22:静寂の森1
賢者の塔での日常は、様々な事件を呼び込みながらも、基本的に穏やかで満ち足りたものだった。
「中庭の古木が、今日はとても機嫌が良いようです」
書斎の窓から見える景色は、かつては寂しく荒れた庭だった。それが今では緑が芽吹き、目にも優しい風景となっている。
枯れかけた枯木が息を吹き返して、生命の歌を歌っているように思えた。
向かいの椅子で難解な文献を読んでいたセオドアが、顔を上げて微笑んだ。
「それは君の『調律』の力が、より高次の共感性を獲得しつつある証拠だろうな。植物の微弱な魔力波長さえも、感情として読み取れるようになってきたということだ」
「まあ、大げさですね。ただ、なんとなくそう感じるだけですよ」
「その『なんとなく』こそが、君の才能の核心だよ、愛しのアリアーナ」
セオドアが手を伸ばして私の指に触れる。彼の素直な称賛の言葉と愛情あふれる仕草に、頬が赤くなるのを感じる。
出会ったばかりの頃の彼は、まるで人形のように感情を失くした人だった。魔力を暴走させる呪いに蝕まれていたために、自分にも他人にも壁を作り、誰にも心を許さなかった。孤独だったのだ。
それが今ではこれだ。美しい外見はそのままだけど、浮かべる表情はもう別人。
この塔に来たばかりの私が知れば「嘘でしょ!」と叫ぶことうけあいだ。まったくこの天才は、一度心の扉を開けてしまえば、どこまでも真っ直ぐな愛情を注いでくる。本当に敵わない。
そんな柔らかな午後の日差しが私たちの間に落ちていた、その時のこと。
老執事のセバスチャンが、少し困惑したような面持ちで来客を告げた。
「旦那様、奥様。王家の森林管理官を名乗る方が、ぜひお二人にお会いしたいと……」
応接室に通されたのは、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ実直そうな初老の男性だった。丈夫そうな革の服には、土と深い森の匂いが染み付いている。彼は私たちのような貴族を前にしてひどく緊張している様子だったが、その瞳には切実な憂いが宿っていた。
「公爵様、奥様。突然のご訪問、まことに申し訳ございやせん。わたくしは王家直轄の森、『静寂の森』を管理しております、ギデオンと申します」
「静寂の森……」
その名を聞いた瞬間、セオドア様の持つティーカップが、一瞬だけ動きを止めた。ほんの少しの動きだったけれど、私は見逃さなかった。
彼の表情は変わらない。だがその青灰色の瞳の奥にごくわずか、遠い過去を懐かしむような、痛ましいような光がよぎった。
森林官ギデオンの依頼は、これまでのどんな相談とも違っていた。
「森が……森が、少しずつ弱っているようなのです。原因が、まったくわからず……。木々は枯れ、動物たちは姿を消し、泉は濁ってしまいました。ただ枯れているのではありやせん。まるで、森全体が……生きることを諦めてしもうたような、そんな恐ろしい静けさなんでさぁ」
その言葉は、科学的な分析ではない。長年森と共に生きてきた者だけが感じ取れる、魂の感覚と呼べるようなもの。
「……わかった。すぐに調査に向かおう」
セオドアは即座に答えた。その声は静かだったが、いつもの知的な好奇心とは違う色彩が滲んでいる。
(静寂の森。セオドアが大切にしていた場所なのね)
私はそう直感した。
王都から馬車で半日。私たちは森林官のギデオンに案内されて、「静寂の森」の入り口に立っていた。
「昔は、そりゃあ見事な森でしてな。木漏れ日がきらきらと輝いて、鳥たちの声が絶えることのない、生命力に満ちた場所だったんでさぁ」
馬車の中で聞いたギデオンの言葉が、目の前の光景とのあまりの落差に虚しく響いた。
森に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
生命感のない、重く澱んだ空気。腐葉土の豊かな匂いではなく、乾ききった土埃の匂い。そして、耳が痛くなるほどの静寂。鳥の声も虫の音も、風に葉がそよぐ音さえしない。
わずかに聞こえる音といえば、足元でパリパリと虚しく砕ける落ち葉の音だけ。
「……ひどい」
私は思わず呟いた。ただ樹木が枯れているとか、そういうレベルの問題じゃない。森が森を形作るのに必要な、あらゆる命が枯渇している。森全体がまるで巨大な墓所のようだった。
目を閉じて「調律」の力をそっと森全体へと広げていく。血管が詰まったかのように滞る、淀んだ魔力の流れ。
そして感じた。森の奥深く、その中心部から発せられる、弱々しく苦痛に満ちた波長を。
「森が……泣いています。とても、苦しそうです。痛い、苦しい、と。何かにひどく怯えています。まるで、終わらない悪夢にうなされているようです」
私の言葉に、セオドア様は険しい顔で頷いた。彼は携帯用の分析器具を取り出すと、手際よく土壌の魔力伝導率を測り、枯れ枝のサンプルを採取していく。
「間違いない。魔力循環を担う植物細胞内の器官が、自己崩壊を起こしている。これは、外部からの魔力吸収ではない。何らかの情報汚染……いわば、魔術的な病原菌のようなものが、森の生態系そのものを内側から蝕んでいるのだ」
調査の途中、セオドア様が「少し、寄りたい場所がある」と言った。
案内されたのは、森の奥にある小さな泉だった。かつては澄んだ水を湛えていたであろうその場所は、今は濁りきっていた。水面には腐った葉が分厚い層をなして、魚の一匹も見当たらない。
彼はその泉のほとりに、ただ黙って佇んでいた。
私は彼の背中から、痛いほどの孤独を感じ取っていた。呪いが解けて私と結ばれて以来、全く見なくなった姿だった。
それが今、昔に戻ってしまったかのように寂しさを浮かべている。苦しかった頃の思い出が、彼を満たしているのを感じた。
「この森は、思い出深い場所でね」
セオドアがぽつりと言った。
「まだ呪いが悪化していなかった幼い頃、母に連れられて来たのがきっかけだった。私の呪いは生き物の魔力を暴走させて、死に至らしめる。植物も例外ではないが、森のようにたくさんの命が息づく場所であれば、呪いの効果は分散されて薄まるんだ。この森はかつての私が唯一、他の生命を感じられる場所だった……。ここにいる時だけは、孤独ではなかったのだよ」
私は何も言わなかった。ただ彼の隣に立ち、その痛ましくも静かな背中を見守り続けた。




