32:騎士鎧の記憶3
私はそっと、金属の籠手に自分の手を重ねた。ひんやりとした感触。そして、全ての意識を集中させ、鎧の記憶の深層へと「調律」で同調していく。
――その瞬間、奔流のような記憶が私の精神になだれ込んできた。
(戦場の喧騒。鬨の声。馬のいななき。馬上から見る、誇らしい主人の姿)
(街の平和。人々の歓声。子供に手を握られ、くすぐったそうにする主人の優しい声)
(『お前のおかげで今日も戦えた。頼りにしているよ、相棒』。信頼を込めた眼差しと、丁寧に手入れされる感触)
(薄暗いこの倉庫。鎧を脱ぐ主人。『またすぐに戻る。ここで待っていてくれ』という言葉)
(閉ざされる扉。静寂)
(一日が過ぎる。一年が過ぎる。十年が、百年が過ぎていく)
(まだ、ですか。主よ。私は、まだ、ここにおります。お帰りを……待っています)
永い、永い時間。主の死を理解できないまま、ただひたすらに待ち続ける、純粋な魂。その途方もない孤独と悲しみが、私の心を直接打ち据える。
「……っ!」
あまりの感情の奔流に、私は意識を保てなくなり、よろめいた。セオドアが慌てて私の体を支える。
「アリアーナ!」
彼の心配する声が、遠く聞こえる。私の目からは、自分のものではない涙が、ひとすじ流れていた。
「彼の孤独は……あまりにも、永すぎたわ……」
青ざめた顔でそう呟くのが、やっとだった。
私を抱き留めたセオドアの体温が、辛うじて心を繋ぎ止めてくれた。
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セオドアの腕に支えられながら、私は必死に呼吸を整えた。鎧から流れ込んできた、途方もなく永い孤独の記憶。それは私の精神を激しく揺さぶり、まるで自分のことのように胸を締め付けた。
「大丈夫か、アリアーナ。やはりやらせるべきではなかった」
セオドアが心から心配そうな表情で、私の頬を撫でてくれる。心地よい指の感触が、心を落ち着けてくれた。
「ええ、大丈夫。彼の心がわかったわ。彼はただ、待ち続けていたのね。主の帰りを、ずっと……」
私が言うと、目の前の鎧がカタリと微かに震えた。まるで私の言葉に同意しているかのように。
セオドアは冷静な目で鎧を観察しながら、厳しい現実を口にした。
「だが、このままでは危険だ。彼の純粋な忠誠心は、永すぎる孤独によって非常に不安定になっている。いずれこの悲しみや戸惑いが負の感情に転化すれば、彼は本当に邪悪な魔物になりかねない」
正論だった。そうなれば、騎士団によって破壊されるのが彼の運命だろう。
「だからこそ、そうなる前に、私たちが彼を救わないと」
私はセオドアの腕から離れ、再び鎧の前に立った。
「力で封印するだけじゃだめ。そんなことをしたら、彼の魂は永遠に救われないまま、彷徨うことになるわ」
私の決意に満ちた目を見て、セオドアは少し考え込んだ後、静かに頷いた。
「……君の言う通りだ。ならば、答えは一つしかない」
彼は私の隣に立つと、鎧に向かって宣言した。それは私に聞かせるためでもあった。
「彼に、新しい役目と居場所を与えよう。アリアーナ、君が彼の心を鎮め、私が彼の体を安定させる。我々二人なら、それが可能だ」
そうだ、私たちならできる。この孤独な魂を、破壊ではなく救済へと導くことができるはずだ。
私は深く頷くともう一度、鎧の冷たい籠手にそっと手を重ねた。
折しも倉庫の天窓から月光が差し込んで、私と鎧とを包む。
「聞こえるかしら。彷徨える忠義の騎士よ」
私は語りかけるように、優しく「調律」の力を流し込む。先ほどのような激しい感情の奔流ではなく、静かな川の流れのように、私の想いを彼に伝えていく。
「あなたの主君は、もうこの世にはいません。その誇り高き魂は、とうの昔に天に召されたのです。あなたはもう十分に役目を果たした。永い間、本当によく待ち続けました」
鎧から、深い悲しみの波動が伝わってくる。
「けれどあなたの忠義と、人々を守りたいと願うその誇りは、決して消えたりしない。もし、あなたさえよければ……これからは、私たちのために、その力を使ってもらえませんか?」
私の言葉に応えるように、鎧の魂を縛り付けていた執着の鎖が、少しずつ解けていくのが分かった。
同時、セオドアが前に進み出た。鎧の胸当てに、人間であれば心臓がある部分に手をかざす。詠唱と共に、複雑な術式を光の線で描き上げていく。鎧の内部で不安定に揺らいでいた魔力核が、その術式に導かれて、次第に穏やかで安定した輝きを放ち始めた。
やがて全ての光が収まった時。
目の前の鎧は、ゆっくりと、しかし確かな動きで片膝をついて、騎士の礼をとるように深く頭を垂れた。それは、私たちの申し出を受け入れた、無言の誓いの証だった。
『――ありがとう――』
そんな声が、聞こえた気がした。
こうして彷徨う鎧は、賢者の塔の新たな住人となった。
私たちは彼を敬意と親しみを込めて「番人さん」と呼ぶことにした。彼は賢者の塔の玄関ホールに立ち、忠実な番人として客人の出迎えと夜間の警備という新しい役目を担っている。
驚いたことに、彼はすぐに黒猫の精霊ファントムと仲良くなった。ファントムは番人さんの硬い肩当ての上がお気に入りの昼寝場所になったらしく、鉄の騎士の肩で半透明の黒い毛玉が丸くなっている光景は、今や賢者の塔の微笑ましい日常だ。
番人さんもファントムを可愛がっていて、肩に乗る猫をぎこちない手つきで撫でている。主を遠い昔に亡くした者同士、何か通じるものがあるのかもしれない。
時折、アレクシスが騎士団の若手を連れてやって来ては、「番人殿に、ぜひとも稽古をつけていただきたい!」と大真面目に頭を下げる。番人さんは、その時ばかりは水を得た魚のように、騎士たちを相手に存分に剣を振るうのである。
今も目の前では、三人の騎士があっという間に吹き飛ばされた。
「番人さんの剣の腕は、なかなかのものね」
「…………」
すると彼は少し照れたように頬をかき、指先を私に向けた。その手を取れば、鎧の記憶が流れ込んでくる。
かつて彼を着込んでいた主が、剣の達人であったこと。主人の体さばきを記憶していたおかげで、鎧もとても強くなったこと。
そのような思い出が、誇らしさと少しだけの寂しさでもって感じられた。
私は微笑んで、鎧の金属製の腕を撫でるのだった。
訓練が終わると、執事のセバスチャンに丁寧に布で磨かれ、オイルを差されて、とても満足そうに玄関ホールの持ち場へと戻っていく。
主を失い、永い孤独の中を彷徨っていた騎士の魂。
彼はこうして賢者の塔で新たな役目と、ささやかな友人を得た。その鋼の体にはもう、あの夜に感じた悲しみの色合いはない。ただ穏やかで誇り高い光が、静かに宿っているように、私には見えた。
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