21話 フェリクス無双
俺がフェリクスのおっちゃんを連れてフォロ浴場の温浴室に入ったとき、マッサージを受けるエリアの一角は一触即発の雰囲気だった。
中心にはデキムスさんがおり、その周りには先ほど見たパン屋の親方衆と、中心人物と思われる男。
しかし、フェリクスのおっちゃんが一声かけた途端、その雰囲気は霧散した。
「……フェ、フェリクスさん!?」
「やあテレンティウスさん、農神祭に合わせた当家によるパン配給の件で打ち合わせをして以来ですから……1週間ぶりくらいですかな?」
どうやらパン屋連中をまとめている男はテレンティウスという名前らしい。
配給の件とフェリクスのおっちゃんが言っていたから、おそらくパン屋なのだろう。
というか顔見知りなのかよ。
「え、えぇ。今年も当パン工房にまとめて発注いただいたおかげで、年末に一儲けできましたよ」
「あぁ、『何も問題がなければ』今後もテレンティウスさんの工房に発注したいと思っていますよ」
「いやぁ、ありがたいお話で!……しかし……珍しいですな、フェリクスさんがこっちの浴場に来られるとは……いつもはスタビア浴場を使われているのでは?」
「えぇ。私がソキエタスを組んでいるわが友デキムスと何やら密談をしようと貴方がここに入っていく様子をこのルシウスが見ていたようでしてね。……興味が湧いて駆けつけてみたのですよ」
そう言いながらフェリクスのおっちゃんは俺を引き連れて親方衆の中に割って入り、デキムスの横にドカッと座る。
「ソキエタスを、デキムスと……ですと?」
そしてフェリクスのおっちゃんの言葉を聞いてテレンティウスさんの目はめっちゃ泳いでいた。
何だろう、想定していた初動とちょっと違う。
もうちょっとこう、フェリクスのおっちゃんとこの人がバチバチにやりあうのを想像してたんだけど。
そんな俺の考えをよそに、テレンティウスさんはデキムスさんの方を振り向き、信じられないものを見るような目で凝視する。
「おい、デキムス。お前……バックにルクレティウス家がついているとは一言も……」
「い、いや、それは……そのぉー……」
デキムスさんがフェリクスのおっちゃんに視線を向けて助けを求める。
「ははは、違いますよテレンティウスさん。これはルクレティウス家による後援ではなくあくまで私個人のペクリウムによる出資ですよ」
フェリクスのおっちゃんはあくまでルクレティウス家は『今は』まだ関与していないという姿勢を示す。
この前スタビア浴場で話した通り、いまパン屋に卸している麦の蜜が実は高級品であるなどという間違えたメッセージをパン屋に出すのはまずいからだ。
「ま、まあ確かにそうですな。ルクレティウス家による新事業ならば工房代金くらい全額出して当然。そうではなくフェリクスさんのペクリウムによる出資ということは……。つまりはフェリクスさんの今後に向けた事業だと」
今後とはつまり、解放後のこと。
テレンティウスさんはこの水あめ事業がフェリクスのおっちゃんが開放された後の稼業なのだと認識したようだ。
「そこはまだ未定ですな。実はこの麦の蜜、皆さんに卸している安価なモノ以外にも、上流階級のご令嬢たちを魅了している高級版もございましてな……それの如何によっては、主人がルクレティウス家として後援を行う可能性も、ありえない話でもないですな」
しかしそれも否定するフェリクスのおっちゃん。
「な、なるほど……そ、そうなのですね」
現状はルクレティウス家は関知していない、しかし今後関与する可能性は大いにあるという微妙な状況に手を出してしまったテレンティウスさんは脂汗をかきはじめる。
どうやら虎の尾を踏んでしまったと理解したらしい。
一方のフェリクスのおっちゃんはそれに追い打ちをかけるかのように新たな爆弾を投下した。
「テレンティウスさん。私も貴方の工房のパンは好きですよ。だから貴方のパン工房にいつも発注をしていた。特に今回はだいぶ頑張っていただきましたし、次回の季節にも、貴方の焼くパンを振る舞いに使うよう主人に進言しようと思ってました……」
テレンティウスさんの顔からさっと血の気が引いた。
次の季節の、振る舞い。
それは明言されないが選挙対策のパンとサーカスの『パン』だ。
有力なパトロヌスである貴族が選挙民に配るパンの発注先。
それはパン屋にとって、年間売上の中で決して無視できない割合を占める特大の大口受注だ。
「……それだけあなたのことを買っていたのに。ひどいじゃないですか。私が出資しているソキエタスの代表を、私に無断で、こんな大勢で取り囲んで脅すような真似をして侵害しようとするなんて……」
そう言ってフェリクスのおっちゃんはぎろりとパン屋の親方衆を見渡す。
「い、いやそれは!」
「お、俺たちはただたまたまここでデキムスと会ったので工房開設の進捗を聞きに来ただけで!!!」
背景にルクレティウス家が見え隠れする紛争に巻き込まれそうになったパン屋の親方衆は無関与の姿勢に転換。
「まあそう言うことにしましょう。では脅しつけていたのはテレンティウスさん、あなた一人ということですか?――信頼を仇で返すような相手と今後も仲良くするのは……正直私としては厳しいですな……」
「ま、待ってくれ! 誤解だ!」
テレンティウスさんが慌てて手を振った。
フェリクスのおっちゃんが声をかける直前の威勢のよさはどこへやら。
今はただの焦った中年おじさんだ。
「私はただ、デキムス君の事業が遅れているのを心配してだね……!決して邪魔をしようとしたわけじゃないし、ましてやフェリクスさんのペクリウムを侵害しようだなんて、そんなそんな!」
「ほう?ではなにを……?」
フェリクスのおっちゃんが面白そうに眉を上げる。
「実はだね!彼の工房設立が難航していると聞いて、私の工房の一角を貸そうかと……」
「製法は秘密ですのでね。他所の工房を使うわけにはいきません。それでもし麦の蜜の製法が他所にもれたら、まっさきにテレンティウスさんを疑う必要が出てくる。それはお互いにとって不幸なことではないですか?」
「うぐっ……」
至極当然なことを言われ、テレンティウスさんが言葉を詰まらせる。
凄いな。
ルクレティウス家の権威が強いことはわかっていたつもりだったけど、その威を借りるだけでもここまで優位に交渉ができるのか。
そりゃあ使いどころは見極めないと危ないし、今の時点でルクレティウス家の直接関与を匂わせることはできないのは当然だ。
「し、しかしねフェリクスさん。実際問題麦の蜜工房の立ち上げのためにせっかく親方衆が金を貸したのに、計画が遅延しているのは事実で、それに我々は困っているんだ。フェリクスさんだってそれは同じだろう?」
「まあ確かにそうですな」
……なお工房設立が遅れてるのはリバーシ事業が原因で、その発端になったのはルクレティアお嬢様の無茶ぶりなので、工房遅延そのものはルクレティウス家にも結構な責任があると思うのだが、この場においてそれを指摘するものは誰もいないのでスルーされる。
「ではこういうのはどうですかテレンティウスさん。どうやらあなたはこの事業に出資したいようだ。でもそれは我々としては難しい。だがデキムスが借り入れをするのは私は止めはしない。他の親方衆の様に、デキムスに貸し付けをするというのは?もちろん優先納入権の割り当て付きでだ」
「うーん、貸付、ですか」
「ついでにどこか大きなかまどがある空き工房もご存じでしたらあっせんしていただけるとありがたいですな。もちろん貴方が今使っているところ以外で」
「優先納入権は魅力的ですし、元々2000デナリウスを出そうと思っていたので不足資金の全額もまかなえるでしょう。しかしデキムス君がまた資金を流用しない保証が欲しいですな。あと親方衆の貸付額の倍を出すのです。優先納入権以外にもう少し色は付けれませんか」
「ではテレンティウスさんの追加貸付は私が管理し、そちらの親方衆の代表と私の合議で支出を認めるというのは?私はここの所立て込んでいるので、ここのルシウスを使いに出すことになると思いますが……」
フェリクスのおっちゃんはしれっと俺に工房設立プロジェクトの作業をぶん投げてくる。
その目には『この場はまとめてやるしケツも持ってやるからからとっととお前主導で工房立てろ』と書いてあった。
「なるほど、この子を……用途制限についてはわかりました」
そして10歳の子供が工房設立の主導権を握るなどとは思っていないテレンティウスさんは、フェリクスのおっちゃんの言葉をそのまま受け取ったようだ。
つまり『こちらで関与する範囲の大枠は小間使いのルシウス経由で伝えるから、デキムスの監視はそっちでやれ』ということ。
「ではこちらからは……スプリウス親方。頼めますかな?」
「ん?あぁ、わかった。引き受けよう」
パン屋側からは一番デキムスさんの性格を分かっている、麦の蜜を初めて買った顧客であるスプリウス親方が監視をすることに。
「ではもう一声のほうは……」
「んー……そちらは、先ほど少し触れた高級品の優先納入権ではいかがかな?」
「ほぅ、高級品」
「今まさに当家と誼のある令嬢奥方様に引っ張りだこの蜜、シリゴを使った麦の蜜は当家専用にしているのですよ。ただ最近はあまりにも当家への照会が多いので、工房開設後時期を見計らってデキムスに販売の許可を出そうと思っていたのですよ」
ちなみにこの最高級麦の蜜、小麦麦芽水あめの改良品なのだが、リバーシのヒットによりお嬢様にとっての麦の蜜の優先順位が下がり、周りにあっせんする商品になったためむしろすぐ作れと言われているのだが、フェリクスのおっちゃんはそれをちゃっかりと交渉材料に入れやがった。
すげえ面の皮である。
「ルクレティウス家と誼のある女性たちが夢中になる麦の蜜……」
親方衆とテレンティウスさんの喉がごくりとなる。
今まではあくまで一般の自由民、上~中流層向けの商品に使っていた麦の蜜だが、そんなご令嬢や奥方様が夢中になっているモノを使えるのであれば、もっと付加価値のあるパンを上流階級に向けて焼くことができる。
儲けの匂いが焼きたてパン並みにする情報だ。
「しかしこんな事態だ。テレンティウスさんのお力添えで今月中に工房の開設にこぎつけられるならば、工房稼働と同時に許可を――」
「貸し付けを致しましょう!その最高級麦の蜜、私にはどれくらい割り当てていただけるので!?」
元々貸し倒れリスクが限りなく低い貸付だ。
それに今までなかった情報、最高級水の蜜をぶら下げられた結果、テレンティウスさんは飛びついた。
その後は乱入時の雰囲気が嘘のように和やかに話は進んだ。
最高級麦の蜜はあくまでパンの材料としてのみ仕入れることを許可すること。
もしテレンティウスさんあてにその麦の蜜の購入を申し出る人がいた場合、フェリクスのおっちゃんが許可した場合は販売を認めること。
親方衆には詫びとして工房開設後1年間は1割引きで麦の蜜を売ること。
物件はテレンティウスさんが保有する、最近破産したパン工房の居ぬきを格安であっせんしてくれること。
そしてデキムスさんは月末までに物件を改装し、奴隷を確保し、稼働を開始すること。
稼働できなかったらデキムスさんの借入の利息が全部3倍になること。
最後の条件でデキムスさんは涙目になっていたが仕方がない。
だってそうしないと工房設立を最優先にする理由がデキムスさんにないんだもん。
しばらくデスマになると思うけど、頑張って?
フェリクスの権勢:
自由民であるテレンティウス・ネオと奴隷であるフェリクスでは本来はフェリクスの方が立場が下。
だがフェリクスはポンペイの有力者で市政府要人のルクレティウス・フロントの私財を差配する立場。
当然ながら選挙対策などでパンを振る舞う際の手配等の実務などもフェリクスが行う。
そしてこのレベルの奴隷になるとその言葉は家のプライベートの範囲においては主人と同様の重みをもつ。もちろんそれには責任も付随するが。
つまり公の場以外では大規模パン屋のオーナーと同程度の力を持っているのがフェリクスだったりする。
『パンとサーカス』と選挙:
ローマを表す有名な言葉で権力者に限らず時の政治家が良く行っていたと思われがちだが、実は選挙に当選するためにパンをばらまく行為は買収行為に当たるので禁止されていた。
しかしはっきり言ってほぼザルで、季節の祭り、公共の宴へという形ならOKだったりした。
他にもギルドによる候補者の推薦とその見返りの利益誘導など、大体現代と遜色ない感じの癒着構造が存在していた。




