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公爵夫人は謎解きがお好き  作者: 灰猫さんきち
第1章 偽りの花嫁

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03:静寂の塔

 賢者の塔での生活は、静寂そのものだった。

 いや、静寂というよりは、無音に近い。塔の主であるセオドア・アシュベリーは、その存在感を意図的に消しているかのようだった。

 朝、顔を合わせることはない。昼は互いに書斎に籠もり、食事は別々。夜になれば、彼の部屋の扉は固く閉ざされる。まるで、同じ空間に住む幽霊か、居心地の悪い空気のような同居人。まあ私の方こそ、彼にとっては空気以下の存在なのだろうが。


「アリアーナ様、本日のお茶でございます」


「ありがとう、セバスチャンさん」


 そんな奇妙な生活の中で、唯一の癒やしはこの老執事との会話だった。彼はセオドアに心から仕えているようで、契約妻に過ぎない私に対しても常に敬意を払ってくれる。その皺の刻まれた顔には、主を案じる憂いが滲んでいた。


「何か変わったことは?」


「いいえ、特に。旦那様は相変わらず研究室に」


 セバスチャンはそう言うと、少しだけ躊躇うように言葉を続けた。


「ですが、アリアーナ様が来てくださってから、旦那様が夜中にうなされる回数が、少しだけ減ったようでございます。長年お仕えしておりますが、これほど穏やかな夜が続くのは、初めてかもしれません」


「……そうですか」


 私は曖昧に相槌を打った。単に気のせいだろう。あるいは私が来たことで、叔父君への牽制になって、彼の心労が少しだけ軽くなったのかもしれない。そう合理的に解釈して、私はその話題を打ち切った。


 塔での生活が二週間ほど過ぎた頃、私はもう一つの小さな変化に気づいた。

 中庭に一本の枯れかけた古木がある。もう何年も花をつけていないと聞いていたその木の枝に、小さな、本当に小さな緑色の新芽が一つ、顔を出していたのだ。


「まあ、季節が変われば芽吹くこともあるか」


 私はここでも、特に気にも留めなかった。兄の死の真相という大きな謎の前では、そんな些細な変化など、取るに足らないことのように思えたのだ。







「こちらが、エリアス様がお使いになっていた研究室でございます」


 セバスチャンの案内で通された部屋は、兄の生前の性格をそのまま映したかのように、几帳面に整頓されていた。インク瓶は綺麗に磨かれ、羽ペンは種類ごとに並べられている。

 ただ一点。部屋の中央に置かれた大きな机の上だけが、山と積まれた資料で溢れかえりそうになっていた。

アシュベリー家に伝わる呪いの起源に関する古文書の写し。各地の伝承を集めた分厚い本。そして、兄自身の筆跡でびっしりと書き込まれた研究ノート。


 兄がアシュベリー公爵の呪いについて調べていたのは知っていた。だが、この賢者の塔に部屋を構えていたとは初耳だ。

 私は書庫官、兄は王宮魔術師。仕事内容は隣接していても、重なってはいない。

 兄が生きていた頃よりも、彼について詳しくなってしまった。死んでからじゃ意味がないのに。


 ふと思う。アシュベリー公爵は触れた者の魔力を暴走させる。兄の死因は魔力暴走。

 公爵が触れた結果――故意か事故かはさておき――兄は死んだのではないか。そしてその謝罪なり贖罪なりで私に契約結婚を持ちかけたのではないか。


「いいや、違う」


 そこまで考えて、私は首を振った。

 公爵の呪いは触れてすぐに発動する。兄が死んだのは王城でのことだった。賢者の塔に幽閉されている公爵がいるはずのない場所だ。

 それに公爵はわざわざ『殺された』と言った。呪いのせいならばあんな言い方はしないだろう。


「まったく、お兄ちゃんも大変な宿題を残してくれたものだわ」


 私は思わずため息をつき、椅子に腰を下ろした。ここが、私の戦場になる。兄が何を突き止め、なぜ死ななければならなかったのか。その答えは、すべてこの紙の山の中に眠っているはずなのだから。







 それから数日、私は部屋に籠もってひたすら古文書の解読に没頭した。幸い古代魔法言語の知識は、この国では誰にも負けないという自負がある。兄がつまづいていたらしい箇所も、私なりの解釈で少しずつ読み解いていくことができた。


 そして一週間後、私は古文書の最初の章『始祖の制約』の解読を終えて、セオドア様の書斎の扉を叩いた。


「――以上が、第一章の概要です。どうやらこの呪いは、アシュベリー家の始祖が、自らに宿る強大な力を制御するために、自ら課した『制約』が始まりのようですね」


 私が報告を終えると、それまで無関心に紅茶を飲んでいたセオドアが、カップを置いて顔を上げた。その青灰色の瞳が、初めて私を『研究対象』や『契約相手』としてではなく、違う何かとして見ている気がした。


「……エリアスの言った通りだ。君ならできると、彼は信じていた」


 その声には、ごく僅かだが、感嘆のような響きが混じっていた。

「ただの契約相手から、ちょっとだけ昇格したらしい」と、私は内心で皮肉る。


 その日を境に、私たちの関係は微妙に変化した。

 食事は共に取るようになり、ティータイムには研究について議論を交わすようになった。彼は私を「アリアーナ」と名前で呼び、私も彼を「セオドア様」と呼ぶ。まあ、進歩といえば進歩なのだろう。

 おかげで静寂の暮らしは、ほんの少しばかり賑やかになった。


 共同研究が始まって、私は彼の意外な一面を知ることになった。

 彼は研究以外のことには驚くほど不器用で、自分で紅茶を淹れれば茶葉の量を間違えるし、シャツのボタンを掛け違えていることもしょっちゅうだった。

 おまけに相当な甘党らしい。

 先日、私が気晴らしに焼いたクッキーをセバスチャンに渡したところ、後でこっそりとこう耳打ちされた。


「アリアーナ様、旦那様があのクッキーを大変お気に召したようでした。『おいしい。また食べたい』と、わたくしには聞こえましたが、ご本人に尋ねても『そんなことは言っていない』の一点張りでして」


 まったく素直じゃない人だ。いや、呪いのせいで、自分の欲求を素直に口にする習慣を失ってしまったのかもしれない。そう思うと、胸の奥が少しだけちくりと痛んだ。


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