胸のペンダントも、悲鳴のようなきしみ音を立てている。
絶望的な攻防の最中、私は「調律」の力で感じ取っていた。
ラザラスはあの強大な力を、全く制御できていない。彼の魂はマナ・クリスタルから流れ込む巨大すぎる魔力の奔流に飲み込まれ、悲鳴を上げている。彼の掲げた「救済」という理想は、とっくに暴走している。これはもはや救済ではない。すべてを無に帰す、狂気の「浄化」だ。
「あれは神などではない!」
セオドアが、吐き捨てるように叫んだ。
「自らの力に溺れた、哀れな子供だ!」
彼もまたラザラスの攻撃が、ただ力の奔流を垂れ流しているだけであることを見抜いていた。だがその子供の癇癪が、このままでは大陸全土を消し飛ばしかねない。
その時、私はセオドアの瞳にある覚悟が宿るのを見た。
それはかつて私を救うために彼が選んだ道とは逆の、すべてを自分一人で背負おうとするもの。たった一人きりで世界から消え去ろうとする、あまりに孤独で悲しい覚悟だった。
「アリアーナ、君だけは逃げろ! アレクシスに連絡を!」
セオドアはかつて自らを蝕んでいた呪いの術式を、その身に再び刻もうとする。暴走するマナ・クリスタルの魔力を、すべてその身に封じ込めるつもりなのだ。そうすれば莫大な魔力は、彼の体と魂を飲み込んだ後に崩壊して消えるだろう。
私は彼の前に立ちはだかった。
「いいえ、セオドア。あなたを一人にはさせません」
涙が頬を伝う。
「私たちは、二人で一つなのですから」
あなたが再び孤独の闇に沈むくらいなら、私も共に。
私の覚悟に、彼は息を呑んだ。
「……アリアーナ」
「私が、暴走するマナ・クリスタルそのものを『調律』します」
私は、最後の作戦を提案する。
「ですが、それには準備の時間と集中力が必要。だから、セオドア……お願いです。準備が終わるまで、私を守ってください。あなたが、私の最後の盾になって」
彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめる。ほんの少しの迷いは、私の危険を思いやってのことか。
しかし最後に、力強く頷いてくれた。
「承知した。必ず、守り抜く」
「ありがとう。……始めます」
私は目を閉じた。すべての意識を、暴走するマナ・クリスタルへと注ぎ込む。
セオドアが、私の前で最後の防御結界を展開する。ラザラスの猛攻が叩きつけられる。結界が砕けるたびに、セオドアの口から苦悶の呻きが漏れるのが聞こえる。血の匂いが私の鼻をついた。
(ごめんなさい、セオドア。もう少しだけ、耐えて……!)
私の意識は、もはやこの聖堂にはない。マナ・クリスタルと一体化して、その先にある大陸全土の地脈へと広がっていく。傷つき、泣いている大地の魔力に、私の魂が歌いかける。
それはもはや言葉ではない。
鎮まれ、と。穏やかであれ、と。
愛する故郷と愛する人の未来を願う、魂の歌。
究極の「調律」。
やがて私の意識がゆっくりと浮上した時、聖堂は嘘のような静寂に包まれていた。
暴走する魔力の奔流は止まっている。ザラスは光の翼を失って、ただの抜け殻となった青年の姿で、床に崩れ落ちていた。
マナ・クリスタルは、夜明けの空のような、穏やかで清らかな青い輝きを取り戻していた。
「……終わったのですね」
「ああ……終わった」
満身創痍のセオドアが、優しい手つきで疲労困憊の私を支えてくれていた。
私はふらつく足を叱咤して、床に倒れているラザラスに近寄った。銀の髪の青年は目を閉じて、まるで眠っているようにさえ見える。
――ごめんなさい。
ふと、声が聞こえた。
――ごめんね。僕、助けられなかったよ。
小さく貧しい村の風景が見えた。銀の髪の少年が、彼そっくりの小さな少女と手を取り合って座っている。二人とも痩せこけていて、生気が感じられない。
『みんな、死んじゃったね』
少女が言った。あどけない声だった。
『たべもの、なくなっちゃったね。おなか、すいたね……』
『待ってろ。兄ちゃんが、何か食べるものを探してきてやるから』
『ううん、いいよ。あたしのそばにいて。行かないで、おにいちゃん』
『でも、このままじゃひもじくて死んじゃうよ。行ってくる』
少年はふらつく足で立ち上がった。野山に分け入り、いくばくかの山菜や木の実をやっと見つけて戻ってくると――少女の命は尽きていた。
『……なんで』
少年が膝をつく。手に持っていたわずかな食物が、ばらばらと地面に散らばった。
『なんで! 僕たち、何も悪いことなんかしていないのに! なんで神様は助けてくれないんだ!』
やがて神官たちが死に絶えた村にやって来て、少年を引き取っていった。少年は聖職者として育ちながらも、心の底に神への不信感とこの世の救済を抱えながら生きていた……。
「…………」
ラザラスの心の奥底には、妹を助けられなかった罪悪感と自責の念がある。
たぶん彼は本気で、マナ・クリスタルによる救済を計画していたのだろう。それが妹のような被害者を産む事実からは目を背けて。
ラザラスの魂は、大きすぎる魔力で壊れてしまった。今残っているのは、彼の根源にある思い出だけだ。
彼がこれからどうなるのか、私にもわからない。
ただ……いつか自分を取り戻すことがあれば、犯した罪と向き合ってほしいと思う。二度と悲劇を生まないように。
そして、彼自身の心のために。
◇
数週間後。賢者の塔には、いつもの穏やかな日常が戻っていた。
国王陛下から、最大限の感謝の言葉を賜った。あの一件は隣国にも知られることなく、極秘裏に処理されたらしい。私たちの国から奪われた魔力は、マナ・クリスタルの正常化に伴って、ゆっくりと確実に元の土地へと還り始めているという。
全てが秘密のうちに始まって、終わった。だから私たちに栄誉はない。
でも、そんなものはどうだっていいのだ。私たちの力で国を、国に住まうたくさんの人々を救えたのだから。
……まぁ正直なところを言えば、報奨金はたっぷりもらった。アシュベリー公爵家は十分な資産家だが、お金はいくらあってもいい。
私の愛する天才魔道学者様が存分に研究するための資金になるし、私としても使い道は色々考える。
もう一つ。
すべての記憶を失ったラザラスは、王宮の地下で厳重な保護観察下に置かれている。
彼が自我と記憶を取り戻すかどうかはわからない。今はただ、心の奥底に残った悲しい思い出を抱いて、ぼんやりと毎日を過ごしているとのことだ。
中庭では、あの古い木が今年も美しい花を咲かせていた。
その下で、私は愛する夫の肩にそっと寄りかかる。
「私たちの戦いは、これで終わりでしょうか」
「いいや」
セオドアは穏やかに微笑んで、私の髪を優しく撫でた。
「始まりだ。この世界にはまだ我々の知らない謎や、救いを求める人々がいる。君と私、二人でならどこへでも行ける」
偽りの契約から始まった、私たちの物語。
それは国を救うという、想像もしなかった結末を迎えた。
そして今。無限の可能性を秘めた新しい日常が、ここからまた始まっていく。
「ええ、どこへでも」
私は頷き、彼の顔を見上げる。
温かい日差しの中、私たちの唇が、静かに重なり合った。
永遠の愛を誓う、夜明けの口づけだった。
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