北壁の戦い 4
アントンが言った通り、三日後は午後からずっと小雨だった。まだ北部は気温が低いので、リシャナは震えていた。それまで彼女は金属製のイヤリングやブレスレットをつけていたが、すべて外してしまった。冷えた金属が肌にあたると寒いのだそうだ。
「ユスティネの言った通りだった」
とリシャナが言うので、ユスティネは微笑んで「季節が春ですから、ましな方ですよ」と応じていた。
「私は北部で暮らせない気がする」
「慣れれば大丈夫です。たぶん」
拠点を置いている城が仮住まいであるのもあると思う。それまでほとんど使われていなかったので、人が住む環境としては少し悪いのだ。リシャナが気にする人間ではないので、放置されているが。
昔、各地を転々とした彼女は、悪環境に身を置いたこともあるようだが、寒くてどうしようもない、と言う経験はなかったようだ。彼女の姉が気を使っていたのもあるかもしれないが、王女である彼女は、政略結婚の相手として有益だったのもあるだろう。人質にされたとしても、命を失うような状況に追い込まれることはなかったようだ。
「今人質になったら命がないな」
「おとなしく人質になるような方ではないでしょう」
ユスティネが困ったように眉を寄せて苦笑した。ロドルフに売り払われるくらいなら死ぬ、と言うような主君であるから、こちらも必死なのだ。もちろん、そんなことにならない方がよいに決まっているが。
アーネル伯爵との会談の日がやってきた。事実上の国境ではなく、条約で定められている国境付近の館で会談が行われた。そこにいたのはアーネル伯爵だけではなかった。
「初めまして、リル・フィオレの姫君」
「あなたは誰だ。私はアーネル伯爵との会談を了承したのであって、あなたとの会談を承諾した覚えはない」
ぴしゃりとリシャナが言い放った。自分より一回りは年下の少女にすごまれたラーズ王国の二人は、アーネル伯爵はすくんだが、トリアン公爵と名乗った青年は悠然と微笑んだ。
「戦上手の姫君だという話でしたが、本当のようですね」
「私はアーネル伯爵と話をしに来たのだけど」
リシャナは頑なにそう言うが、伯爵より公爵の方が立場が上だ。リシャナは亡くなったヘンドリックのブローム伯爵位を引き継いでいるので伯爵であるが、おおもとの身分が王族である。ついでに言うなら、トリアン公爵もラーズ王国の傍系の王族だったと思う。
そこから、やはり自分たちと組んでリル・フィオレの王を目指さないか、と言う話になった。どうやら、国境にリシャナが来ていると聞いて、彼女との会談を望んだのはトリアン公爵だったようだ。
彼はラーズ王国での王位を望めない。だから、今内情が荒れているリル・フィオレの王になろうとたくらんだのだろう。
「私と組めば、ラーズ国王もあなたを支援するでしょう」
「それはロドルフと手を切るということでしょうか?」
「そうですね。実を言うと、彼は援助を求める立場でありながら、横暴ですから」
「なるほど」
ついでに約束した見返りもあるかわからない。ロドルフが王になる可能性は、今のところよくて四割、と言ったところであるし。
「話は聞かなかったことにしましょう。私は兄上にたてつく気はありませんので」
表情を変えずに、これまでと同じ調子でリシャナが言うので、トリアン公爵の頭を言葉が貫くのにちょっと時間がかかったようだ。少し間をおいてからトリアン公爵が立ち上がったリシャナを追って立ち上がった。
「ちょ、お待ちください! あなたにとっても悪い話ではないはずだ!」
「確かにラーズ王国が攻めてこなくなる、と言うだけでもかなり魅力的ではありますが、私は王になる気はないのであなたに見返りを用意できませんので」
反故にする気満々のロドルフに比べればかなり誠実だ。相手の目にどう映るかはともかく。
「待て! このまま帰すと思っているのか!」
「公爵閣下」
アーネル伯爵が慌てたようにトリアン公爵を止めようとする。だが、トリアン公爵は立ち止まらないリシャナの腕をつかもうとする。ティモンが間に入ってリシャナを守った。
「姫君、あなたにはここにいてもらわなければならない。今頃、外ではすでに戦闘が始まっているはずだ。指揮を執るものがいないリル・フィオレの軍は浮足立っているはずだ」
「それで私がとどめられると思っているのなら、あなたは実に愚かだ」
「なんだと?」
「あなたが初めに言ったのだろう。私は戦上手の姫君だと」
その通りである。ラーズ王国がこの会談の最中にリル・フィオレを追い詰めようとしたように、リシャナも一計を講じていた。今頃、ヘリツェン伯の城は包囲されて押し込められ、北壁と呼ばれる国境最前線の城塞がリシャナの軍に統合されているはずだ。
「リニ、ティモン、戻るぞ」
「はっ」
館の中にはトリアン公爵らが配置したラーズ王国の騎士たちがいたが、リシャナがあまりにも堂々と外に出るので、捕らえたものか迷ったようだ。普通に何事もなく外に出られた。
「姫様」
「姫様、いかがでしたか」
外で待機していた兵士たちが集まってくる。北壁などで動きがあるということは、リシャナが護衛に連れてきた兵士がそれほど多くないということだ。
「ラーズも動いている。予定通りに行こう」
全員が「はっ」と承知の声を上げたためにかなりの声量になり、リシャナがびくっとした。戦闘中だと近くに砲弾が落ちようがラッパが鳴り響こうが平然としているリシャナだが、平時ではまだこういうところがある。
まだトリアン公爵とアーネル伯爵が混乱しているうちにリル・フィオレ側に戻る。国境のこの辺りは、アールスデルスと言う。まず、リシャナ達は北壁に入った。
「国境からラーズ王国に侵入させるな。先に攻撃を仕掛けろ。私が許可する。内通者は全員捕縛したか?」
「すぐに指示を出します」
「わかる範囲ではとらえました」
歩きながら質問を飛ばすリシャナに返事があり、彼女は「よろしい」とうなずいた。
「ロドルフにも情報を流してやれ。ラーズ王国が私と手を組もうとしたのは事実なのだからね」
実際には組まなかったが、その通りだ。リシャナと手を組んだなら、ロドルフを切り捨てるというような発言もしていた。そこまで言う必要はないだろうが、言わなくても疑心暗鬼にはなるはずだ。
「姫様は陛下に似てきましたね」
ネイサンがそんな感想を漏らした。否定はできないと思う。間近で見ていて参考になる指揮官がヘルブラントなので、ある程度似ているのは仕方のない話だと思う。
ここまで、彼女がヘルブラントに付き従っていて、積極性をほとんど見せなかったのも原因の一つかもしれない。王になる気がない彼女は出しゃばりすぎないように気を付けていたのだ。
兄に似ている、と言われたリシャナは少しだけいやそうな顔をした。
「……別に、お互いが疑心暗鬼になってラーズ王国とロドルフがつぶしあってくれないかな、なんて思っていない」
思ってるんだな、とこの状況で思わず苦笑した。手を切るだけでも、ロドルフが取れる作戦の幅が狭まるのでかまわないのだ。アーネル伯爵との会談を受け入れるにあたって、リシャナは参謀たちとそこまで話し合っていた。
「北壁を掌握したら、そのまま拠点へ戻る。ヘリツェン伯を外に出すな。アールスデルスを制圧する」
不遜で彼女らしからぬ強気な言葉に、リニたちはすぐさま承知の意を示した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本当はリル・フィオレは、外と戦闘をしている場合ではない。




