16:オペラ座のファントム?2
「……悪意は感じられんな。むしろ、我々をどこかへ誘導しているかのようだ」
セオドアの言う通りだった。これらの現象は、私たちを怖がらせるというよりは、まるで「こっちだよ」と手招きしているように感じられた。
その無邪気な魔力の流れを、私は「調律」の力で確かに感じ取っていた。
(これは、人間の怨念のような、禍々しいものではないわ。もっと……純粋で、子供のようで……そして、胸が締め付けられるほどに、寂しい……)
魔力の波長は、「ねえ、気づいて。私に気づいて」と、切実に呼びかけているかのようにも感じられる。
その時だった。
私たちの目の前の床が、音もなくせり上がった。舞台へ役者を送り出すための、昇降装置だ。明らかに「ここへ乗れ」という意思が表れている。
「面白い。乗ってやろうじゃないか」
「私たちは、探検に来たんじゃありませんよ!」
私のツッコミも虚しく、セオドアは好奇心に満ちた目でさっさとその床に乗ってしまう。
そこから奇妙な劇場の冒険が始まった。
『ファントム』は私たちを試すかのように、次々と劇場の古い魔術的ギミックを作動させていく。
突然、足元の舞台がぐるりと回転を始めたり。目の前の壁が音もなく反転して、隠し通路が現れたり。そのたびにセオドアは「素晴らしい! この時代の魔力伝達効率は、現代のそれとは比較にならんほど、独創的で美しい!」と、学者モード全開で目を輝かせている。回転する床に足を取られて転びそうになっても、おかまいなしだ。
私はといえば、いつ床が抜けるか天井が落ちてくるかと、気が気ではなかった。
やがて私たちは『ファントム』に導かれるように、劇場の最上階、舞台のはるか高所に架けられた、鉄骨の細い通路――キャットウォークへとたどり着いた。下を見れば、巨大な舞台がまるでミニチュアのように見渡せる。
その通路の先。
月明かりが差し込む天窓の下で、それは姿を現した。
ゆらり、空間が陽炎のように揺らめく。その中心に、一つの小さな影が形を結んだ。
それは私たちが想像していたような、恐ろしい亡霊の姿ではなかった。
月光にその輪郭をぼんやりと光らせる、一匹の小さな半透明の――黒猫だった。
「…………猫?」
私の呆気にとられた声が、静かな空間に響く。
猫は首につけられた銀の鈴を、ちりんと鳴らす。大きな金色の瞳でじっとこちらを見つめて、こう鳴いた。
「にゃあ」
まるで「やっと見つけた」とでも言うように。
次の瞬間。猫はするりと身を翻し、目もくらむような高さのキャットウォークの向こう側へと、軽やかに走り去ってしまった。
後に残されたのは呆然とする私と、これからあの細い通路を渡らねばならないという事実に顔を青くしている、天才魔道学者な夫の姿だけだった。
「待ちなさい!」
私は思わず叫んだが、猫は振り返りもしない。黒い尻尾の先だけが、夜の劇場の闇に揺れている。
「追うぞ、アリアーナ!」
「本気ですか!? こんな足場も悪いところ!」
私の悲鳴も虚しく、セオドアは好奇心と探究心を止める気はないらしい。だがその一歩を踏み出した瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
「……セオドア?」
「……いや、その……なんだ。足元が、少し、ふわふわするような……」
まさか。
私は信じられないものを見る目で、夫の横顔を見つめた。
天才で、理知的で、かつては呪われながらも誰よりも高い知識と技術を誇っているこの人が。
「……あなた、もしかして、高いところが苦手です?」
「苦手というわけではない! ただ、不慣れなだけだ!」
顔を真っ赤にして反論する姿は、もはやただの意地っ張りな子供だ。私は、この絶体絶命の(彼にとっての)状況で、思わず笑いがこみ上げてくるのを必死でこらえた。
結局私が先に立ち、彼の大きな手を引いて、おっかなびっくりキャットウォークを渡る羽目になった。まったく、どちらが護衛されているのかわからない。
幽霊猫は、私たちをからかうように、劇場を縦横無尽に走り回った。
客席の背を飛び越え、ボックス席に入り込む。ボックス席の中で「うにゃん、にゃ~ご」と鳴けば、すすり泣きのように聞こえなくもない。ついでにベルベットの客席で爪とぎをして、布をボロボロにしてしまった。
猫は地下室まで走り、貯蔵されていたクランベリージュースの瓶をひっくり返す。瓶が割れてジュースが床に飛び散った。
猫はジュースの上をペタペタと歩いて、床に奇妙な模様を描いた。これは、文字のように見える……か?
さらには魔術機構の制御室に潜り込んで、デタラメにボタンを押して回る。ギミックがあちこちで作動して、大変なことになった。たちの悪いことに、猫はギミックをきちんと理解しているようだ。追いかける私たちを邪魔するようにワイヤーが唸り、危うく宙吊りにされそうになった。
最後に猫は一際古びた、今は使われていないらしい小部屋へ飛び込んだ。そこはどうやら、誰かの私室のようだった。
部屋には色褪せた家具や古い楽譜が、まるで時が止まったかのように残されていた。ホコリが厚く積もっているのを見るに、長い間放置されていたのだろう。
そして壁に飾られた、一枚の古い肖像画。
「……これは……」
そこに写っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた一組の夫婦。それからその妻の膝の上で、気持ちよさそうに目を細めている一匹の黒猫。その首には見覚えのある、銀の鈴がつけられていた。
絵画の裏には、インクのかすれた文字でこう記されている。
『愛する妻イザドラと、我々の小さな家族、ファントムへ』
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