13:招かれざる客
『アリアーナ公爵夫人の魔力相談室』。
この小さな看板が掲げられてからというもの、賢者の塔はすっかり様変わりした。かつての静寂はどこへやら、今では様々な悩みを抱えた人々が、ひっきりなしにこの塔を訪れる。
「アリアーナ様、次の相談者の方がお見えです」
「はい、今行きます!」
私はカルテを片手に廊下を走りながら、ちらりと書斎を覗き見る。そこでは私の夫であるセオドア様が、少しだけ、ほんの少しだけ、つまらなそうな顔で本を読んでいた。
(あらあら、拗ねていらっしゃる)
私が相談者の対応に追われ、二人で研究する時間が減ってしまったのが不満なのだろう。理性的な天才研究者で、元・呪われ公爵の彼がこんなにも分かりやすく焼き餅を焼くなんて、誰が想像しただろうか。まったく愛おしくて困ってしまう。
そんなある日のことだった。
その客人はなんの前触れもなく、そして明らかに歓迎されざる者特有の空気をまとって現れた。
「これはこれは。ここが噂の『魔力相談室』ですか。随分と、家庭的な雰囲気ですな」
品の良いローブをまとった、いかにもエリート然とした魔術師。その顔には人の良さそうな笑みが張り付いているが、目の奥には蛇のような冷たい光が宿っていた。
彼は王宮魔術師団の副団長、マリウスと名乗った。
「平民出の奥方が、不思議な力で人々を癒していると? まるで安っぽいおとぎ話だ。その力が本物か、我々《《専門家》》の前で証明していただきたい」
彼の言葉には、隠す気もない敵意と侮蔑が満ちていた。どうやら私たちの活動が、彼のプライドをいたく傷つけたらしい。面倒なことになった、と私は内心で深くため息をついた。
マリウスが連れてきたのは、青白い顔で震えている若手の魔術師だった。
「この者は、魔力過敏症に悩まされている。我々の手には負えなかった。もし、奥方のその『お優しい力』とやらが本物なら、この者を治せるはずですな?」
魔力過敏症。周囲の魔力に過剰に反応して、光や音、他人の感情すらもが耐え難い苦痛となって襲いかかるという稀な症状だ。治せなければ詐欺師扱い、治せればその力を利用しようという悪意に満ちた意図が透けて見えた。
若手魔術師の苦しむ姿に、私は思わず「わかりました」と言いかける。
だがその声は、静かで有無を言わせぬ力強さを持つ声に遮られた。
「――お断りする」
いつの間にか私の隣に立っていた、セオドア様だった。
「アリアーナの力は、見世物ではない。我々は、心から助けを求める者にのみ手を差し伸べる。君のように他者の力を試し、その価値を値踏みしようという不遜な者に、協力する義理はない」
「なっ……! あの呪われ公爵が、たまたま治ったからと偉そうに!」
マリウスの顔が屈辱に赤く染まる。
その瞬間、セオドア様の周りの空気が絶対零度にまで凍りついた。
「……かつての私なら、君のような無礼な男は、塵も残さず消し去っていただろうな」
その声は静か。けれどかつて彼がその身に宿していた、圧倒的な魔力の片鱗が確かに宿っていた。
「だが、今の私は違う。妻に、無用な心労をかけさせたくないだけだ。……お引き取り願おう。君たちの問題は、君たちで解決するがいい」
私は息を呑んだ。
彼は私を守ってくれた。自らの力を誇示するためではなく、ただ夫として、私の平穏を守るためだけの「盾」となって。
追い返されそうになったマリウスが、さらに何かを言おうとした時。それまで黙って震えていた若い魔術師が、突然私たちの前にひざまずいた。
「お願いします……! どんな形でもいい、助けてください。もう、光も音も、何もかもが怖いんです……」
心からの叫び。それを聞いたらマリウスの悪意など、どうでもよくなった。
私はセオドア様を見た。彼はやれやれと肩をすくめながらも、優しく微笑んでいた。
「……仕方ないな。君は、本当にお人好しだ」
彼は私の意志を尊重してくれた。嬉しくてつい笑みがこぼれて、すぐに引き締めた。
若手魔術師の魔力を『診る』。
(これは……ひどい)
彼の魔力は、まるで極限まで薄く引き伸ばされた破れかけの布のよう。
魔力は本来であれば、しなやかに体を巡って心身を守っている。ところが若い魔術師のそれは、あまりに薄く広がりすぎているせいで、外部からのあらゆる刺激を直接魂に受けてしまっている。――対策は。
「あなたの魔力を束ねて、元の密度に戻します。大丈夫、怖くありませんよ」
イメージは裁縫、いや、機織りだ。ばらばらになってしまった糸を拾い集めて、丁寧に織り上げていく。
魔術師の職を務めているだけあって、彼の魔力は決して低くない。本来あるべき姿を取り戻すための材料は十分にある。
詠唱によって魔力の糸を織る作業は、なかなか骨が折れた。でも私は一人じゃない。
「脾臓付近の魔力が薄い。背骨周辺に魔力が余っているようだ。そちらから『糸』を調達して修復を」
私が見落としそうになった場所は、セオドア様がサポートしてくれる。だから安心して作業に臨めた。
そうして治療を終えた時、若手魔術師はただ静かに涙を流していた。
「……静かだ。世界が、こんなに静かで、柔らかだったなんて……」
その光景を目の当たりにして、マリウスは驚愕と屈辱に顔を歪ませ、一言も発することなく塔を去っていった。
その夜、二人で書斎に戻って。
私は夫に心からの感謝を伝えた。
「ありがとうございます、セオドア様。私を守ってくださって」
「当然だ」
彼は私の髪を優しく撫でる。
「君は私の妻であり、この塔の主でもあるのだからな。君の活動の場を、私が守るのは当たり前の責務だ」
その言葉に、私たちの間にあるものが単なる夫婦の愛情だけではないことを、改めて感じた。
私たちは共通の目的を持つ「同志」であり、互いの背中を預けられる最高のパートナーなのだ!
マリウスのような存在は、きっとこれからも私たちの前に現れるだろう。
アリアーナ公爵夫妻の『魔力相談室』。その戦いはまだ始まったばかりである。




