第45話『視界が変わる日』後編② ――未定義――
【同時刻/笹倉カフェ・越智隆之】
犬神の反応は過剰だが嘘ではない。
ただ現時点で断定できる材料は、ない。
視線を戻すと、天音と月城はすでに席に着いていた。
店内の空気も会話のリズムも、元のテンポに戻っている。
——俺の視界には、何も起きていない。
だが、犬神が「見た」と言った以上、無視はできない。
この違和感は未定義のまま、保留とする。
俺は、無意識のうちに月城愛衣を観測対象として捉えていた。
——解析開始。
【視認ログ:月城愛衣】
▶︎ 視線交差率:0.6秒(平均的)
▶︎ 表情筋変化:穏やか/警戒なし
▶︎ 推定感情:友好(信頼寄り)
【距離ログ:月城愛衣】
▶︎ 初期着座位置:テーブル中央寄り
▶︎ 他者との距離:適正範囲内
▶︎ 特記事項:接近時の緊張反応なし
ここまでは、問題ない。
次に生体指標を拾おうとした、その瞬間。
【生体ログ:月城愛衣】
▶ 心拍数:7@? bpm
▶ 呼吸数:1#▒ /min
▶ 体表温度:3※.※℃
▶ 自律神経指標:判定不能
▶ 感情干渉値:***/未定義
▶ 再計測要求:失敗
▶ [ERROR]:データ整合性喪失
——ノイズじゃない。なんだこれは?
数値が壊れているのに、
「測定しようとした痕跡」だけが残っている。
(……俺の生体ログが、ズレてるのか?)
あり得ない、とは言い切れない。
解析精度は常に一定じゃないし、環境要因で誤差が出ることもある。
だが、これは誤差の出方じゃない。
俺は解析を強制終了させた。
(……定義に収まらない)
それだけだ。
それ以上の結論は、今は出せない。
視線を戻す。
天音が何か話して、月城が穏やかに笑っている。
異変は確認できない。
少なくとも、表層“だけ”は。
——今は、これ以上踏み込む段階じゃない。
その会話が途切れたタイミングで、
足音が近づいてきた。
笹倉母が、トレイを手にテーブルへ向かってくる。
「熱いので、気をつけてね」
湯気が立ち、空気の温度が一段変わる。
匂いが遅れて周囲に広がった。
「わ……ローストチキン、美味しそうっ♪」
犬神の声がふっと落ち着き、
さっきまでの張りが、料理を前にほどけていく。
一度だけ手を合わせて、
「……いただきますっ」
そう言ってフォークが動き、一口。
「ん〜……美味しいっ♪」
表情も声も反応が素直すぎる。
満面の笑みのまま、一口ごとに頷いている。
(……本当に、美味しそうに食べるよな)
それだけで、肩の力が抜けた。
俺は一度だけ皿全体を確認してから、
ナイフとフォークを取る。
無駄のない動きで切り分け、ひと口。
「……美味しいな」
「でしょ?」
「ああ。火入れがちょうどいいし、脂も重くない」
事実だけを返すと、犬神が小さく息を抜いた。
「……やっぱり、外で食べると違うよね」
思い出したように、続ける。
「実は河田さんとね。最近、二人で料理すごく頑張っててさ」
「“ちゃんと美味しいの作れるようになりたい”って話してたんだ」
「……そうか」
「それでね、もし、うまくできたら……
学校のお昼休みに、味見してもらえたら嬉しいなって」
一拍。
「評価じゃなくていいよ?」
「ただ、どうだったか聞けたら、それで」
河田は、派手な自己主張をするタイプじゃない。
だからこそ、「ちゃんとしたい」という言葉には、
逃げも言い訳も含まれていない気がした。
――それに。
犬神もまた、結果より過程を大事にする。
褒められるためじゃなく、
“ちゃんと届くものを作りたい”と考えるタイプだ。
そういう頼み方をされた以上、軽く受け流す理由はなかった。
「分かった。出来たら、持ってきてくれ。
味見くらいなら、できる」
「ほんと?」
「ああ」
「頑張ってるなら、それには応える」
犬神は、ほっとしたように笑った。
——悪くない昼休みになりそうだな。
皿に触れる音とカトラリーの軽い響きが、静かに戻る。
そのまま他愛のない話をしながら食事を終え、
会計を済ませて店を出た。
*
ドアを抜けた瞬間、外気が肌に触れる。
周囲の情報量が一段増えた。
その中で、犬神は――
隣を歩きながら、さっきの猫の件をまだ引きずっている顔をしていた。
「……猫、距離感むずかしいね」
「相性だ」
短く返す。
「トラちゃん、全然こっち来てくれなかったもん」
「嫌われたわけじゃない。
初対面なら、そんなものだ」
犬神はそれ以上言わず、歩幅をそろえた。
並んで歩く足音が、商店街のざわめきに溶けていく。
角を曲がると、その先に——鳥居が見えた。
犬神神社。
歩調が僅かに落ちたのが自分でも分かる。
犬神も同じタイミングで息を詰めた。
「……なあ、犬神」
「ん、どうしたの?越智くん」
一度、言葉を選ぶようにしてから続ける。
「この神社の成り立ちについてだ」
「前から、由来を含めて一度整理しておきたいと思っていた。個人的な関心だ」
犬神は一瞬、言葉の意味を測るようにこちらを見てから、ふっと力を抜いた。
「へえー……」
「ちゃんと調べたい、って思うとこが越智くんだよね」
視線が、続きを待つようにこちらに向けられた。
「この辺りは土地と信仰の結びつきが強い。『犬神』って名前も含めて、整理しておきたい」
「……あのときのこともある」
あの春の日。境界が揺れた場所。
説明できない“事件”が起きた。
そして俺と犬神は、何かを手に入れてしまった。
犬神の表情が、わずかに引き締まる。
「それ、わたしも関係してるかも、だよね。
……今日、ちょっと引っかかることもあったし。なんとなく、だけど」
「……可能性はある」
否定はできない。
一度、思考を整理する。
――調べるなら、時間と条件が揃っている方がいい。
「もし、よければ。GWのどこかで、一緒に犬神神社について調べてみないか?」
「えっ」
驚いた声。
けれど、拒む色はなかった。
「じゃあ……5日、かな」
「明日は河田さんと料理の約束があって、明後日は部活でしょ?
だから……ちゃんと向き合うなら、その日がいいなって」
GWの終わりか。
区切りとしては合理的だ。
「5日で決まりだな」
犬神は一度だけ足を緩め、少し間を置いてから隣に並ぶ。
「……うん。5日」
その声を受け取って、俺は小さく頷く。
鳥居の前を通り過ぎると、
境内の木々が風に揺れて微かに鳴り響いた。
* * *
【5月2日(土)午後/眼鏡店内 越智隆之】
午後の光が、ガラス越しに店内へ差し込んでいた。
フレームが並ぶ棚に、細い影が落ちている。
(……思ったより、時間が経っている)
体感誤差が出る程度には、集中していたらしい。
犬神は、棚からフレームを一つ手に取った。
前に冗談で話した、オレンジ色の大きめの丸フレームだ。
一度は棚に戻したものを、少し間を置いて再び手に取る。角度を変えて光に透かし、それから他のフレームと並べて比べていた。
(……どうやら、気に入っているようだな)
「お待たせしました」
その声に視線を上げる。
カウンターの向こうで、店員がケースを差し出していた。
黒く、無駄のない箱。
中身が分かっているはずなのに、なぜか手を伸ばすまでに一拍あった。
ケースを開く。
そこにあったのは、さっきまで“試着用”だったはずのフレーム。
――だが、今は違う。
レンズが入っただけで、用途の前提が静かに切り替わっていた。
「どうぞ。掛けてみてください」
言われて、素直に従う。
鼻に触れる感触。
耳にかかる重さ。
……試着時より、わずかにフィットしている。
――次の瞬間、視界が切り替わった。
輪郭が前に出る。
空間の奥行きが、意識する前に整っていく。
(……はっきり、見える)
黒板よりも、ディスプレイよりも、
今は――隣に立つ犬神の表情が。
「……どう?」
控えめな声に、
「問題ない」そう返したはずだった。
……それでも、自分でも意外なくらい言葉が続く。
「視界が、楽になったな。
余計なノイズが静かに消えた」
犬神は一瞬だけ目を瞬かせて、
それから、ほっとしたように笑った。
「そっか。よかった……ちゃんと似合ってるね」
その言い方が、
眼鏡じゃなく、俺自身に向けられている気がして――
視線を外すことで、その感覚をやり過ごした。
*
支払いを済ませ、簡単な説明を受けて店を出る。
夕方の風が思ったより涼しい。
指先で、眼鏡の位置をなぞる。
(……違和感はない)
むしろ今までの方が、少しズレていたのかもしれない。
犬神が隣で空を見上げる。
「ねぇ、越智くん」
「なんだ」
「世界、ちょっと変わった?」
「……数値上は、変化してない」
つられるように――俺も空を見上げてから続ける。
「でも、焦点は合った」
犬神は、わずかに口元を緩めた。
「それなら、十分だねっ」
夕焼けの光が、彼女の横顔をやわらかく縁取っている。
《心拍数:微増》
《原因:未解析》
(……またか)
だが、今度はそのログを消そうとは思わなかった。
視界が変わった。
それは、“見えるもの”が変わったわけじゃない。
――“見落とさなくなっただけだ”。
そう理解して、俺は眼鏡越しに前を向いた。
* * *
【5月2日(土)夜/犬神千陽・自室】
ベッドの端にちょこんと腰かけて、スマホを手に取る。
画面の光が、部屋の空気をやさしく照らしてくれた。
――――――――――
千陽:
明日、わたしの家に集合ね。
材料はこっちで用意しておくよ〜っ
失敗しても大丈夫だからね!
――――――――――
送信。
画面を見つめたまま、指を止める。
すぐに既読がついて、
少しだけ間が空いてから返事が来た。
――――――――――
亜沙美:
ありがとう。
明日はちょっと緊張しそうだけど……
頑張るね。
――――――――――
「……うん」
声に出したら、思ったより小さかった。
スマホを伏せて、ふぅっと息を吐く。
(……よしっ)
明日は、河田さんと料理をする日。
包丁の音とか、火加減とか、失敗しないようにって思えば思うほど、いつもより真剣な時間になる。
でも――
ちゃんと一緒にやるって決めたから、大丈夫。
それが終わったら。
GWの終わりに、越智くんと犬神神社。
あの日、何が起きたのか。
私たちが、何を見て、何を感じてしまったのか。
まだ、うまく言葉にできないことばっかりだけど、
逃げないって決めた。
明日は、ちゃんと“いつも通り”。
笑って、失敗して、たぶんちょっと慌てて。
その先で――少しだけ、特別な日が待ってる。
スマホを置いて、ベッドにごろんと転がる。
お布団のあたたかさに包まれて――
このまま明日も、大丈夫だって思えた自分がいた。




