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公爵夫人は謎解きがお好き  作者: 灰猫さんきち
第2章 公爵夫人の魔力相談室

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35:書庫の幽霊3

 セオドアの青灰の瞳が、真実を射抜くように細められる。

 犯人は亡霊騒ぎで夜間の警備体制に混乱を生じさせて、その隙に禁書庫から本を盗み出した。そんな芸当が可能なのは、書庫の内部事情に精通した職員しかいない。

 そして私の脳裏に、ひときわ怯えた様子を見せていた後輩の顔が浮かんだ。

 魔法の才能に恵まれず、それでも知識への強い憧れから、必死に勉強して書庫官になった青年。

 セオドアが語った「才能のない者が渇望した魔術」という言葉が、レオ・ラングドンの姿に見事に重なった。


(まさか……レオ? あの真面目な彼が、こんな手の込んだことを?)


 ありえない、と思いたい。だが状況証拠は全て、一人の気弱な青年を指し示していた。私の疑念は、ゆっくりと確信に変わり始めていた。







 その夜、王立中央書庫はしんと静まり返っていた。閉館後の書庫は昼間のざわめきが嘘のように、まるで知識そのものが眠りについているかのような静寂に包まれている。私とセオドアは巨大な書架の影に身を潜めて、息を殺して待っていた。


「本当に、返しに来ると思う?」


「ああ」


 セオドアは静かに頷いた。


「犯人は知識を渇望したが、それを悪用するほどの悪意はない。むしろ、自分の罪の重さに怯えているはずだ。盗んだものを元の場所に戻すことで、少しでも罪を軽くしたいと願うだろう」


 その言葉に私の胸はちくりと痛んだ。どうか私の考えすぎであってほしい。あの真面目な後輩が、道を踏み外したりなどしていないと、心のどこかでまだ願っていた。


 月が窓から差し込み、床に銀色の筋を描き始めた頃、それは現れた。

 一人の人影が、足音を忍ばせながら禁書庫へと近づいていく。月明かりに照らされたその顔は、やはりレオ・ラングドンだった。彼は禁書庫の扉を慣れた手つきで開けると、一冊の禁書を元の場所に戻そうとする。間違いない、盗まれた書物だった。

 その手が書架に触れた瞬間、私は影から姿を現した。


「レオ。そこで何をしているの」


「……ア、アリアーナ先輩っ!」


 彼は悲鳴のような声を上げ、その場に凍りついた。背後からセオドアが姿を現すのを見て、レオは全てを悟ったように顔を青ざめさせた。観念した彼の肩は、小さく震えていた。



+++



 レオの告白は、私たちが予測した通りだった。

 レオはいつも自分の魔法の才能のなさを嘆いていた。偉大な賢者たちの知識が眠るこの書庫で働くうちに、焦りと劣等感に苛まれた。「せめて知識だけでも彼らに追いつきたい」。その純粋な渇望が、彼を禁書へと向かわせた。


『魂魄転写の謬見』を使えば、賢者の思考を直接自分に移せるのではないか。そんな淡い、愚かな期待を抱いて。亡霊騒ぎは、彼の乏しい魔力で作り出した苦肉の策の幻影魔法だった。


「でも、僕は……僕には、この本に書かれた術式を、一行たりとも理解できませんでした」


 レオは、ぼろぼろと涙をこぼした。


「その時に気づいたんです。僕がやろうとしていたことが、どれだけ愚かで、取り返しのつかないことだったのか……。怖くなって、ただ、本を返せば元に戻れるんじゃないかって……」


 彼の魔力を「調律」すると、渦巻いていたのは悪意ではない。深い後悔と自己嫌悪の感情が心を縛り付けている。私は彼の前に進み出て、語りかけた。


「知識は誰かから奪うものでも、楽して得るものでもないわ。一頁ずつ、自分の力で着実にめくっていくからこそ、本当の力になる。あなたには、その真面目さがあるはずよ。レオ」


 その時だった。物陰から、もう一つの人影が現れた。父、グレンジャー書庫長だった。彼は、最初から全てを聞いていたのだ。

 父はレオの前に立つと、厳しい表情でこう告げた。


「お前のしたことは、書庫の信頼を揺るがす大罪だ。本来なら、即刻騎士団に突き出して……」


 父は一度言葉を切り、私の顔を見た。そして、ふっとその険しい表情を緩めて続けた。


「……だが、知識を渇望するその気持ちだけは、この私も痛いほどわかる。書庫官たるもの、誰でもそうだろう。罰は受けてもらう。レオ・ラングドン、お前には罰として、この書庫の全ての蔵書の整理と修復を命じる。一人で、だ」


 それは解雇よりも遥かに重い労働。しかし同時に、彼が書庫に残って本と向き合い続けることを許すという、父なりの最大限の温情だった。


「……はいっ、はいっ!」


 レオは床に膝をつき、子供のように泣きじゃくった。


 事件は、こうして静かに幕を閉じた。


 書庫の出口で、父は私たちに深く頭を下げた。


「アリアーナ、そしてアシュベリー公爵閣下。本当に、感謝する」


 そして、父はセオドアの目を真っ直ぐ見て言った。


「公爵。娘を……アリアーナを、頼む」


 それは頑固な父が、初めて心の底からセオドアを娘の伴侶として認めた瞬間だった。


「はい、もちろんです。私の命に代えても、お守りすると誓います」


 セオドアが差し出した手を、父が握った。


「命は代えなくていいですよ。二人で長生きするんだから」


 私が横から口を出せば、夫と父は笑った。


「ああ、そうだな。エアリスの――お前の兄の分まで長生きしてくれ」


「……ええ。もちろんです」







 賢者の塔に戻ると、いつもの穏やかな夜が私たちを迎えてくれた。

 番人さんはガシャリと兜の面頬を鳴らして、私たちを出迎えてくれる。黒猫のファントムは「な~ご」と鳴いて、私の足に頭を擦り付けた。


 セオドアは事件の報告書をまとめるため、念のため写し取っておいた『魂魄転写の謬見』の内容に目を通している。私は彼の隣でお茶を飲みながら、静かにその横顔を眺めていた。術式の他、古代の賢者の知識が断片的に書かれている。

 ふと、彼の動きが止まった。その青い瞳が、写本のある一点に釘付けになっている。


「どうしたの?」


「……いや、何でもない」


 セオドアはそう言って微笑んだが、その表情は微かに硬かった。

 彼が見ていたのは、禁書の本来の内容とはまったく関係のない、インクの違う文字で隅に書き殴られたような短い文章だった。


『……偉大なる救済は、大地の命脈を啜り、聖域にて成就する。偽りの神を打ち破り、真の調律を為す乙女が現れるまでは……』


 それはまるで不吉な予言だった。

 セオドアは、私がその文章をしっかりと読む前に、ごく自然な動きでそのページだけをそっと破り取った。そして何も言わずに暖炉へと歩み寄り、燃え盛る炎の中へと投げ入れた。羊皮紙は一瞬で丸まり、黒い灰となって消えていく。


「今、なんて書いてあったの? まだ読んでいなかったのに」


「いいんだ。関係のない戯言だったよ」


 平穏を取り戻したはずの私たちの日常のすぐそばで、何か巨大なものが、静かに動き始めている。

 私はまだ、そのことに気づいていなかった。


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