02:偽りの結婚
数日後、私は王宮の最奥にある『賢者の塔』の前に立っていた。
蔦が絡まる古びた塔は、おとぎ話に出てくる眠り姫のお城のようで、どこかこの世のものではない雰囲気を漂わせている。ひんやりとした石の扉が、重々しい音を立てて開いた。
「アリアーナ・グレンジャー様ですね。旦那様がお待ちです」
出迎えてくれた老執事に導かれ、螺旋階段を上る。案内されたのは、塔の最上階にある書斎だった。壁一面の本棚、床にまで積み上げられた無数の書物。その中央に、一人の青年が立っていた。
黒い詰襟の服に黒い革手袋。陽の光を浴びたことのないような白い肌と、対照的な漆黒の髪。そして、人形のように何の感情も映さない、ガラス玉のような青灰色の瞳。
完璧に整って作り物めいた、白皙の美貌。生きた人間ではなく精巧な人形だと言われれば、そちらを信じてしまいそうな佇まいだった。
彼が、セオドア・アシュベリー公爵。
「…………なるほど。噂以上に……静かな魔力だ。いや、魔力というよりは……気配そのものが、凪いでいる」
彼が温度のない声で呟いた。初対面の相手にかける言葉としては、あまりに不躾。人を品定めするような物言いだ。
私は内心の不快感を押し殺し、淑女の完璧なカーテシーをしてみせた。平民だって学べば礼儀作法くらいは身につくのだ。
「アリアーナ・グレンジャーと申します。この度は、ご丁重なるお申し出、痛み入ります」
「堅苦しい挨拶は不要だ。単刀直入に言おう。私と結婚してほしい」
あまりに直接的な物言いに、思わず言葉に詰まる。彼は私の反応など意に介さず、話を続けた。
「無論、本当の夫婦になるつもりはない。これは取引だ。契約結婚だよ」
「……契約、ですか」
「ああ。君の兄、エリアス・グレンジャーの死の真相を知りたくないか?」
ガラス玉の瞳が、初めて私を真っ直ぐに射抜いた。
その言葉は氷の矢のように私の胸に突き刺さった。
「お兄ちゃんは……兄は、事故で死んだのでは」
「それは公式発表だ。だが、私はそうは思わない。彼は、殺されたのだ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。息が、できない。
セオドアは呆然とする私に構わず、淡々と続けた。
「私には強欲な叔父がいてね。私が死ねば、この塔の研究成果も公爵家の財産も、すべて彼のものになる。それを防ぐため、私には法的な『盾』……つまり、名目上の妻が必要なのだ」
「……見返りは?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「君には、兄君の死の真相を探るための安全な場所と、私が持つすべての情報を提供しよう。どうだ、悪い取引ではないだろう?」
最悪だ。人の死を取引材料にするなんて。
だが、彼の言う通りだった。今の私にとって、これ以上に魅力的な提案はない。兄の無念を晴らすためなら、悪魔にだって魂を売る覚悟はできていた。
「なぜ、私なのですか? 妻の役をこなすだけなら、他の貴族令嬢でもよろしいでしょう」
「他の令嬢ではダメなのだ。魔力量が多すぎると、私の呪いを刺激する」
彼はそう言うと、わずかに間を置いて、私の心の奥底を見透かすように言った。
「それに、君を選んだのは……君のその血筋……グレンジャー家に伝わる《《特殊な資質》》に、万に一つの可能性を賭けたからだ」
特殊な資質。それはきっと、我が家が代々優秀な書庫官を輩出してきたことを指しているのだろう。古文書の解読能力か何かを、彼は必要としているのかもしれない。
それでいい。理由は何だっていい。
「わかりました。その契約、お受けいたします」
私は、目の前の悪魔のように美しい公爵様に、はっきりと告げた。
「ただし、条件があります。互いの身体には決して触れないこと。そして、互いの私的な領域には踏み込まないこと。よろしいですね?」
彼が触れた相手は魔力暴走を起こし、最悪の場合は死に至る。私はまだ死にたくない。兄の真相を知るまでは死ねない。
「ああ、構わない。元より触れる気はない。それに私は……長くてもあと一年程度の余命だ」
彼は、初めてかすかに口の端を上げた。それは笑みというにはあまりに無機質で、まるで精緻な人形の関節が軋むのを見たような気分だった。
たった一年。彼の心身を蝕む呪いは、それほどまでに重いのか。
無言でいる私に、老執事がいつの間にか羊皮紙の契約書を差し出す。
こうして私の偽りの結婚生活が始まった。
結婚式も指輪もない、無味乾燥な夫婦生活。
余命いくばくもない呪われた公爵様と、兄の死の真相を追うただの書庫官。
最悪で、最高の取引相手と共に、真実を暴くための日々が。
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