04:歌声
そんなある日の午後。
研究に行き詰まった私は、解読した古文書の一節を何気なく口ずさんでいた。意味はない。ただその古い言葉の響きが、心地よかっただけだ。
すると向かいで資料を読んでいたセオドア様が、ピタリと動きを止めた。
「……今の詠唱、もう一度」
「え?」
「頼む」
真剣な声に押されて、私はもう一度同じ一節を詠唱する。否、詠唱というよりもただの口遊び、鼻歌のようなものだ。少々の気恥ずかしさが出る。
セオドア様はゆっくりと目を閉じる。彼の周りを漂っていた、ぴりぴりとした緊張感が和らぐのがわかった。まるで張り詰めていた糸が、ふっと緩むように。
「……不思議だ。君の声で聞くと、この呪われた魔力が少しだけ静まる気がする」
彼は薄く目を開け、呟いた。
青みがかった灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
私は言葉に詰まった。それは彼なりの気休めか、それとも呪いが見せる錯覚だろうに。そう考えようとしたのに、彼のあまりに真剣な眼差しに怯んでしまった。
この人は一体何を考えているのだろう。
この静寂の塔で、私の心にまた一つ、新たな謎が生まれていた。
その夜は激しい嵐に見舞われた。
窓ガラスを叩きつける激しい雨音。塔を揺るがす、巨人が怒鳴るような風の音。そして夜空を幾度となく引き裂く、青白い稲光。この世界が壊れてしまうのではと心配になるほどの激しさだった。
「セオドア様、もう休まれた方が……」
「いや、もう少しだ。この部分の解読が終われば、次の段階に進める」
研究室のランプの灯りの下、セオドア様の顔色は紙のように白かった。嵐の環境が負担になったのだろうか、彼の周りを漂う魔力が、普段よりもささくれ立っているのを肌で感じる。
私が新たな紅茶を淹れようと席を立った、その時だった。
ガシャン! と、甲高い音。
手に持っていたペンが床に落ち、セオドアは椅子から崩れ落ちるように蹲った。
「う、ぐ……っ!」
「セオドア様!」
駆け寄ろうとした私を、見えない壁が阻んだ。彼の身体から溢れ出した魔力が、雷雨のように部屋の中を荒れ狂う。本が本棚から乱れ飛び、インク瓶が砕け散り、羊皮紙が竜巻のように舞い上がった。ぴりぴりと肌を刺すような魔力の圧力が、私の呼吸を奪う。
そして何よりも、彼の魔力が彼自身を蝕んでいた。部屋に荒れ狂う魔力はほんの一部、その大部分がセオドアの体内で彼を傷つけている。顔に腕に禍々しい紋様が浮き出て、彼を苛んでいる。
これが呪い。これが魔力暴走――!
怖い……!
そう思った瞬間、脳裏に兄の穏やかな笑顔がよぎった。あの優しい兄が、こんな苦しみの中で死んでいったというのか。
――冗談じゃない。
(ここで見ているだけなんて、もうごめんだ!)
私は恐怖を噛み殺した。以前の手応えを――自分の声が彼の魔力に干渉した、あの不思議な現象を思い出す。あれは気のせいなんかじゃない。そう信じて、僅かでも効果が出るように祈る。
私は息を吸い込むと、震える声で詠唱を始めた。兄の手帳に記されていた、あの詩のような一節を。
『行き場を失った奔流よ、荒れ狂う魂よ、その波長は孤独にあらず……』
最初はか細く、雨音に掻き消されそうだった声が、次第に力を帯びていく。
詠唱はいつしか歌声へと変わっていく。メロディはただ、心に浮かんだもの。
すると信じられないことが起きた。浮遊していた本が重力を思い出したように床に落ち、壁を走っていた魔力の火花が静かに消えていく。まるで私の声が荒れ狂う魔力を宥め、その行き先を優しく示しているかのようだ。
「……はぁ、はぁ……っ」
やがて嵐は過ぎ去り、部屋には静寂が戻った。床に座り込んだセオドアが、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
「……なぜだ。なぜ君の声が、私の魔力に干渉できる……?」
「わかりません。でも、これは偶然ではありませんね。事実です」
二人だけの秘密。二人だけの、確信。
それが生まれた瞬間だった。彼はその青灰色の瞳に、今まで見たことのない色――希望と、そして同じくらいの罪悪感を浮かべていた。
(この人は、希望を見つけるのが怖いんだ)
この人は子どもの頃からずっと、呪いに侵されながら生きてきた。長生きはできないと言われ続けて、どう感じたことだろう。
ようやく見つけた宝物を前にして、その存在を信じられず、手が届かないと絶望している子供のよう。まったく面倒で、不器用で、そして……放っておけない人だ。
けれど同時に、私はもう一つの推測に気づいた。
兄の残した研究が、セオドアの呪いに作用した。兄が健在のまま研究を続ければ、いずれ解呪へと至ったかもしれない。
そうなれば、困るのは誰か。セオドアの叔父、財産を狙っているというヴァルデマール公爵……。
兄はやはり殺されたのだと、改めて確信した。
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