27:呪いの森と消えた娘1
暗い夜の森の闇の中を、一人の女が歩いている。夜闇に浮き立つような白いスカートが、ひらひら、ひらひらと歩くたびに揺れていた。
「愛しい、愛しい、あなた」
歌うように呟かれたのは、愛の言葉。小さな小さな呟きは、森に立ち込める霧が吸い込んでしまう。
女は夢の中で踊るような足取りで、森を進んだ。暗い森、霧の立ち込めるその先へと。振り返らず、闇だけを見て。
やがて彼女の姿は完全に夜に飲まれて、見えなくなってしまった。
◇
賢者の塔での私たちの日常は、今では様々な形に変わっている。ある日は古代魔術の教科書を編纂する学者。またある日は、人の心の絡まった糸を解きほぐす相談室の主。
そして今日の私たちは、古い悲恋劇の幕間に迷い込んだ、探偵役を演じることになったらしい。
「息子が、アルフレッドが、あの森で死んでしまう! あいつは、ウィリに魅入られてしまったのだ!」
応接室のソファで、そう叫ばんばかりに訴えているのは、湖畔の領地を治めるベルンシュタイン伯爵。その頑固そうな顔は、深い疲労と、それ以上の恐怖に歪んでいた。隣では、噂の息子であるアルフレッドが、美しい顔を憔悴させて虚ろな瞳で床の一点を見つめている。
事件の概要は、こうだ。
一週間前のこと。アルフレッドが愛した村娘、ジュリアという名の少女が忽然と姿を消した。原因は、アルフレッドに伯爵家が決めた政略結婚の相手がいることを知ってしまったこと。彼はその事実をジュリアに隠していた。真実を知った彼女は、裏切られたショックで狂乱。そのまま領地の外れにある「ウィリの森」へと走り去り、二度と戻ってこなかったという。
(……ずいぶん、劇的な展開だこと)
私の皮肉っぽい部分が呟いた。
問題は、その「ウィリの森」にあった。
その森には、古くから不吉な伝説が根付いている。
――結婚を約束された男に裏切られ、心を病んで死んだ乙女たちの魂は、亡霊「ウィリ」となる。ウィリは純白のドレスをまとい、夜な夜な森に現れては、その美しい舞で迷い込んだ不実な男を死ぬまで踊らせ続けるのだ、と。
領民たちは、ジュリアも悲しみのあまりウィリの一員になってしまったのだと、固く信じ込んでいるらしい。
「息子は、毎晩のように、あの呪われた森へ入ってジュリアを探しているのです! このままではウィリに魅入られて、殺されてしまう!」
伯爵の嘆きはずいぶんと身勝手だ。彼が心配しているのは、消えたジュリアの安否ではない。息子のアルフレッドが彼女の後を追って死んでしまうこと、ただそれだけ。
「どうか、アシュベリー公爵様、奥様! あの森の呪いを解き、息子の目を覚まさせてはいただけないでしょうか!」
貴族と村娘の悲恋。不吉な迷信。そして、息子のことしか考えない父親。
悲劇としてはあまりに出来すぎている。何か裏があるのではないか。
そっとセオドアに目配せすれば、頷きが返ってきた。
「わかりました。ご依頼、引き受けましょう」
こうして、新しい仕事が始まった。
ベルンシュタイン伯爵領は、美しい湖の景色を臨む場所にある。けれど美しいのは風景だけで、古い因習と貴族のプライドという名の、重く湿った空気に満ちていた。
私たちはまず、ジュリアが暮らしていた村の小さな家を訪れた。質素だが清潔に整えられた家。彼女の母親だという女性が、泣き腫らした目で私たちを迎えてくれた。
「ああ、あの子は……ジュリアは、森の呪いに飲み込まれてしまったのです! 身分違いの恋は災いを招くと、あれほど言い聞かせていたのに……!」
母親は声を上げて嘆いている。娘を亡くした親の心を考えれば、嘆くのは当然だ。
けれど何というか、大げさなのだ。芝居がかっているというべきか。
ジュリアの部屋は綺麗に片付いている。整えられたベッドの上に、白い百合が一輪、忘れ物のように置かれていた。
白百合はウィリの象徴。処女のまま死んだ乙女たちの魂を表す花だというが……。
次に私たちは、問題の「ウィリの森」へと向かった。
森の入口の木の枝に、簡素なレースのリボンが結びつけられて、ひらひらと風に舞っている。
「あれが、ジュリアのリボンか」
「ええ。リボンがあったから、ジュリアは森に行ったとわかったそうですよ」
そんな話をしながら、森に一歩足を踏み入れた瞬間。空気が変わった。




