36:盗まれた首飾り1
夏の終わりの夕立が、賢者の塔の窓ガラスを静かに叩いていた。湿った空気が書斎に流れ込み、古い羊皮紙の匂いを一層濃くしている。
こんな雨の日は、熱い紅茶を飲みながら夫の隣で静かに本を読むに限る。これ以上ないほど平和で、理想的な時間。
だからこそ、老執事のセバスチャンが珍しく少しだけ眉間に皺を寄せて入室してきた時、私はその平穏が終わりを告げたことを悟った。
「奥様、旦那様。お取り込み中、大変申し訳ございません。至急、アリアーナ様にお会いしたいというお客様が……」
「アレクシス様かしら? 雨の中をずぶ濡れで駆け込んでくる姿が目に浮かぶわ」
私の軽口に、セバスチャンは首を横に振った。
「いえ……それが、女性の方でして。お名前は伺えませんでしたが、只者ではないご様子です」
応接室で待っていたのは、深いフードで顔を隠した一人のお客様だった。その佇まいは、雨に濡れたことによるものだけではない、切迫した空気をまとっている。
「人払いをお願いいたします、アシュベリー公爵夫人」
静かだが、芯の通った声だった。私とセオドアだけを残してセバスチャンを下がらせると、彼女は意を決したようにフードを取った。現れた顔を見て私は息を呑んだ。王妃陛下に長年お仕えしている、侍女長のマーサだったからだ。
「侍女長!? あなたがわざわざお越しくださるなど、一体何が……」
「突然の非礼、お許しください」
気丈に振る舞おうとしているが、目元は赤く腫れている。マーサは深く頭を下げると、震える声で本題を切り出した。
「王妃様の、お力になっていただきたいのです」
彼女の話は衝撃的なものだった。数日前、王妃の私室の奥にある宝物庫から、一揃いの首飾りが盗まれたのだという。
「盗まれたのは、『月影の首飾り』。王妃陛下が隣国からお嫁入りになる際に、今は亡き王太后様から贈られた、思い出の品でございます」
ダイアモンドがふんだんにあしらわれた首飾りは、非常に価値の高いもの。由来を考えれば、いずれ国宝となってもおかしくない。
それは金銭的価値以上に、王妃の心を支えてきた宝物だった。事件が公になれば、王城の威信に関わる。しかしそれ以上に王妃は、自分の私的な思い出が醜聞に晒されることを恐れて、公式の捜査を望んでいないのだという。
「王妃様はショックのあまり、お食事も喉を通らないほどで……」
マーサの目から、堪えていた涙がこぼれ落ちた。
「金銭的価値もさることながら、王妃陛下の心を支えてきた、思い出の宝なのです。どうか、王妃様のお心をお救いください」
その言葉は私の心を強く打った。これはただの盗難事件ではない。一人の女性の、大切な心を救うための依頼だ。
「……わかりました」
私は頷いた。
「そのお話、お引き受けします」
王家の私的な問題への介入は、本来なら避けるべきだろう。だが困っている人を前にして何もしないほど、私は冷淡な人間ではなかった。隣で黙って話を聞いていたセオドアが、私の手の上にそっと彼の手を重ねる。
私を見つめる青灰の瞳はどこまでも優しい。「君がそう決めたのなら」と語っていた。
「しかし、調査には王城の協力が不可欠だ」
とセオドアが言う。
「こういう時に便利な友人がいる」
彼が言う友人とは、もちろん一人しかいない。セオドアが魔術通信で連絡を取ると、数分後には「面倒ごとはごめんだと言っているだろう!」というアレクシスの怒鳴り声が、部屋に響いた。
「アレクシス、お前、さんざん私たちに面倒事を持ち込んだじゃないか。借りを返すいい機会だぞ?」
「うっ、それは……。仕方ない、今回だけだからな」
そんなやり取りが聞こえる。
アレクシスは言葉ほどには迷惑に思っていないようで、すぐに動いてくれた。まったく夫も夫の友人も、素直ではない。
結局、国王陛下の内々の許可を取り付けたアレクシスに案内されて、私たちは問題の宝物庫へと足を踏み入れた。そこは王妃の私室の奥にひっそりと存在する、小さな部屋だった。
「見ての通り、完璧な密室だ。扉の錠前は壊されていないし、部屋を覆う魔力結界にも異常はない」
アレクシスがお手上げ、といった様子で肩をすくめる。セオドアが壁や床を丹念に調べている間、私は部屋の中央に立ち、目を閉じて意識を集中させた。
「調律」――。
犯人が残した魔力の残滓を探るが、あまりにも希薄。プロの仕事だ。だが私の感覚は、その希薄な魔力のさらに奥に、別の何かがあるのを捉えていた。
犯人のものではない。悪意も恐怖も焦りもない。ただ純粋で、いっそ無邪気な……まるで『小さな生き物の好奇心』のような感情のきらめき。




