28:呪いの森と消えた娘2
森の中は、耳が痛くなるほどの静寂。鳥の声も虫の音も、風に葉がそよぐ音さえしない。木々は苦悶の中で踊っているかのように、枝を不自然にねじ曲げている。地面からは冷たい霧がまるで生き物のように這い上がってきて、私たちの足元にまとわりついた。
「……ひどいな。これは、確かに呪われていると言われても仕方ない」
セオドアが、珍しく眉を寄せた。だが彼の目に浮かぶのは、恐怖ではない。純粋な知的好奇心で輝いていた。
携帯用の分析器具を取り出すと、手際よく調査を開始した。
「この霧は、この土地特有の鉱石が、夜間の冷気と反応して発生する自然現象だ。静寂については、音を吸収する性質を持つ特殊な苔が、森全体にびっしりと生えているせいだな。木の枝の歪みは、地中に強い磁場が発生している影響だろう。……実に興味深い生態系だ」
魔法科学的な分析が、森の恐怖を一つ一つ解体していく。
では、魔力的にはどうだろう。
私は目を閉じる。「調律」の力をそっと森全体へと広げた。
悪意ある亡霊の気配はない。特定の誰かの強い怨念もない。
だが、感じる。この森の土地そのものに、何百年という歳月をかけて染み付いた、おびただしい数の名もなき女性たちの「悲しみ」と「無念」の感情の残滓を。
「……セオドア。この森は、呪われているのではありません。ただ、あまりにも多くの悲しい恋物語を、記憶しすぎているだけなのです」
「やはりな」
セオドアが頷いた。
「ウィリの伝説は、この特異な自然現象と、過去の悲恋の記憶が結びついて生まれた、ただの感傷的な物語だ」
そう。この森に呪いなど存在しない。悲しみの精霊であるウィリはいないのだ。
奇妙な環境を人々が恐れて、呪いとウィリの噂が立った。恋に破れた女性たちが噂を聞いて、この土地にやって来ることが増えた。彼女たちの悲しみの心を森が記憶して、さらに環境が変わっていく……。
この森は人の命を奪わない。
ではジュリアは、どこへ消えたのか。
調律の力が、もう一つの奇妙な真実を捉えていた。
森に残るジュリアの魔力の痕跡。そこから感じ取れるのは、「絶望」だけではない。その奥底に、鋼のように固く揺るぎない「決意」の波長が、確かに混じっていたのだ。
調査を進める中、湖畔にひっそりと佇む小さな古い祠を見つけた。
決定的な痕跡を発見する。
祠の中には、二種類の魔力が混じり合って残っている。その波長は真摯で、祈りを捧げるよう。一つは間違いなく、ジュリアのもの。そしてもう一つは……。
「セオドア。ここには、ジュリアさんと、……アルフレッド様の魔力が残っています」
「……なるほどな。答えは出たようだ」
彼の青灰色の瞳が、すべての謎を見通したかのように、静かに細められた。
賢者の塔に戻った私たちは、書斎で推理を整理していた。
「これは、失踪事件などではありません。ジュリアさんとアルフレッド様が二人で仕組んだ、壮大な駆け落ち計画ですね」
私が切り出すと、セオドア様は、暖炉の火を見つめながら静かに頷いた。
「ああ。それに協力者がいる。ジュリアの母親は間違いないだろう。あの過剰な嘆き方は、悲しみを演じている役者のそれだ。だが、もう一人……計画全体を裏で支える、もっと重要な人物がいるはずだ」
その人物に会うため、私たちは王都のとある邸宅を訪れた。
面会を求めたのは、アルフレッドの「本来の」婚約者、侯爵令嬢クラリッサ。王都の社交界でも類まれな美貌と知性、氷のような冷静さで知られる女性だった。
「まあ、アシュベリー公爵様と奥様。ようこそおいでくださいました」
彼女は、完璧な微笑みを浮かべて私たちを迎えた。その魔力は静かで、一点の乱れもない。まるで磨き上げられた鏡のようだ。よほど己を律するのに長けた人でなければ、こうはならない。
私は探りを入れてみた。
「クラリッサ様。婚約者様が村娘の亡霊に心を奪われてしまって、さぞお辛いことでしょう」
すると彼女は扇で優雅に口元を隠した。くすくすと鈴を転がすように笑う。
「いいえ、別に。愚かな殿方が、愚かな迷信に囚われているだけですわ。わたくしが嫁ぐのは、ベルンシュタイン伯爵家という『家』。アルフレッド様個人の心など、初めからどうでもよろしいの。とはいえ、彼が本当にいなくなってしまったら、当家として諦めるしかないでしょうね」
婚約者を突き放す、あまりに冷酷な態度だった。
だが、私は見逃さなかった。
完璧な芝居の裏側で、その魂が歓喜に打ち震えているのを。彼女の魔力は、決して冷たいのではない。むしろ、「解放された喜び」と、「計画が上手くいくことへの期待」で、きらきらと楽しげに輝いている。ごくわずかな輝きだったが、間違いなかった。
(……この人も、共犯者だったのね)
彼女もまた、愛のない政略結婚という名の呪いから、逃れたがっていたのだ。
アルフレッドとジュリアの駆け落ちは、彼女にとっても、自由を手に入れるためのまたとない好機だったというわけだ。




