40:潜入
賢者の塔の書斎は、いつになく緊張した空気に満ちていた。もはや即席の作戦司令室だ。壁に広げられた巨大な王国地図を前に、私とセオドア、そしてのアレクシスが、深刻な顔つきで向かい合っている。
いつも通りなのは黒猫のファントムだけ。彼は重苦しい雰囲気の人間たちを、不思議そうな顔で見上げていた。
「やはり騎士団を国境付近で大規模に動かし、陽動にかけるのが得策だろう。敵の注意をそちらに引きつけている間に、お前たちが潜入する」
アレクシスの提案に、セオドアは首を振った。
「いや、それは悪手だ。敵はこちらの魔力感知能力を警戒している。大規模な魔力の動きは、こちらの意図を悟らせるだけだ。これから泥棒に入りますと大声で宣伝するようなものだぞ」
「む……。ではどうするんだ」
「少数精鋭による極秘潜入。これしかない」
結論が出れば、具体的な方針が決まるのも早かった。
表向きは「新婚旅行で隣国を訪れる、物好きな貴族夫婦」を装って、敵の警戒網をすり抜ける。そして私が「調律」の力で遺跡の魔力的な防御網の最も薄い部分を探り出し、そこから侵入する。
(新婚旅行、ねえ。そういえば契約結婚と本当の結婚を二度もしたのに、新婚旅行はまだだったわ。ちょうどいいじゃない)
私は内心で、らしくない状況に皮肉な笑みを浮かべた。
潜入に必要な道具をリストアップしていた、その時のこと。
「……アリアーナ、少しついてきてくれ」
セオドアが、珍しく躊躇いがちな声で私を呼んだ。
彼の後に続き、私たちは塔の地下深くへと降りていく。やがて最奥、行き止まりまでやって来た。壁の前で彼が何事かを呟くと、石壁の一部が音もなくスライドし、隠し通路が現れた。その奥には、さらに厳重な魔法の封印が施された扉があった。
初めて見る場所に、私は思わず目を丸くした。
「ここは……?」
「……私の、過去の残骸だ」
扉の先にあったのは、もう一つの研究室だった。ひんやりとした時の止まったかのような空気。壁には無数の術式が書きなぐられ、棚には、およそ公爵家の研究室にはふさわしくない、危険な光を放つ魔法具が、静かに眠っていた。
姿を眩ます『幻影のマント』。
魔力探知を完全に遮断する『沈黙の護符』。
短時間だけ他人に変身できる『変幻の秘薬』。
それらはかつて彼が「呪われ公爵」だった頃に作り上げたもの。世界への憎しみと孤独の中で研究に打ち込んだ結果の産物、「負の遺産」だった。
どの魔法具も、使い方によっては極めて危険だ。厳重な警備をかいくぐり、人の目を欺く。犯罪に使うことすらできるだろう。
彼は自分の最も暗く醜い部分を、愛する妻である私の前に晒している。その青灰色の瞳には深い痛みと、わずかな恥じらいの色が浮かんでいた。
私は危険な魔法具の数々を見ても、何も言わなかった。ただ彼の隣に立って、その冷たい手をそっと握りしめた。
「あなたが、これほどまでに追い詰められていたということ。そしてこれだけの力を持ちながら、それでも決して道を踏み外さなかったこと」
私は彼の目を見て、はっきりと告げた。
「私はそんなあなたを、心から誇りに思います」
セオドアの強張っていた肩の力が、ふっと抜けるのがわかった。長く彼を縛り付けていた過去の呪いの最後の棘が、ようやく抜けたような、救われた子供のような表情をしていた。
「――ありがとう。君はいつでも私の救いの女神だ、アリアーナ」
「ふふ。大げさですよ」
私たちの間に、もう隠し事など何一つない。その事実が私たちの絆をまた深くした。
私たちは、潜入に役立ちそうな魔法具をいくつか選び出した。
そしてセオドアは、以前私に贈ってくれたあのペンダントを手に取った。そう、いつだったか、初めての夫婦喧嘩をした際にもらったペンダントだ。
彼はその石に、繊細な指先の動きで新たな防御術式を刻み込み始めた。
「君は、我々の『羅針盤』だ。君の力がなければ、この任務は始まらない。だから、何があっても君自身を守ってほしい」
ペンダントから、美しく温かい光が放たれる。彼の愛情が、形になったかのようだった。
数日後。まだ夜が明けきらない青い薄闇の中、私たちは塔の前に立っていた。
上質だが目立たない旅人の服をまとい、荷物には厳選した魔法具を隠し持っている。
「旦那様、奥様……どうか、ご無事で」
見送りに来たセバスチャンが、涙ぐむのを必死でこらえている。
番人さんはファントムを肩に乗せて、厳粛な面持ちで佇んでいた。彼は護衛としてついて来たがったが、中身がからっぽのリビングアーマーはどうしても目立つ。留守番をして賢者の塔とセバスチャンを守るよう、頼んだ。
「おう、死ぬなよ、二人とも」
アレクシスはいつもの軽口を封印し、固い表情で小さな筒を私に手渡した。
「何かあったら、すぐにこの信号弾を使え。たとえ国境を越えてでも、全軍で駆けつけてやる」
その言葉の重みに、私は強く頷いた。
準備は整った。
私とセオドアは、互いの顔を見合わせる。その瞳には、不安も恐怖もない。共通の敵に立ち向かう「同志」としての、静かで強い覚悟の光だけが宿っていた。
私たちは見送る皆に背を向けると、隣国へと続く道へ歩み出した。
私たちの前には、未知の危険。国家の運命を左右する大きな謎が待ち受けている。
賢者の塔の穏やかな日常は、遠い過去の記憶のようだ。
だが、不思議と心は凪いでいた。
愛する夫の隣であるならば、どんな戦いだって怖くない。自然とそう思えたから。




