彼はもういない 4
「状況を整理してみましょう。まず一週間前に鬼流院剛という名前で本が借りられました。しかし学年とクラスが嘘で、ついでに名前も偽名だった。本を借りるには学生証が必要だから、借りたのが本人かどうかは別として、鬼流院剛という生徒は存在するはず。けどそんな生徒は存在しない。……こんなところですかね」
連太郎がするすると状況をまとめ上げた。わたしはこういうのに馴れているから別になんとも思わないが、先輩と先生はぽかんとしている。
「学生証があるってことは、この学校の生徒ってことよね? でも鬼流院なんて苗字の生徒はいない……。どういうこと? わけがわからないんだけど……」
わたしが首を傾げながら呟くと、花信先生が手を挙げた。
「他校の学生証だったんじゃねえか?」
「私をバカにしないでください。一年間同じ学生証を見続けてきたんですよ?」
彩坂先輩が先生を睨みつけながら言った。その険の強さに先生は顔をしかめるも、人差し指を立てて食い下がった。
「いや、ほら、音白高校と似た学生証があるかもしれねえじゃん?」
「訊いてみましょうか」
連太郎が再びスマホを取り出した。二人の視線が彼に集まった。
「また坂祝?」
「ああ」
スマホを操作しつつ、連太郎はわたしに言葉を返してきた。しばしのコール。
「圭一、何度も悪い」
『今度はなんだ?』
「この学校と似たような学生証がある学校って、近くにある?」
『ないと思うぞ。ここらで学生証があるのって、ネジ校くらいだし。他は生徒手帳と一体化してるんだ。桜ヶ岡学園には確か学生証があったけど、こことは全然違う。女子校だからやたらオシャレなんだ』
剛って名前なら、女子じゃないわね。もしそんな名前の女子がいたら、わたしがその親をぶん殴ってやる。
「サンキュー。助かった」
『いや、いいけど……。何調べてんだよ』
「解決したら教えてやるよ。じゃあな」
電話を切った。
「どうやら近所に音白高校に似た学生証を配布している高校はないようです。仮に遠くの学校の学生証を使用したとしても、やっぱり一年もこの学校の学生証を見てきた先輩なら、気づいたでしょう」
「お前の友だち、何者だよ……」
花信先生が呆れたように言った。連太郎はスマホをポケットに入れつつ、
「ただの情報通ですよ」
「何でこう、この学校の生徒は変なんだ……?」
先生は現状を憂うような口振りでも、呆れたような口調でもなく、ただ純粋な疑問が口から出た風だった。わたしも同じことを常々思っていた。
「それで、結局のところ、鬼流院さんは何者なんですか? どうして存在しない生徒の学生証があるのでしょうか?」
彩坂先輩が不思議そうに頭を捻りながら貸し出し名簿を見つめている。
連太郎は先生に習って椅子をカウンターの前まで持ってくると、
「在校生の学生証でも、他校生徒の学生証でもないのなら、考えられるのは一つだけ……卒業生の学生証です」
なるほど……。その発想はなかった。流石は連太郎。しかし花信先生が反論意見を挟んだ。
「いやいや。卒業生の学生証は卒業前に回収することになってっから、そいつは無理だ」
「回収する前に盗めばいいんですよ」
「あっ、そうか……」
「ということで、頼みます」
連太郎が手を扉に向けると、花信はぽかんと口を開けて首を傾げた。
「なに?」
「いえ、ここ最近の卒業生の中に鬼流院さんがいると思うので、調べてきてください」
「ええー……そういうのは司書の新井先生に頼んでくれよなぁ……。めんどくせえよー。職員室まで遠いんだよー」
子供のように文句を垂れる花信をわたしと連太郎は冷たい目で見つめた。これが教師の態度か。謎の人物が卒業生の名を語っているというのに……。ふと思った。どうして犯人はこんなことをしたのだろう?
脱力しながら文句を吐きまくる花信先生を見て、彩坂先輩が怒気と軽蔑と侮蔑をたっぷり込めた舌打ちをお見舞いした。その後、ゴミクズでも見るかのような絶対零度の視線を注ぐ。普段の彩坂先輩からは想像できない態度だった。わたしは何故かそれにゾクゾクしてしまった。無理やりマゾヒストの扉をこじ開けられそうな雰囲気を、いまの彼女はまとっている。
流石に娘にここまでやられるのは答えたのか、冷や汗をかきつつ立ち上がった。先生は何かをごまかすかのように口笛を吹きながら扉に向かう。
「先生。できれば鬼流院さんの交友関係や人となり、部活とかも調べてください。担任だった先生に訊けばわかりますよね?」
連太郎が花信先生の背中に向かって言った。先生は無言で頷くと、図書室から出て行った。
「まったく……」
彩坂先輩が溜息混じりに呟いた。それを見た連太郎が聞きづらそうに頭を掻きながら、
「不躾な質問ですけど、先輩と先生……何かあったんですか? 明らかに普通の親子じゃないですよね?」
わたしが以前からずっと訊きたかったことを連太郎が代弁してくれた。
彩坂先輩は椅子の背もたれに体重をかけると、溜息を吐いた。
「私が七歳のとき、両親が離婚したんです。理由はあの人の浮気。しかも三股ですよ? あんな適当な人間に母以外の女性が惹かれるなんて考えられませんでした。……その離婚のせいで、私は母方の祖父母の家で育ちました」
そこから、彩坂先輩の口調に若干の怒気が加わり、熱を帯びていく。
「十四歳のときです、あの野郎が祖父母の家にふらっとやってきたんです」
あの野郎……。
「あのカスは心を入れ替えたから母と復縁したいとほざいてきました。もちろん私も祖父母も反対してゴミを叩き出そうとしましたけど、クズの親愛の舞なる踊りに母が心を打たれて現在に至ります」
カスとかゴミとかクズとか……あなたは本当に彩坂先輩? けっこう前に連太郎が話してくれたザラブ星人かババルウ星人じゃない?
「彩坂先輩も大変なんですねえ……」
わたしは自分の両親のことを思った。父親は娘に物騒なこと言いながら弱音を吐くし、母親は……あれだし。
わたしは彩坂先輩に父親が物騒なことをボヤいてきたことを話した。先輩は目を丸くして、
「風原さんのお父様は刑事なんですか……」
と驚いた。続いて、
「お母様は何をなされているんですか?」
その質問に、わたしの表情は苦いものに変わる。何かを察してか、彩坂先輩が謝ってくる。
「あっ、申しわけありません。思い出させてしまって……」
どうやら勘違いしているようだ。
「あの、わたしのお母さんは別に死んでませんよ?」
「……そうなんですか?」
「はい」
彩坂先輩はほっと胸を撫で下ろした。
「では、いったいどうされているのですか?」
「そ、それは、ですねえ……」
「奈白のお母さんは、現在ロシアに滞在しています」
わたしが言い淀んでいると、連太郎がすぱっと口を開いた。
「お仕事か何かで?」
「いえ。ロシアにシステマを習いに行ってるんですよ」
「システマ?」
「軍隊格闘術です。奈白のお母さん、武術・格闘技マニアなんですよ。見るんじゃなくて、やる方の。極めたい武術や格闘術を見つけたら、本場の国まで出向いて鍛えるんです。空手、柔道、剣道はもちろんのこと、弓道、合気道にボクシングやムエタイ、レスリングとテコンドー、薙刀フェンシング少林寺拳法グラビーグラボーン獣拳などなど」
連太郎の回答に、彩坂先輩ははにわのように口をぽかんと開いたまま固まってしまっている。無理もない。そんなむちゃくちゃな人間はおそらくこの学校にもいなかろう。でもむちゃくちゃなのに、それらすべてを完璧に使いこなすから恐ろしい。母親がこんなんなら、娘もこんなんになってしまうのは仕方ないと思う。わたしが文学少女になれない理由の大半はお母さんのせいだと思っている。ちなみに最後の獣拳は存在しない。連太郎が好きなだけだ。
硬直していた彩坂先輩は何かを振り払うかのように首を振り、訊いてきた。
「軍隊格闘術なんて、簡単に憶えられんですか?」
それにはわたしが答えることにする。
「軍隊の格闘術は割と簡単に憶えられますよ。色んな人が入隊しますから、そういう風に作られているんです」
「へぇ……。間颶馬さんのご両親は?」
「親父が海外に転勤中、母親は会社勤めです。妹と仲良く暮らしてますよ」
連太郎は肩をすくめながら答えた。
しばらくだべっていると、わたしは思い出したように呟いた。
「そういえば、誰かさんはどうして卒業生の学生証を使ってまで図書室で本を借りたのかな?」
急に話題が戻ったので二人が一瞬だけ固まったが、
「そりゃ、借りパクするためだろうね」
連太郎が当然といった風に口を開いた。彩坂先輩も納得しているようだ。
「そういえば、誰かさんは何を借りたの?」
「あっ、それはね」
彼の問いに答えるべく、目の前のパソコンを操作していく。連太郎は画面をみるためにカウンターの内側に入り込んできた。
「これよ」
パソコンの画面を、連太郎は食い入るように眺めた。
「『ハリー・ポッターと賢者の石』、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』……の英国版? 何でそんなものが学校にあるの?」
何故だか連太郎は目を見開き、口をあんぐりと開けて驚いていた。そんなにびっくりするものかな?
彼の質問には彩坂先輩が答えてくれた。彼女は窓際にある本棚を指差し、
「校長先生の甥が二十年くらいイギリスにいたらしくって、そのときの本をくれたんです。あそこにあるのはすべて英語ですよ」
わたしは話を継ぎ、
「楽しく英語の勉強をしましょう……ってことだって。英会話部がたまに借りる程度だけどね」
連太郎はカウンターから出ると、本棚に近づいた。棚の段数は三段で、そこに小説がびっしりと隙間なく並べられている。英語が苦手なわたしは本のタイトルの大半はわからない。
「どれも状態がいいですね」
「本を大切にする方だと、校長先生が言っていました」
連太郎がこっちに戻ってきた。そして再びパソコンを眺め、
「なるほどね……」
と一人で納得した。納得されても困る。本欲しさにここまでやるだろうか? まあ、わたしは漫画くらいしか読まないから、本が好きな人の気持ちはよくわからないのだけど。
「誰かさんがどんな人なのか、あたりはついてるの?」
わたしは連太郎に尋ねた。
「だいたいわね。二年生以上の男子生徒だと思う」
「男子っていうのはわかるけど、どうして二年生以上なの?」
「鬼流院さんが昨年度の卒業生だったとしたら、一年生には学生証を手に入れることができないからね」
「学校外で盗んだのかもしれないじゃない」
「そうかもしれないけど、図書室で本を借りるのに学生証が必要だなんて、普通は知らないよ」
確かにそうかも……。この学校に通ってる生徒でさえ知らない人が多いのだ。通っていない生徒がそのことを知るのは難しいだろう。いやでも。
「犯人が落ちてた学生証を拾ったとかは?」
「学生証は基本的にバッグに入れていると思うし、何に使う必要もないから、落とすことはないんじゃないかな?」
まあ、そうか。
「それからたぶんだけど、誰かさんは鬼流院さんと親しい人だと思う。プライベートで会う人とか」
「どうしてですか?」
彩坂先輩が訊いた。
「見ず知らずの人からものを盗むのって、けっこう勇気がいるんですよ。……って、果園さんが言ってました」
梨慧さんが言うなら信憑性は高そうだ。しかし彩坂先輩は曖昧の首を捻る。
「はあ……」
連太郎は咳払いをすると、
「まあ、バッグをあさってものを盗む隙なんて、ストーカーでもなければないでしょう。それに、鬼流院さんが学生証を持ち歩いているかもわかりませんから」
「……なるほどです」
ひとしきり会話が終了すると、花信先生が戻ってきた。




