第44話『視界が変わる日』後編① ――境界に触れた瞬間――
【5月2日(土)午後/笹倉カフェ】
木製のドアが開いた瞬間、
焙煎した豆と焼きたてのパンの匂いが、いつも通り鼻をくすぐった。
「……わぁ、いい匂い……」
犬神の声が小さく弾む。
店内の音も、いつも通り整っている。
カップが置かれる音と、スチームの短い噴き出し。
奥ではクラシックが控えめに流れている。
環境ノイズは、問題ない範囲だ。
視線を店の奥へ送る。
カウンターの向こうで、笹倉の父がドリップしている。
こちらに視線だけ向けて、「いらっしゃい、越智くん」と短く言い、小さく頷いてから再び抽出に集中した。
レジのそばでは、笹倉の母がこちらに気づき、
軽く手を振る。
「あら、越智くん。こんにちは」
「今日は……お友だち?」
「はい。クラスメイトです」
「あら、そうなの」
そう言って、自然な流れで犬神へ視線を向け、
やさしく微笑んだ。
「はじめまして。笹倉の母です」
「あ、犬神千陽ですっ。よろしくお願いします!」
「高橋玲奈さんから、少し聞いてるわよ」
「えっ?」
犬神が素で驚く。
「テニス部に、有望な新人さんが入ったって。
とっても元気いっぱいな子だって言ってたわよ」
(……情報の回りが、早いな)
「ありがとうございますっ!
まだまだですけど……そう言ってもらえて嬉しいです」
犬神の顔が赤くなる。
そういう反応を全く隠せない性格だった。
――いつもの、穏やかな流れだ。
そう思った、次の瞬間。
奥から聞き慣れた声が弾けた。
「いらっしゃいませー!」
「――って、えっ?」
一香が、俺を名指しするように指を向けてきた。
「越智さんだっ! しかも……また、知らない女の人を連れてきてる〜!」
「誤解だ」
「誤解ってなに!? じゃあ説明してよ!」
恋愛ドラマの修羅場で聞いたようなセリフだ。
身に覚えはないが、責められる側の台詞はこう決まっている。
「……友人だ」
事実だけで返す。一香は露骨に頬を膨らませた。
「ふーん……。私という彼女(仮)がいながら、
そういう子に手を出すんだ?」
……妙に完成度の高い修羅場台詞だ。
犬神は状況を処理しきれない様子で、
俺と一香の間に視線を往復させている。
「その仮定は成立しない」
「……冷た。もうちょっと空気読んでほしいなぁ」
一香は、納得していない様子で口を尖らせた。
その反応を確認してから、俺は犬神に視線だけ寄越す。
「……笹倉先輩の妹だ」
そのわずかな間に、
犬神の表情が理解へと切り替わる。
「あっ……そ、そうだったんだ!
越智くん、その子と……付き合ってたんだって思って」
「……前提が違う」
即座に否定したが、もう遅い。
「あらまぁ」
事態を面白がっているのがはっきり分かる調子で、
レジのそばから余裕のある笹倉母の声が挟まる。
「一香、素敵な彼氏ができたのね。
お母さん、嬉しいわ」
「ちがっ……!」
一香が真っ赤になって声を荒げる。
「ちがうから!? 仮だから! 仮!!」
その背後で、ドリップを終えた笹倉の父が
カウンター越しにこちらを見る。
「……一香。越智くん」
落ち着いた声だった。
だが視線だけは、冗談の領域に留まっていない。
「後で、少し話を聞こうか」
「え、ちょ、パパ!?」
「安心しろ。怒ってはいない。
ただの――確認だ」
一香が、一歩引いた。
「……それ、絶対怒ってる言い方だよねぇ?」
俺は小さく息を吐く。
(……誤解の伝播速度が、想定を超えている)
重くなりかけた空気に、犬神が割り込む。
「えっとね、一香ちゃん、はじめましてっ!」
少しだけ声を張る。
さっきまでの張りつめた空気が、そこで切り替わった。
「犬神千陽だよっ。
今日はね、眼鏡作る待ち時間で、越智くんと来ただけなんだ!」
「……あ」
一香は一瞬、間を置いてから視線を合わせた。
「笹倉一香ですっ。
えっと……さっきは、ちょっと騒がしくしてごめんね」
「ううん、全然!」
犬神は即座に首を振る。
「一香ちゃん、めっちゃ元気だね。おもしろいし!」
「……えへへ。ありがと」
照れたように笑ってから、ふっと俺の顔を見る。
「ていうか……眼鏡?」
「え、越智さん眼鏡キャラになるの!?
それ、めっちゃ事件じゃん!」
「変わらない。ただの視力補正だ」
「まあいっか。越智さん、眼鏡似合いそうだもんね〜」
一香はそう言って、肩の力を抜いたみたいに表情を緩めた。
その横で、犬神がくすっと小さく息を漏らす。
さっきまでの騒がしさが少しずつ収束していく。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
*
案内された奥のテーブル席に座ると、
周囲のざわめきが自然と背景に退いた。
一香がメニューを差し出す。
「おすすめは日替わりね! 今日はローストチキンのプレート!」
「……それで構わない」
「即決!?」
「空腹時は、判断を引き延ばさない方がいい」
「なにそれ〜〜!」
一香が即座に突っ込む。
犬神は肩をすくめるみたいに小さく笑って、
メニューを覗き込んだ。
「じゃあ……わたしも同じのにするっ」
「へぇ、揃えちゃうんだ〜」
「……偶然だ」
一香は「はいはい、“偶然”ね〜」と笑って、
カウンターの方へ戻っていった。
少しだけ、テーブルの周りが静かになる。
その間に犬神が身を乗り出して、声をひそめるように言った。
「ね、越智くん」
「……なんだ」
「一香ちゃんさ……
笹倉先輩に、ちょっと似てるよね」
犬神は、少し楽しそうに言葉を探している。
「雰囲気。あと、笑い方とか」
「……ああ」
否定はしない。
「姉妹だからな。
仕草が似るのは不思議じゃない」
「うん、そうだよね」
犬神は一度だけ頷いて、
ほんの少し、視線を横へ逃がした。
「笹倉先輩、今日はどこか出かけてるのかな?」
「たぶん、ダンスのレッスンだな。
最近、そういうので忙しいらしい」
「そっかー……」
「会いたかったなぁ」
俺は何も返さず、言葉を選ばないまま、
その余韻をやり過ごした。
料理を待つ間、犬神の視線が落ち着かない。
無意識に店内へ目を走らせている。
――そのとき、テーブルの下、
椅子の下の暗がりで微かな気配が動いた。
茶トラの猫が一匹。
低い位置から目だけで犬神を射抜く。
「……トラだ」
「え、トラちゃん……?」
犬神の声が、思わず柔らかくなる。
椅子の下へ視線を落とし、覗き込むように身をかがめた。
「かわいい〜……こっちおいで〜……?」
――次の瞬間。
「シャーッ!」
「わっ……!」
犬神の肩が跳ねる。
トラの背中の毛が一気に逆立ち、しっぽが太く膨らんだ。
《猫語翻訳ログ:越智システム起動》
「シャーッ!(低く短)=『犬の気配ね。近づく理由が見当たらないわ。』」
→ 判定:拒否/敵意なし/距離維持
トラは一歩も近づかないまま、最後にもう一度だけ犬神を一瞥して、奥へと姿を消した。
「……」
「……気配だな」
「え?」
「犬の気配がする。
匂いじゃない。存在そのものを警戒してる」
「……そ、そっか……」
犬神は小さく息を吐いて、苦笑いした。
「わたし、なぜか分かんないけどさ……。
猫に、嫌われやすいんだよね」
「……たぶん、時間が必要だな」
「……時間、かぁ」
沈黙が、ほんの一瞬だけ落ちた。
――その間に、カラン、とドアベルの音が響く。
「いらっしゃいませ〜」
入ってきたのは、見覚えのある一年生が二人。
丸眼鏡をかけた小柄な生徒と、金色の長い髪の生徒。
丸眼鏡の生徒が、先に気づいたように口元を緩める。
「もしかしてやけど……二人とも、日向高校の一年やない?」
「はいっ。同じ一年です」
犬神が即答する。
「やんなぁ。やっぱり顔見たことあったわ〜」
隣の金髪の生徒が一歩だけ前に出た。
柔らかく口元を緩めて、丁寧に笑う。
「月城愛衣ですぅ。わたしも同じ一年なんですよぉ。
こうしてちゃんとお話しするの、初めてですね〜」
「犬神千陽ですっ。よろしくお願いします!」
「……越智隆之です。よろしく」
必要最低限で名乗ると、
丸眼鏡の生徒が口元をわずかに緩めた。
「こちらこそやで〜。森川天音、よろしゅうな」
「実はな、昨日から二人で風紀委員に任命されてん」
その言葉を受けて、隣の金髪の生徒――
月城が柔らかく微笑んで付け足した。
「そうなんですぅ。
正式に動き出す前に、ちょっと気持ちを整理したくて。二人で、落ち着いて話せる場所を探してたんですよ〜」
なるほど。
公式の挨拶や巡回ではなく、気持ちを切り替えるための時間、というわけか。
それなら、この店を選んだ理由も説明がつく。
「それじゃ、席のほう行こっか」
二人は並んで奥へ向かった。
視線の先で、その背中が少しずつ遠ざかる。
そのとき――
隣で、犬神が小さく息をのむ気配がした。
*
【同時刻/笹倉カフェ・犬神千陽】
ふわっ。
視界の端。
月城さんの腰のあたりで、淡い金色の何かが揺れた。
柔らかそうで、空気を含んだみたいに軽くて。
布とも髪とも違う、ふわふわした毛並みの動き。
(……え?)
ほんの一瞬。
だけど、はっきり“生き物の動き”だった。
胸が、どくんって鳴る。
(し、しっぽ……!?)
思わず越智くんの袖を引いた。
「ね、ねえ……今の見た……?」
「……何を?」
「月城さんの、腰のとこ……
ふわって、金色の……しっぽ、みたいなの……」
言った瞬間、自分でも恥ずかしくなる。
でも――確かに見た。
あれは、スカートの揺れとか影とか、
そういう“気のせい”で片づけられるものじゃなかった。
越智くんは、もう一度だけそちらを見て、
少し首を傾げる。
「……見間違いだろ。スカートの動きか、影だ」
「で、でも……毛みたいに、ふわって……!」
「ここ、照明も人の動線も多いからな。
錯覚は起きやすい」
……理屈は正しい。
正しいんだけど。
席に着いた月城愛衣ちゃんと、ふと目が合った。
にこっ。
やわらかくて、あたたかくて、
そっと心に触れるみたいな笑顔。
(……うん。見間違い、だよね)
そう思うことにした。
でも――
さっき見た淡い金色の、ふわっと揺れた“気配”だけは、
どうしても心の奥に引っかかったままだった。




