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公爵夫人は謎解きがお好き  作者: 灰猫さんきち
第2章 公爵夫人の魔力相談室

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33:書庫の幽霊1

 暗い闇の中に人影が蠢いている。


「ああ、駄目だ、駄目だ、駄目だ! また失敗してしまう!」


 悲痛な声は何に向けてのことだろう。人影は頭をかきむしり、床にうずくまる。

 ずいぶん長いことそうしていた後、やっとのろのろと起き上がった。

 罪の証、無能の証明。それらを抱えながら、人影はふらふらと闇を歩いていった。


 ◇


 賢者の塔の午後は、インクと古い羊皮紙の匂いで満たされている。

 私の夫、セオドア・アシュベリー公爵は、巨大な机に向かっている。常人が読めば一時間で正気を失いそうな古代語の魔術書を、まるで極上のデザートでも味わうかのように読み解いていた。その集中力は凄まじく、今この部屋に隕石でも落ちてこない限り、彼の意識が浮上することはないだろう。

 暖炉の前の絨毯では、半透明の黒猫の精霊ファントムが、時折ひげをぴくりとさせながら眠っている。穏やかな静寂。本に囲まれた理想的な環境。しかし、こういう静けさは、えてして厄介事の前触れなのだ。


(どうせもうすぐ、あの人が扉を蹴破らんばかりの勢いでやってくるに違いない)


 脳裏に浮かぶのは、夫の唯一無二の親友にして王宮騎士団長のアレクシス・ヴァーミリオン。彼がもたらす騒動は、もはや我が家の風物詩と化している。私は静かにため息をつき、読んでいた本のページを一枚めくった。


 だがその日の訪問者は、私の予想を鮮やかに裏切った。


「奥様、王立中央書庫より、書庫長様からの緊急のご伝言でございます」


 老執事のセバスチャンが恭しく差し出したのは、見慣れた父の紋章が刻まれた封蝋の手紙だった。緊急、という言葉に少し胸が騒ぐ。

 父が私用で賢者の塔に連絡してくること自体、極めて稀なのだ。

 手紙を開くと、父の角張った文字でごく短い要件だけが記されていた。


『内密に相談したいことがある。夫君と共に至急、王立中央書庫まで来られたし』


「……夫君、と来たか」


 思わず声が漏れた。あの頑固で、私の結婚に最後まで眉をひそめていた父が、セオドアを「夫君」と敬称付きで呼んでいる。これは天変地異の前触れか、あるいは父のプライドをへし折るほどのよほど深刻な事態が起きている証拠だ。

 私は本を閉じて立ち上がった。


「セオドア」


 声をかけると、魔術書の宇宙から彼の意識が一瞬で引き戻される。深い青灰の瞳が私を捉えた。


「どうした、アリアーナ」


「父からの呼び出しよ。あなたも一緒に、ですって」


 私が手紙を見せると、セオドアはすぐに事態を察したらしい。読んでいた本を静かに閉じると、さも当然のように上着を手に取った。

 私の頼みとあれば、彼はいつでも全てを投げ打ってくれる。それが少し気恥ずかしくもあり、何より心強かった。


 馬車に揺られて懐かしい王都の中央通りを進む。やがて見えてきたのは、知識の殿堂たる王立中央書庫の荘厳な姿だ。私もかつては、この場所で書庫官として働いていた。本の匂い、静寂、そしてページをめくる微かな音。私の原点はここにある。

 書庫に一歩足を踏み入れると、職員たちがどこか落ち着かない様子で働いているのが見て取れた。すれ違う顔見知りの後輩たちも、挨拶はしてくれるものの、その表情は硬い。書庫全体が不穏な空気に覆われているようだった。


 案内された書庫長室で、父は一人腕を組んで待っていた。


「来たか、アリアーナ。……それと、アシュベリー公爵閣下」


「お久しぶりです、お義父様」


 セオドアの礼儀正しい挨拶に、父は少し気まずそうに頷きを返す。私と結婚する前の、あの敵意むき出しの態度はもうない。

 まあ、結婚当初は愛のない契約結婚だと思われていたし、セオドアは触れるものを死に至らしめる呪いに侵されていた。親として敵意を持つのは仕方ない。もっとも父は、私たちがきちんと愛し合うようになってからもうるさく口出ししてきたけれど。


 その父も天才と謳われる公爵を前にすると、少し緊張するらしい。その顔には、ここ数日眠れていないことを示す深い隈が刻まれていた。


(ああ、この重苦しい空気。父のプライドがギリギリと悲鳴を上げているのが聞こえるようだわ)


 私は内心でため息をつき、早速本題に入ることにした。


「それで、お父さん。内密の相談とは何です?」


 父はしばらく沈黙した後、重い口を開いた。


「……二つ、問題が起きている」


 一つ、と彼が人差し指を立てる。


「ここ一ヶ月ほど、夜の書庫に『亡霊』が出るという噂が広まっている。青白い光を放つ書庫官の亡霊だそうだ。職員たちが怯え、夜間の業務に支障が出始めている」


 亡霊、という単語に私は眉をひそめた。この魔法が実在する世界でも、本物の幽霊譚はそうそうあるものではない。大抵は、誰かの悪戯か、魔力の誤作動だ。

 我が家の幽霊猫ファントムも、あれはどちらかというと幽霊というよりも精霊。魔法生物に属する。


「そして、二つ目」


 父の声が一段と低くなる。


「数日前、書庫の最奥にある禁書庫から、一冊の禁書が盗まれた」


 私は息を呑んだ。禁書庫の管理は、王国の知を守る書庫の根幹。そこが破られたとなれば、ただ事ではない。



お読みいただきありがとうございます。

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