20話 鬼詰めされるデキムス
我々ローマ市民にとってテルマエとは地上の楽園だ。
適度な温度に保たれた浴室、美しいモザイク画、(金があるならば)心地よいマッサージ。
日々の疲れを癒やし、友人たちと語らうための至福の場所。
……の、はずなのだが。
「……あ、あぐっ……!そ、そこは少し……!」
「おや、デキムス君。随分と体が凝っているようだね。もっと強くほぐして差し上げろ」
「へい」
背後から響くテレンティウスさんの声に、俺の背中を揉んでいた巨漢の奴隷が力を込める。
「ヒギィー!?」
ギリギリと筋肉が悲鳴を上げ、俺は屠殺される豚のような声を漏らして大理石の台にへばりついた。
ここはフォロ浴場の温浴室。
本来なら入浴前の準備運動や入浴後のマッサージを受けてリラックスするための場所だ。
だが今の俺にとって、ここは処刑台以外の何物でもなかった。
というか今肩をひねられた時、めっちゃ痛かったんだけどこれ本当にマッサージ?? 拷問じゃない???
そんなことを考えながら周りを見る。
俺の周りを取り囲んでいるのは腰布を腰に巻いたパン屋の親方衆。
全員が腕を組み仁王立ちでマッサージ台の上の俺を見下ろしている。
その視線は熱気の中でも凍りつくほど冷たい。
そして、俺の真横のベンチにはテレンティウスさんが奴隷に香油を自らの肌に塗らせている。
「さて、デキムス君。体もほぐれたところで、君の抱えている事業の話をしようじゃないか。君たち、もういいよ」
「へい、またごひいきに」
テレンティウスさんが言うとスッと奴隷たちが下がっていく。
「まず前提を整理しよう。君はここにいるパン屋たちが貸し付けた麦の蜜工房設立のための資金をリバーシという別の事業に転用し、その結果工房の設立が遅れている。……これは背信行為だ。わかるね?」
「そ、それは……!一時的な資金の回転と言いますか……!」
俺は脂汗まみれの体で上半身を起こし、必死に弁明を試みる。
「リバーシの利益が出れば、すぐにでも工房の資金に戻します!そうすれば当初の計画よりも製造能力が高い工房を――!!」
「それはいつだ?」
俺の弁明をまだあまり麦の蜜を回していないパン屋の親方が遮る。
「来週か?来月か?俺たちが零細薪商人だったお前に金を貸したのはな、お前に金を貸せばすぐにでも麦の蜜を大量に作るって言ったからなんだよ」
「う……」
「お前がお貴族様向けの遊技製造で儲けている間、俺は店の上客に白パンの受注受付延期の連絡をしてんだぞ。お前俺のメンツ潰したって自覚ある?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
彼らの言うことは正論だ。
ただの零細薪商人である俺自身に信用なんてものは存在しない。
いや、正確にはあるが借りた金額には全然足りない。
彼らが金を貸してくれたのは、それを差し置いても欲しい商品があるからだ。
しかし俺はそれを利用して、信用を切り崩して目の前の儲けに舵を切ってしまった。
それは確かに何も言い訳はできない。
だが俺にも言い分はある。
「で、でも俺みたいな零細商人がお貴族様からの依頼を断るなんて無理だったんだよぉ……」
「まあ、それは……」
半泣きの俺の顔を見て親方衆の眼力が少し下がる。
「この町だけで100件の受注なんだぞ……?妻子のいる上流階級の半分くらいじゃないか?親方たちだったら断れるのかよ?」
半ば逆ギレに近い言葉だが、親方連中には刺さったようだ。
普通に考えて無理だろ?
「まあ、無理……だな」
「にしてもお前、金貸しから金を借りるとかいくらでも手段はあっただろうが。なんで俺らが貸してる金に真っ先に手を付けるんだよ」
「零細商人の俺に金貸しが金を貸すわけないじゃねえかよ」
「いやいやいや、お前、上流階級から直接受注受けてるだろうが。注文書をきちんととってそれもってけば、多少利率は高くても普通に貸すだろお前」
スプリウス親方が何言ってんだお前?みたいな顔で突っ込んできた。
……え?そうなの?
「まあ過ぎた話をしてもしょうがないじゃないか君たち」
俺がじゃあ金貸しから借りようかなと思考を切り替えそうになるのを遮るようにテレンティウスさんが親方たちをなだめる。
「とにかく、君は物件の選定もできておらず、資金も不足してるわけだ」
「資金は次のリバーシの納入ができれば……」
「でもそれはできれば次のリバーシ製造費にあてたい、そうだろう?」
「まあ、そうっすね」
「そこで、だ」
俺の返答にテレンティウスさんが目を細めると、一つの案を提示してきた。
「君が資金繰りで工房の物件選びに難儀しているというなら、私が助け舟を出そうじゃないか。私のパン工房の一角……そこが今、ちょうど窯の入れ替えで空いているスペースがあってね」
テレンティウスさんの工房。
そこは市内でも最大規模を誇るパン工房だ。
「設備は全て私が用意しよう。かまども、鍋も、人員もだ。君はただ、材料を持ってそこに来ればいい。……来週からすぐにでも麦の蜜を生産できるぞ? そうすれば、彼らへの義理も果たせる。悪い提案じゃないだろう?」
一見すると、渡りに船の提案に聞こえる。
だがその裏にある毒に気づかないほど、俺も馬鹿ではない。
「……そ、それは、ちょぉっと問題がありまして……」
「なに、遠慮することはない。私も君の工房が作る麦の蜜で作るパンを早く富裕層向けの主力商品にしたいからね」
「えーと、あの蜜の製法は……その、特殊な手順が必要でして、通常のパン工房を併設は、ちょっと都合が悪いと言いますか……」
俺は必死に言葉を濁す。
設備も人員も全部テレンティウスさんの工房で作るということはつまり製造工程を全部テレンティウスさんに明け渡すということに他ならない。
実質的に水あめ事業が乗っ取られることを意味する。
まだレシピをルシウスに貰っていないから予測に過ぎないが、ルシウスは工程そのものは簡単だと言っていた。
そこから推測すると、どう考えても速攻でレシピを盗まれる。
いや、最悪レシピを盗まれるだけで済むならそれはそれでよい。
よくないけどまだ俺にはリバーシがある。
だが、レシピを盗まれるということは実質的にルクレティウス家の財産を盗まれるのと同義。
それはルクレティウス家とテレンティウスさんとの戦争を意味する。
ルクレティウス家は名門だが、儲けの前でテレンティウスさんが戦争の覚悟をしないとは、俺はどうも思えなかった。
そして戦争が始まればルクレティウス家が鉄砲玉にするのはまず間違いなく俺。
絶対ただでは済まない。
「……ふむ。製法の秘密を守りたい、と」
テレンティウスさんの目が、すっと細められた。
そうなんだけどそうじゃねえんだよ!
「まあ、商売人としてその警戒心は嫌いじゃないよ。だがねデキムス君。君にはもう時間がないんだ。金もない、場所もない、信用もない。見たまえ親方たちの顔を。この状態であと1か月も待ってくれるとでも?」
促されて親方衆を見回す。
そこには「絶対に待たんぞ」という鉄の意思が見て取れた。
その様子を見てからテレンティウスさんは立ち上がり俺のマッサージ台に手をついて顔を近づけた。
「ならば、こうしようか。私が、ここにいる彼らの債権……つまり君への貸付分をすべて肩代わりしよう。1000デナリウスがチャラだぞ?その上で同額を追加でソキエタスとして出資しようじゃないか」
テレンティウスさんの提案に親方衆がざわつく。
「えっ……?テレンティウスさん、それだと俺たちの優先納入権は?」
親方衆が心配しているのは貸付に付随する特権、優先納入権の件だ。
「それはさすがにデキムス君に譲歩してもらうしかないね。それくらいの責任は果たしてもらいたいものだよ?あぁ、期間はそうだな……3年程度で構わない。それ位には製造能力は需要に十分なだけ確保できるだろう?」
そう言って俺に向き直るテレンティウスさん。
「おいデキムス。これならカネの問題は何とかなるだろう?」
「いい条件じゃねえか。……まさか文句はねえよな?」
供給が安定するまで権利が保持されるという前提で親方衆が俺に迫る。
「あの、権利の割合は……」
「工房の権利の半分。君が50%、私が50%でどうだい?」
「は、半分……ですか」
「そうだ。経営の半分を私が持つ。そうすれば資金繰りの心配もなくなるし、私の販売網も使える。君は水あめ事業とは別にリバーシ事業も継続できる。……悪い話じゃないだろう?」
悪い話どころか駆け出し商人に出す条件としては破格というほかはない。
それだけテレンティウスさんもこの麦の蜜事業に将来性を感じているのだろう。
普通なら飲む一択だ。……普通なら。
だが無理。今の俺には無理!
そもそもこの麦の蜜工房、俺の発案じゃないんです!
ルシウスって奴の主導でルクレティウス家の家財管理奴隷のフェリクス様のペクリウムがすでに資本に入ってるんです。
利益の分配は20%とか言う破格の条件で。
おそらく俺はルシウスの英知を注ぎ込む器として大きく育てられてルクレティウス家に美味しく食べられる運命なんだと思う。
逆にそうでなければこうも急に厚遇される理由がない。
つまり確かに工房の権利は俺が持ってるけど勝手に資本入れるとかいう決断は無理なんです!!
極論ルシウスが麦の蜜のレシピ渡さないって言ったらそれでおしまいな事業なんです!!
そう喉から出かける。
だが言えない。
俺は麦の蜜事業の背景にルクレティウス家の影があるということは漏らすなとフェリクス様からきつく言われているのだ。
「……も、申し訳ないがテレンティウスさん。それだけは……難しいと言いますか、できないといいますか……」
俺は震える声で拒絶した。
するとテレンティウスさんの表情から、一切の感情が消えた。
「……できない?」
空気が凍りついた。
周囲の親方たちもゴクリと唾を飲み込んで沈黙する。
テピダリウムの暖かな空気が、肌を刺すような冷気に変わった錯覚を覚える。
「私の工房も使わない。出資も受けない。……じゃあどうするんだ? 今ここで彼らに借金を返せるのか?1000セクスタリウスの麦の蜜を来週納品できるのか?」
「う、うう……」
「おいデキムス。……てめぇ、この私に恥をかかせて、ただで済むと思っているのか?あ?」
先ほどまでの丁寧な物言いが嘘のように乱雑な言葉を口にするテレンティウスさん。
競争の激しいポンペイのパン業界で生き残ってきた男。
こちらが本性なのだろう。
「そういや工房設立に1000デナリウスじゃたりねえよなあ?もしかして誰かともうソキエタスを組んでるのか?」
「……うす」
「じゃあそいつ呼んで来い。使いを出してやっから。そいつの出資分もまとめて引き受けてやんよ」
いや、だからそういう問題じゃないんだよなぁ。
……だれかたすけて。
もうにっちもさっちもいかなくなった俺は天に祈る。
とりえずルシウスに英知を授けたミネルヴァ様に祈る。
「――テレンティウスさん。私の友人とずいぶん熱心に話しているようですな?」
温浴室に聞き覚えのあるたくましい声が響く。
声の方向に視線を向けると、そこにはフェリクス様の姿。
後ろにはルシウスもいる。
どうやら今日はミネルヴァ様はご機嫌のようだった。
超速球で願いをかなえてくださった。




