第二十八話
「こっちだ! ついてこい!」
俺達は、走る。すぐ後ろでは、スカートをたくし上げながら、濡れた髪を顔にベッタリ貼り付けたマグダレーナが必死についてきている。
顔を打つ雨粒が視界を遮るが、構ってなどいられない。
「くっそ……」
村の外れ。そこには、風に揺れる木の吊り橋があった。
「見りゃわかんだろ、こんな日にこんなところ通りやがって……」
ここは日本ではない。建造物の安全性など、誰も保証してくれない。
古びた木の橋は、ただ色褪せたロープに支えられるだけの頼りない代物だった。その下は断崖絶壁で、増水した川が白い泡を吹き上げながら流れている。もしこの橋が崩れたら。そうでなくても、風に煽られて落とされたら、もう助からない。
「ちっ……行くか」
危険は感じていても、逃げ出さないあたりはさすがだ。俺達も、サビハの後ろから、少しずつ橋を渡る。
無事、反対側に出たところで、彼女が足跡に気付いた。
「これ、か? やっぱりだ。足跡は二つしかねぇ」
「二つ?」
「消えかかってる古いやつが、ヴァン族の男のもんだろ。となると、もう一つが」
「どっちだ!?」
「慌てんじゃねぇ……こっち、道なりに行けば」
地面から顔をあげて、サビハは前を指差す。木々の生い茂る坂道を、俺達は早足で登っていく。
……キーン……
「っ!?」
金属音。離れた場所から。
これは、剣を打ち合わせた音?
では、誰かが戦っている?
「シッ!」
俺達を黙らせ、サビハは音を聞き取ろうと集中する。
すぐに左側を指差した。
「こっちだ! 風上のほう!」
吹き荒ぶ風、横殴りの雨を、むしろ掻き分けるようにしながら、俺達は走った。
木々の合間から生温かい風が通り抜ける。その空気が一瞬、冷たくなったかと思うと、そこは森の中の狭い草地だった。
いた。
剣を手に戦うシルヴィア。
だがその相手は……。
ブタのような醜悪な顔をした巨漢達だ。というか、あれ、人間の顔じゃないな? 明らかに鼻が突き出ているし、耳が大きいし。上半身は裸だが、下半身には一応、布のようなものを巻きつけている。
既に何匹かは倒されている。だが、数が数、まだ五匹はいる。そして、シルヴィアは既に疲労困憊だ。
ブタの化け物が、手にした大きな曲刀を振り回す。それを彼女は剣で受ける。
「あっ」
彼女らしからぬことに、その一撃で、剣を取り落としてしまった。
それだけではない。勢いに弾かれ、その場に倒れこんでしまう。
「くっ……!」
膝を突いたまま、立ち上がることもできないシルヴィア。それに対して化け物どもは、まるでせせら笑うかのような表情を浮かべて、ジリジリと距離を詰める。かと思いきや。
ブタどもは、腰布を取り払った。それが何を意味するかは、考えるまでもない。
「……殺せ!」
汚されるくらいなら。
彼女はそう叫ぶ。
冗談じゃない。
彼女を殺されるのも、汚されるのも、真っ平御免だ。
俺は『黒霧』を手に、駆け出していた。
ブタ頭どもがこちらに気付く。と同時に、その顔に、ナイフが突き立った。
「やれぇ!」
「うおおっ!」
お楽しみに気を取られていた手近なブタを、袈裟斬りにした。横を見ると、サビハがまた一匹、ブタの喉にナイフを突っ込んでいる。あと二匹。
気を取り直したのか、目の前の敵が曲刀を振り上げてくる。
「くっ!」
シルヴィアの剣を撥ね飛ばすほどの膂力だ。受けきれるか?
だが、真上からの切り下ろしにもかかわらず、俺はあっさりそれを受け止めた。なんだ?
確かに重い一撃ではあるが、それだけだ。
「おああ!」
羽より軽い『黒霧』を全力で振るう。紙切れでも引き裂くかのように、抵抗もなく、ブタ野郎は真っ二つになった。
残るは一匹。
既に背を向けて、逃げ出そうとしている。させるか!
追いすがって、そいつの脇腹に剣を突き入れる。と同時に、横から踊りかかったサビハが、その首筋にナイフを突き立てていた。
……やった。
なんとか、間に合ったが、危ないところだった。
足元には合計九頭のブタ人間どもが転がっている。そのうち四匹は、シルヴィアが一人で片付けたのだろう。
だが、どうにも釈然としない。
こんなにあっさり倒せる相手に、どうして彼女はあんなにも苦戦していた?
俺の戦闘能力のレベルが上がったのもあるし、武器だって上質だ。だが、この敵、強さでいえば、グオームで戦ったゴブリンどもと大差ない。あっちで彼女は、この程度の相手を十匹以上、狩ってたじゃないか。
「しっかり! シルヴィアさん!」
ふと、振り返ると、倒れたままのシルヴィアを、マグダレーナが抱きかかえている。
「どうしました!? 目を開けてください!」
俺とサビハが駆け寄ると、マグダレーナは悲嘆の表情を浮かべて、喉の奥からの苦しそうな声で応えた。
「……ものすごい熱です。こんなに体調が悪いなんて……私がもっと気をつけていれば」
「運ぶぞ」
サビハは、あえて無表情に、冷たい声でそう言い放った。
それだけに、深刻さがひしひしと伝わってくる。悪態をついている場合ではないと判断したということなのだ。
クテ族の家の外、軒下で、俺は待たされた。
シルヴィアの身につけていた衣服は水浸しになっていた。だから着替えさせる必要がある。それを今、女二人に任せているのだ。
それにしても、だ。
やせ我慢をする性格だとはわかっていたが、少し違和感を覚える。こんなに感情的に行動するのでは、騎士団の頃だって、仕事なんかできなかったろうに。
後ろで扉が開いた。
「ナールさん」
マグダレーナが呼びにきた。
俺はいそいそと中に入る。外で雨に降られるのがいやなのではなく、これ以上目立ちたくなかったからだ。
俺達に宛がわれていたのは家の奥の一室だけだったが、家主の好意で、今は窓際のダイニングに座らせてもらっている。窓際といっても、木の壁に、ポッカリと穴が開いているだけ。窓ガラスなんてものもない。
「……大変、深刻なお話になります」
「なん、だって」
深刻。
外傷はなかったはずだ。ということは、病気の方が、そんなに悪いのか?
だが、なぜだ?
「落ち着いて聞いてください。シルヴィアさんは大変に不運だったのです」
「悪いけど、早く結論を言ってくれないか」
声が震えてくる。
丁寧語で受け答えする余裕もない。
なんでこんなことに。
「では……現在、シルヴィアさんは、クッコロ病に冒されています」
なんだそれ?
「ゾナマ地方特有の風土病です。感染後、一日か二日で発症します。最初は倦怠感や微熱が続くだけですが、その後、一日程度で症状が悪化する場合があります」
「じゃあ、ゾナマについて調子が悪そうに見えたのは」
「最初は、船旅の疲れでしょう。ですが、その後、休む間もなく、泥棒を追いかけることになりましたから、疲労もストレスも溜まる一方だったはずです」
「でも、待った、待ってくださいよ。シルヴィアは、俺なんかよりずっと強いし、体力もある。なのになんで俺は平気なんだ!」
その問いに、彼女は目を伏せて答えた。
「男性だからです」
「は?」
「クッコロ病は、女性だけの病気です。男性は感染しないか、感染しても発症しないとされています。それにそもそも、ゾナマでも珍しい病気で、現地の人がかかることはまずありません」
そういうことか。
今までシルヴィアは、北方のエキスタレアにいた。生まれつき、南方の風土病に対しては、抵抗力がなかったのかもしれない。
「このクッコロ病ですが、悪化すると、様々な症状がみられます」
「それは、どんな?」
「ひどい高熱が出て、急激に力が出なくなります。ですが、それだけではなく……」
「他にも何か、あるんですか」
「……精神症状が」
思い当たるところがある。
確かに、こちらにきてからずっと、彼女は自分を責めるような態度ばかりだった。病気のせいで、正常な思考力を奪われつつあったのか。
でも確かに、地球にだってそういう精神症状をもたらす感染症とか、あったよな。
トキソプラズマなんかもそうだし。微生物だからって、なかなかバカにならない。あれで高等なはずの動物が、行動を操られてフラフラしたりするようになるんだから。
「患者は多くの場合、強い罪悪感、無力感にさいなまれるといいます。特に注意しなければいけないのが……希死念慮です」
「は? キシ……?」
「自殺しようとすることです」
それは……。
息を飲む。
「でも、誤解しないでください、ナールさん」
手を握り締めて、彼女は力説する。
「シルヴィアさんは、弱い方ではないはずです。あれが、今の彼女が、本当のシルヴィアさんだとは思わないでください。ただ、心身ともに疲れ果ててしまって、たまたまそんな時に……」
「運が悪かった、か」
「……いいえ」
目尻に涙を溜めながら、彼女は首を振った。
「もしかしたら、いえ、きっと私のせい、です」
低く暗い声。
俯きながら、彼女はそう呟いた。
「私が遠慮もなく、自分の欲を優先して、こんなところまでついてきたから……だから、シルヴィアさんが余計に苦しんで、それで……」
いきなり現れた女性らしい女性。
シルヴィアの心は、船旅の間にも、少しずつ削られていた。
だとすれば。
俺、のせいか?
くそっ、あの女悪魔。どうしてくれるんだ。
「それより、マグダレーナさん」
俺は身を乗り出し、彼女の注意を引いてみせた。
「どうすれば治せますか。治療法はあるんですか」
問題がどれだけ深刻でも、やるべきことに違いが出るわけではない。
俺の中での優先順位は、金よりシルヴィアだ。単純にそのほうが、価値が高いからだ。となれば、治療に役立つ何かに、最優先で取り組む。そのために何ができるか。必要なのは合理的な手段、それだけだ。
「あります」
「どうすればいい?」
「特効薬が」
なんだ、簡単じゃないか。
じゃあ、薬をもらうか、買うかすればいい。金が足りなければ、ツケで。
そうだ、『黒霧』を質に入れて金を借りるのも悪くない。そうすれば、実質、タダ取りできるし。
「なら、買いましょう。それで解決ですよね?」
「ですが、この辺ではまず入手できない材料が……必要な薬剤は二つあって」
「なんですか」
深呼吸してから、マグダレーナは説明を続けた。
「一つは、この近くで取れる薬草です。その名もクッコロ草といって、この病気の特効薬であるがゆえに、そう名付けられました」
「じゃあ、村の中で買えば済むかな」
「いえ、近くにはないので、少し離れたところにある山小屋まで行かないといけないそうです。村を出て、右ですね。そこは薬草屋さんらしいですから」
「わかった、それは俺が行けば済むな」
「はい、ですがもう一つが」
他に何か問題でもあるのだろうか?
「この辺では入手できない素材です」
「金で解決は」
「ゴヤーナまで行けば或いは」
「なら、急いで行く。いや、サビハに追加料金を支払って、全速力で取りに行かせる」
「間に合いません」
な……に……。
「今、シルヴィアさんには、急性症状が出ています。このままでは、もって二日か三日」
「うそ、だ」
「苦しみながら、死んでいくことに」
「い、いや! 二日で間に合うなら。サビハなら、足手纏いの俺達がいなければ」
だが、マグダレーナは首を振るばかりだ。
「本人にもう相談しました。でも、どんなに急いでも三日はかかる、と」
「くそっ」
そんな、どうすれば。
どうすればシルヴィアを助けられる?
……女悪魔。
あいつだ。
正直、俺にとって重要なのは、俺の仲間、俺の友人……俺の味方をしてくれる人達だけだ。
シルヴィアが助かるなら、関係ない奴なんか、いくら殺しても構わない。ましてやこんなゾナマの人間なんて。ひどい目にしか遭ってない。何人殺したって罪悪感すらない。
殺して、殺して、殺しまくって、ガチャを引けば。
そうすれば万能の薬なんかを引き当てたりもできるかもしれない。
「一応、参考までに」
「はい」
「シルヴィアに必要な薬の材料って、なんですか?」
「ずっと北方にしかない素材です。本来は薬というよりは、装飾品の材料なのですが……氷の海に棲むアイスウォレスの牙を削って、粉末にして」
「はあっ!?」
「で、ですから、手に入りにくいと」
拍子抜け。
なんだ、持ってるじゃないか。
「……どうしました?」
「それ、持ってるかも」
「えっ!? 本当ですか!」
「荷物、見てみる」
俺は起き上がって、荷物を漁りだした。
連中が盗んだのは金貨と宝石、あとは放り出していったはず……。
手に触れるスベスベした感触。あった。
ちょうど片手で握れるサイズの、真っ白な牙。
「これ……?」
「ああ! それがアイスウォレスの牙なんですね」
「えっ? 見たことないの?」
「はい……グオームでも珍しいものですから」
まあ、でも、大丈夫だろう。というか、他にどうしようもない。
あの女悪魔がそう呼んでいた素材なんだから、そうに違いない。
「多分、それで間違いないから」
「では、あとはクッコロ草ですね」
「早速、とってくる」
俺は小屋の外に出た。
そこで、俺を待っていたサビハと鉢合わせる。
「薬草かい」
「そうだ。金よりシルヴィアのが大事だからな」
「あたしらはどうなるんだ」
「前金は出しただろ? それで足りなきゃ、あとで少しは払う」
今は時間が惜しい。
「今から、話に聞いた薬草屋の山小屋に行く。荷物の件は任せた」
「それなんだけどさ」
ずいと身を乗り出して、彼女は言った。
「位置関係からするに、その場所って……例の獣道の先にあるところなんじゃないか?」
「えっ」
「村をナーガ山と反対方向に出て、右に行くんだろ。ってことは、あそこじゃないか」
「確かに」
まずい。
まずいな。
つまり、こういうことか。
ゴヤーナの街まで出てきて、薬草を売っていたヴァン族の一家が、もののついでで泥棒の手伝いをした。そいつらは今、セト村から少し離れた薬草小屋に帰ってきている。
その被害者たる俺達は、連中を追ってここまでやってきたが、シルヴィアが病気になった。だから、薬を買い求める必要がある。
しかし、俺は奴らに顔を見られている。ただ薬を売ってくれと言っても、素直に応じてもらえるかわからない。
「あたしが行った方がいいかもな」
「だな」
「ただ、それなら荷物の奪還は諦めろよ?」
「仕方がないな、それは……」
この村にいる四人の仲間も、彼女が管理している。俺とマグダレーナならコミュニケーションはとれるが、果たして彼らが俺達の命令をきいてくれるかどうか。もし、言う通りにしてくれるとしても、この複雑極まりない状況をうまく乗り切る自信はない。何しろ、この村の半分はヴァン族だ。迂闊なことをすれば、村の半分が牙を剥いてくる。
……いや、待てよ?
「っと、サビハ。やっぱり、俺が行く」
「はぁ!?」
「問題ない。俺に考えがある」
「正気かよ。まあ、それならそれで、あたしは本来の仕事をするだけなんだけどさ」
「いや、シルヴィアの護衛を最優先にしてくれ」
「ふーん……まあ、いいけどね」
腕組みして、彼女は家の壁にもたれた。
「ただ、一応言っとくよ。もし、ヴァン族の本拠地からバケモノども……あの『魔人』どもがやってきたら、私らは逃げる。死にたくないからね」
「できれば、その時は、二人も連れていってくれ」
「保証はできない」
「おい」
「あたしもまだ死にたくないんだ。文句があるなら、あんたが早く戻ってきな」
「……そうだな」
いろいろ問題はある。
だが、例の薬草小屋には、俺自身が行かねばならない。
合理的な理由ならある。サビハに行かせると、戻ってこない可能性があるためだ。
もし、その小屋が本当に泥棒どもの棲家だったら、そしてそこに金貨その他が保管されていたら、どうなる? 彼女はそこから欲しいものを盗み出し、一人でゴヤーナに帰ってしまうだろう。
金品を奪われるのはいいとしても、それでは彼女が薬を持ち帰ってくれないことになる。
もちろん、これは可能性の話だ。
だが、そうであればこそ、サビハも「自分が行こうか」と提案してきた。
だから、却下した。
「……すぐ戻る」
「そうしてくれよ」
軒先を出て、走り出す。途端に大粒の雨が俺を小突き始める。
時間がない。
余裕もない。
それでも、俺が何とかするしかない。
俺は降りしきる雨の中、暗くなり始めた森の中へと足を踏み出した。




