17:オペラ座のファントム?3
『愛する妻イザドラと、我々の小さな家族、ファントムへ』
イザドラは、数十年前に亡くなったかつてのプリマドンナ。ではこの肖像画は、初代オーナー夫妻を描いたもの。
「ファントム……。オペラ座の怪人の正体は、猫だったのね」
セオドアが支配人から預かっていた資料の中から、一枚の絵姿を差し出した。そこに描かれているのは、今回の被害者である新人プリマドンナのリリアーナ。
並べてみれば一目瞭然だった。
リリアーナは、若き日のイザドラに驚くほどよく似ている。
「まさか……」
「ああ。リリアーナ嬢のプロフィールを詳細に調べた。彼女は間違いなく、亡くなった伝説のプリマドンナ、イザドラの弟の孫にあたる」
イザドラとリリアーナは血縁だった。だからこれほど似ているのだ。
その瞬間、すべての謎のピースがカチリと音を立ててはまった。
この猫の幽霊――ファントムは、新人プリマドンナのリリアーナが、大好きだった飼い主のイザドラと瓜二つだったため、彼女に気づいてほしくて、昔のように遊んでほしくて、ただその一心で無邪気ないたずらを仕掛けていたのだ。
ワイヤーで吊り上げたのは、きっと昔の舞台装置で一緒に遊んだ記憶から。衣装を破いたのも、かまってほしさからの甘えだったのだろう。
それは嫉妬や呪いなどではない。
時を超えた、純粋で、少しだけ不器用な愛情表現だったのだ。
翌日、私たちはリリアーナ嬢を連れて、再び劇場を訪れた。
最初は怯えていた彼女だったが、私たちの説明を聞いて、屋根裏の部屋で大伯母の絵を見ると、すべてを理解してくれたようだった。
「そういえば……祖父から聞いたことがあります。劇場には音楽のわかる、賢い黒猫がいた、と……。ファントム、という名の」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
リリアーナは舞台に立つと、誰もいない客席に向かって、静かに歌い始めた。
それは彼女の大伯母であり、伝説のプリマドンナであったイザドラが最も得意としたという、愛と喪失のアリア。
喝采も、伴奏もない。ただ彼女のどこまでも澄み切った歌声だけが、劇場に響き渡る。
するとどこからともなく、あの黒猫の幽霊が現れた。
ファントムは懐かしい歌声に聴き入るように、うっとりと目を細めた。そして嬉しそうに、リリアーナの足元に半透明の身体をすり寄せた。
リリアーナは歌いながら、そっとその小さな頭を撫でる。
長い時間分かたれていた二つの魂が、ようやく再会した瞬間だった。
劇場にかけられていた「呪い」は、こうして一人の歌姫の優しい歌声によって、静かに解かれたのだった。
一件落着。
そう思ったのだが、話はそれで終わりではなかった。
リリアーナの歌声に満足したらしいファントムは、今度は私の足元へとやってきたのだ。ごろごろと喉を鳴らしながら、私の足にすり寄ってくる。
ファントムからもう寂しさは感じない。満ち足りた気持ちと感謝の念が、魔力の波となって伝わってくる。ついでに、私の持つすべてを包み込むような「調律」の魔力が、彼にとって非常に心地よいらしいのも分かった。
「……困りましたね」
私が途方に暮れた。するとセオドアが少しだけ羨ましそうな、でも、どこまでも優しい声で言った。
「どうやら君に、新しい家族ができたようだな、アリアーナ」
こうして賢者の塔に、半透明の黒猫という新しい同居人(同居猫?)が加わった。
その猫はセオドアの研究資料の上で堂々と昼寝をしたり、私が淹れた紅茶のミルクを欲しがったりと、初日からすっかり塔の主人気取りである。
その夜。書斎の暖炉の前で、私はファントムを膝に乗せていた。半透明の体だけど、毛並みの手触りは素晴らしい。うっとりと撫でていたら、我が愛する旦那様がやって来て、ひょいと猫を抱き上げた。
ファントムは不満そうに顔を上げて、にゃぁと鳴いた。
「ファントム。アリアーナは私の妻だ。我が物顔で膝に乗るんじゃない」
真面目な顔で言うセオドアに、思わず噴き出してしまう。
「いいじゃありませんか。ほら、あなたは隣に来て」
長椅子のすぐ隣を指し示せば、セオドアはいそいそと座った。肩と肩とをくっつけて、手を握り合わせる。
ファントムはそんな私たちを見上げると、改めて私の膝に飛び乗った。
こうして寄り添っていると、あの屋根裏の部屋にあったオーナー夫妻の肖像画が目に浮かぶ。イザドラは不慮の事故で、若くして死んでしまった。残された夫の悲しみを思うと、胸が締め付けられる。
ファントムがごろごろと喉を鳴らした。まるで「安心して、大丈夫だよ」と言っているかのような魔力の波。
「ねえ、セオドア」
「うん?」
「私たちは長生きして、いっぱい幸せになりましょうね。いつか人生の終わりが来た時、悔いが残らないように」
「……ああ、そうだな」
セオドアはその美しい顔に微笑みを浮かべて、私の肩を抱き寄せた。
「もしも君が先に死んだら、私は耐えられずに後を追うだろう。逆に私が先に死ねば、君が気がかりで幽霊になる気がする。そんなことにならないくらい、長生きして満ち足りた人生にしたいものだ」
「幽霊って」
その幽霊の猫は、人間たちのやりとりなどお構いなしに目を閉じている。
いつか私たちも、死という絶対的な別れが来るだろう。
けれどその日まで、精一杯生きていきたい。この愛おしい人との幸福な生活を守っていきたい。
ファントムの喉から聞こえるごろごろという穏やかな音が、私たちの未来を祝福する優しい歌声のように響いていた。




