デン・ヘンデルの戦い 5
変な時間に眠ったからだろうか。朝日が昇る前に、リシャナが起きてきた。あの後、宮殿内の彼女の部屋にリシャナを寝かせていたのだが、夕食の時間にも起きてこずに彼女は眠り続けた。寝不足のような顔をしていたので、それはそれでいいのだと思う。よく眠っておけばいい。
だが、明け方にお供にリニだけを連れて城壁を上るのはどうかと思う。しかも、リニに見つからなければ一人で行くつもりだったと思う。今日はユスティネが休みなので、たぶん確信犯だ。ちなみに、リニは朝早くに起きていたのではなく、眠っていなかった。徹夜だった。療養していた間にたまった仕事を片付けていたのである。
二年前、リシャナが守った城壁は西向きだ。早朝である今、宮殿の向こうから朝日が昇ってくるのがわかる。
「わざわざついてくる必要はなかった」
「おひとりにしたら、私が叱られるのですが」
叱られるくらいでは済まないが、けろっとリニが言うと、リシャナはむっと唇を尖らせながらもそれ以上は何も言わなかった。城壁から外を眺めている。城壁上の歩廊を守る兵士たちがちらちらとこちらを見てくるのを、リニは手を振って彼らを追い払う。
「姫様が守った城壁ですね」
「……私が余計なことをしなければ、今頃戦争は終わっていたのかもしれない、とも思う」
これは、ヘンドリックが戦死したことが結構堪えているのだろうか。リニは少し考えてから口を開く。
「その場合は、ヘルブラント陛下が負けていましたね。あなたは今頃、バイエルスベルヘン公の妻だったかもしれません」
しかも、名前だけの妻だ。旧体制を接収するには、婚姻関係を結ぶのが一番早い。ヘルブラントの兄弟で未婚の女性はリシャナだけだ。
「そうなる可能性があったと、ご自分で納得されていたのではないのですか」
「……そうだけれど」
ヘルブラントがとらえられたうえで、王都がロドルフの進入を拒まなければ、ヘルブラントやその男兄弟はロドルフに始末されていただろう。ロドルフにとって、ヘルブラントを生かしていたのは王都に入るための人質に彼が必要だったからだ。用済みになれば始末されただろう。議会がヘルブラントを殺したロドルフをそう簡単に認めるとは思えないが、ヘルブラントの妹であるリシャナとの婚姻を条件に挙げれば、認められていた可能性は高い。
そう言った一切を、リシャナはわかっていたはずだ。リニもそれをわかっている。リニはそっと息を吐いてから、城壁の外を眺めるリシャナの背中に声をかけた。
「姫様は、どうして王都を守ることにしたのですか?」
そういえば聞いたことがなかったな、と思った。リシャナの教育係になったばかりのころ、そこまでの信頼関係はなかった。どちらかと言うと、リシャナの疑問にリニが答える、というような関係だった。
ここ一年ほどは、ある程度信頼関係が築けていたと思う。だが、リニがリシャナに尋ねる場面は現れなかった。
ヘルブラントがリシャナに共に戦うように要請した時、彼女はヘルブラントの取引にうなずいた。彼女なりに自分の利を見出したからだろう。だが、その原因となったルナ・エリウ開城戦の際に、王都を守る判断をしたのはなぜだろうか。リニの知る限り、彼女は自分のために戦う人間ではない。
「何故、と言われても困るけど」
リシャナは城壁の外に向いていた体を内側に向けて、少し低くなっている狭間に腰掛けた。リニと目が合ったが、アサヒが目に入ったようでまぶしそうに目を細めた。
「意見を求められて、それが一番良い、と私が思ったからかな」
「ルーベンス公に求められたからではなく?」
「それも理由の一つではあるね」
リシャナはそう言って肩をすくめた。
「漠然と、私はそのうちロドルフに嫁ぐのだろうと思っていた。そこで間諜のようなことをするのか、刺し違えてでもロドルフを仕留めてくるのかわからなかったけど」
当時の私がロドルフを始末できるとは思えないけど、とリシャナは顎に指をあてて言った。まあ、それはリニもそう思う。
「でも結局、それはヘルブラント兄上が生きていることが前提なんだよね。そう思ったから、兄上を助けなければと思ったのだと思う。……本当は兄上のだれかが指揮を執る方がよかったんだろうけど」
そううまくはいかなくて、リシャナは自分で指揮を執ることにしたようだ。
これと言った、はっきりした理由があるわけではない。それでも、結果的に間違った判断ではなかったのだと思う、とリシャナは言った。
「それでも、私が戦わなければ、ここまで戦争が長引くことはなかったのではないかとも思う」
複雑な感情だ。合理的に考えて間違っていなかったと思う心と、もしかしたら選択によっては兄は死ななかったかもしれないという思い。それらを察することのできる能力はリニにもあった。
リニはリシャナの手を取ってその場にひざまずいた。リシャナの手の甲を額に押し当てる。
「リシャナ・フルーネフェルト殿下に敬意を。殿下のおかげで、私は生きて職務を全うできています。あなたが立ってくださって、私は心から感謝しております」
あの時リシャナが戦ってくれたから、リニは主君を失った臣下にならずに済んだ。だからリニは今も生きていて、収入があって家族に仕送りもできている。すべて、リシャナのおかげなのだ。
そういうリニのような人間もいることを、リシャナは知っておくべきだと思う。
「……そうか」
静かな声で応じるのが聞こえた。淡々とした中に、少し安心したような色が見える。一度目を閉じたリシャナは、そっと目を開いて言った。
「おなかがすいたな。戻ろう」
「はい」
自主的に戻ってくれるのなら、それでよい。リニは微笑んで立ち上がると、リシャナについて城壁から降りた。
日が昇り、すでに市が立っていた。人ごみに喧噪。するりと手を握られてびくっとした。
「どうしたの?」
小首をかしげて見上げられて、リニはとっさに「なんでもありません」と首を左右に振った。リシャナは反対に首をかしげてから視線を前に戻した。手はつながれたままだ。初めてリシャナと王都の街に降りたときに、はぐれないようにと手をつないだ時から、この状態は続いている。こんなに動揺するのは、リニの心持が変わったせいだ。
緊張していたリニだが、焼けたパンや肉のにおいにリニも空腹の方が気になってきた。
「騒がしいね」
「……ですね」
多分、一本隣の路地だと思うが、何やら騒がしい。人も逃げてくる。リシャナの方が耳がいいが、騒いでいる声が何を言っているのかはわからないようだ。
「何かあったんですか」
そちらの路地から出てきた男にリニが尋ねると、男が「喧嘩だよ」といやそうに顔をしかめながら言った。
「軍人たちが騒いでんだよ。守ったとか、守れなかったとか……お嬢さんが一緒なら、行かない方がいいぞ」
「……ご忠告感謝します」
リニはリシャナと顔を見合わせると、忠告に反してその路地へ向かった。軍人と言うことは、リシャナの部下の可能性が高い。少なくともヘルブラント配下の軍人だろう。仮に敵方だったら、王都から放り出さなければならない。
「姫様は戻りますか」
「何故? 私も行く」
「……ですよね?」
リシャナを追い返すのをあきらめてリニは彼女とともに隣の路地へ入った。そこでは乱闘が始まったところだった。
「……わぁ」
すごく棒読みでリシャナが声を上げた。乱闘になっているのは十人ほどであるが、確かに軍人だ。
「リニ、住民を避難させて。私はあいつらを止めてくる」
「……逆の方がよくないですか?」
「軍を預かっている私の責任だ」
まじめで責任を理解している責任感の強い娘だ。そして、リシャナの言う通りだ。平民のリニでは止められなくても、王族の姫君のリシャナなら止められるかもしれない。
「お前らのせいで負けたんだろうが!」
「戦ってないお前らに何がわかるってんだ!」
乱闘である。剣は出ていないが殴り合い、蹴りあいである。リシャナはどうするつもりなのだろう。彼女は将としては有能だが、個人として強いわけではない。住民たちが巻き込まれないように避難させながらリニはリシャナをちらりと見た。
「これ、もらっても構わない? 後で支払いはする」
「は? はあ……」
露店に出ていた陶器の壺だ。この辺りでは珍しい。どうするのだろう、とリシャナを見ていると、彼女はその壺を石畳にたたきつけた。ガシャン! と大きな音がする。乱闘中の軍人の中の何人かがリシャナを見た。
「そこまでだ。全員、そこに整列して所属と名前を言え」
「はあ!?」
謎の美少女に命じられて軍人たちが気色ばむ。リシャナは表情を変えずにもう一度言った。
「聞こえなかったのか? 整列して所属と名前を言え。このまま騒乱罪で投獄されたいのか?」
「ひっ、姫様……!」
どうやら、リシャナの顔を知っていつ者がいたらしい。無表情で冷淡な声のリシャナに、ひきつった声を上げた。
「整列して、所属と名前を言え」
徐々にトーンが下がっていくリシャナの声が、思いのほか怖い。戦場にいると彼女の怒鳴り声なども聞くことがあるが、そう言った声よりもよほど迫力がある。
整列させた結果、全部で十一人の乱闘だった。王都で留守番だった軍人、兵士が六人と、先日のデン・ヘンデルの戦いに参加していた兵士が五人。うち、ヘルブラント旗下二人、ヘンドリック旗下が三人。確かに無念だっただろう。ちなみに、リシャナの顔を見知っていたのは、王都留守番組の宮廷警護の軍人だった。近衛ともいう。
「なるほど。さぞ無念だっただろう。私もだ。だからと言って、王都で暴れていい理由にはならない。殴りあいたいのなら訓練場でやれ」
「お、おとがめはないので?」
びくびくしながら近衛兵が尋ねた。リシャナは眉をぴくっと上げた。本音を言えば、罰したいのだろう。
「私も無念だと言ったはずだ。ここで仲間割れするくらいなら、次に備えて鍛えろ。私はそうする」
十五のお姫様にそう言われて、いい大人の彼らは反論できなかったようだ。少なくとも、この話はヘルブラント王の耳に入る。姫君だとなめていても、彼らがリシャナに逆らえないのはそういう点もある。
「すまない。迷惑をかけた。こいつらは連れて行くので、生活に戻ってくれ」
リシャナが手をたたいて周囲に向かって言った。成り行きを見ていた住民たちがはっと我に返る。
「姫様? え、姫様?」
「わあ、リシャナ殿下!」
「やはり我らの英雄ですね」
ありがたや、と拝まれてリシャナがびくっとした。こんな調子だから、リシャナは信奉者が増えていくのだろうと思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
読まなくても問題はありませんが、『北壁の女王』でも城壁での同じような場面がありますね。
こちらは夜明けにリニが敬意を述べる。
あちらは日暮れにエリアンが愛を述べる。




