14:初めてのすれ違い
教科書作りと「魔力相談室」の対応。私たちの毎日は、忙しくも充実していた。
だが人間というのは贅沢な生き物らしい。満ち足りた日々の中にほんの小さな翳りを見つけては、勝手に心を曇らせてしまうのだから。
(……最近、セオドア様とゆっくり話せていない)
彼は彼で、自身の研究の整理に没頭している。それはわかっている。わかってはいるけれど、書斎で交わす言葉は専門的な議題ばかり。以前のようにただ他愛ない話をして笑い合う時間が、めっきりと減っていた。
寂しいなんて、今更どの口が言えるだろう。私は自分にそう言い聞かせ、目の前のカルテに意識を戻した。
その夜のことだった。
私が寝室へ向かおうとすると、書斎の扉の隙間からまだランプの灯りが漏れていた。そっと覗き見ると、セオドア様が見たこともないほど複雑な術式が描かれた羊皮紙を広げ、一心不乱に研究に没頭している。
――私に、見せたこともない術式。
その瞬間、私の心にちくりと冷たい棘が刺さった。
(……隠し事? 私ではもう、彼のパートナーとして力不足だということ?)
馬鹿な考えだとはわかっている。だが一度芽生えた不安は、暗闇の中でどんどん大きく膨らんでいく。
寂しさとほんの少しの意地悪な気持ちから、私は一枚の便箋に書き置きを残した。
『少し、頭を冷やしてまいります。実家に帰らせていただきます』
まるで痴話喧嘩の末に家を飛び出す妻のような文句だ。我ながら幼稚な行動に呆れてしまう。これは本格的な家出ではない。ほんの半日、少しだけ距離を置きたかっただけなのだ。
実家に着くと母は私のただならぬ様子に驚きながらも、何も聞かずに温かいお茶を淹れてくれた。一方で父は「あの公爵、うちの娘を泣かせおって……!」と、今にも剣を手に塔へ乗り込みそうな勢いだ。
「夫婦なんてそんなものですよ、アリアーナ」
母は私の話を優しく聞いた後、諭すように言った。
「言葉にしないと伝わらないことも、たくさんあるのですから」
その頃賢者の塔で、一人の天才が生まれて初めて「パニック」に陥っていたことなど、もちろん私は知る由もなかった。
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「ど、どうすればいい……セバスチャン……アリアーナが……なぜ……?」
「旦那様、落ち着いてください! まずは深呼吸を!」
置き手紙を見つけたセオドアは、文字通り血の気が引いた顔で書斎をうろうろと歩き回っていた。普段の冷静沈着な姿は見る影もない。下手をすれば完治したはずの呪いがぶり返しそうですらあった。
その狼狽ぶりに、老執事のセバスチャンは不謹慎ながらも「旦那様も普通の人間になられたのだなあ」と感慨に耽っていた。
とはいえ埒が明かない。セバスチャンが主人の数少ない友人に連絡を入れると、アレクシスは飛ぶようにして塔へやってきた。
「お前なあ……! 日頃の愛情表現が足りないから、奥方に出ていかれるんだろ!」
友人の一喝にセオドアはぐうの音も出ない。
実は愛情表現は足りているのだが、だからこそ少しの秘密に双方がうろたえたなど、アレクシスにわかるはずもなかった。
「それで? 何か隠し事でもしてたのか? 白状しろ」
アレクシスに問いただされ、セオドアは気まずそうに机の上の羊皮紙を指差した。
「……これを作っていた」
「なんだ、この複雑な術式は」
「アリアーナの『調律』の力を、彼女の身体に負担をかけずに増幅させ、安定させるための補助魔法具だ。……もうすぐ彼女の誕生日だろう。サプライズで、プレゼントしようと……」
妻を深く深く愛するがゆえの、あまりにも不器用すぎるサプライズ計画だった。
「馬鹿野郎!」
とアレクシスが叫んだのは言うまでもない。
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アレクシス様から事情を聞いた私は自分の早とちりが恥ずかしくて、顔から火が出る思いだった。なんて愚かで愛おしいすれ違いだろう。
急いで塔へ戻ると、心配と後悔で憔悴しきった顔の夫が扉の前で立ち尽くしていた。
「アリアーナ……!」
私の姿を見るなり、彼はぎこちない動きで私を抱きしめた。思いの外強い力にドキドキとしてしまう。
「……すまなかった。君を不安にさせた」
「いいえ、私の早とちりです。ごめんなさい、セオドア様」
するとセオドア様は不満そうに口を尖らせた。
「前から言おうと思っていたんだ。様付けはもうやめてくれ。どうかセオドアと呼んでくれないか」
「ごめんなさい、――セオドア」
私たちはどちらからともなく顔を上げて、ふっと笑い合った。
彼は少し早いけれど……と一つの小箱を差し出した。中には月の光を閉じ込めたような、美しい石のついたペンダントが入っている。
石に刻まれた複雑な術式に目を見張る。これだけのものを作り上げるのに、どれほどの労力を使ったことか。
「これが、君の力を守る魔法具だ」
「……ありがとうございます。私の、宝物です」
私はペンダントを胸に抱きしめる。
「これからは、隠し事はなしにしましょうね」
「ああ、約束だ」
初めての夫婦喧嘩(と呼ぶにはあまりに可愛らしい)を経て、私たちの絆は雨上がりの大地のようにより一層固く結ばれたのだった。
――もっとも、この一件で「アシュベリー公爵は、実は奥方に頭が上がらないらしい」という根も葉もない……いや、根も葉も『ある』噂が、アレクシス様とセバスチャンによって広まってしまうことを、この時の私たちはまだ知る由もなかったのである。




