第43話『視界が変わる日』中編
駅前の通りに面した眼鏡店は、ガラス張りの向こうで
昼下がりの光を静かに受け止めていた。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませー」
落ち着いた声と、天井から反射するやわらかな照明。
店内は想像していたより静かで、整然と並ぶフレームの列が、どこか展示室みたいな空気を作っている。
(……思ってたより、種類が多いな)
壁一面に並ぶフレームを目で追いながら、
無意識に足が止まっていた。
犬神が棚を見渡して小さく声を漏らす。
「わぁ……いろんな種類あるんだね」
「用途と顔立ちで、選び方も変わるらしい」
俺は、棚へ視線を向けた。
細いフレーム。
太めのフレーム。
丸いもの、角ばったもの。
(……選択肢が多すぎる)
どれも“眼鏡”であることは同じなのに、
微妙な違いが、やけに主張してくる。
「ねぇ、越智くん」
犬神が、ほんの少し弾んだ声で呼ぶ。
「メガネ、初めてなんだよね?」
「ああ」
短く頷くと、犬神は一瞬だけこちらを見て、
何か腑に落ちたように笑った。
「やっぱり!
いつもよりちょっと考え込んでる顔してたからさ、
今日は本気で選ぶ日なんだな〜って思って」
「……そう見えたのか」
犬神は迷いなく、一歩棚の前に出る。
「じゃあさっ。
今日は一緒に、失敗しない日にしよ!」
「……言い切ったな」
「もちろんっ!」
その勢いに否定の言葉が浮かばなかった。
反射的に息をひとつ整える。
「……了解。
今から犬神を、最終チェック役に任命する」
「うんっ! だって、わたしが一緒だもん。
変なの選んだら、ちゃんと止めるし!」
止める、という単語だけが妙に引っかかる。
それを任せてもいいと思ってしまった時点で、
もう判断基準は一人分じゃない。
犬神はそのまま、当然みたいな顔でフレームを見始める。
ひとつ手に取って、すぐ戻す。
また別のを取り、今度は少しだけ首を傾げた。
「うーん……」
「軽いのは絶対条件でしょ」
「あとね、かけてます!って主張しないやつ!」
「条件が感覚的すぎる」
「でもさ」
犬神は振り返らずに言う。
「越智くん、そういうの直感で分かるタイプじゃん」
――否定できなかった。
それが的確すぎて、反論する理由が見当たらない。
……その言葉の意味は、いったん保留にする。
視線を戻すと、犬神は棚の端にあった一本に手を伸ばしていた。
丸みのある黒縁。
存在感が強くて、少し主張が前に出る。
「まずはこれ!」
「……ずいぶん分かりやすいな」
「最初は王道からでしょ!」
半ば押し切られる形で受け取る。
……眼鏡を“かける”という行為そのものに、まだ慣れない。
鼻に乗せた瞬間――視界の輪郭が、わずかに締まる。
無意識に内部ログが立ち上がった。
【生体ログ:越智隆之】
▶ 心拍数:−2 bpm
▶ 注視集中率:上昇
▶ 視覚補正:なし(デモレンズ)
「……見える、というより。視界が整理された感じだ。
体感だけど、視認効率が12〜15%くらい上がってる」
「ちょっと待って。
なんで%出てくるの?」
「脳の処理負荷が下がった感覚がある。
それと――鼻当ての接地圧が安定してる。
フィット感は、87%」
「そこまで見る!?」
「癖だ。数値にしないと信用できない」
「……そっか〜! 越智くんらしいねっ」
犬神は満足そうだ。
だが鏡に映った姿は、想定していた自己像と完全には一致しなかった。
「かけた感じは悪くはないが……」
「ただ、フレームの主張が強いと、視線が無意識に縁へ固定されやすい。
集中作業には向くが、普段使いでは視界の情報量が増えすぎる。
長時間使用を前提にするならば、控えめな設計の方が合理的だな」
「うんうん」
犬神は即座に頷く。
「なんだか、“説明役の先生”みたい」
「それは褒めてないな」
「え〜? どうかな〜。
結構、越智くんっぽいと思うよ?」
そう言って犬神は楽しそうに笑ってから、
次のフレームを手に取る。
細すぎるもの。
縁が太すぎるもの。
角ばりすぎているもの。
輪郭は整う。
ただ、情報が“前に出すぎる”感覚があった。
何本か試したあと、俺は無意識に息をつく。
(……条件を絞らないと、最適解がノイズに埋もれる)
そのときだった。
犬神が、ふと動きを止める。
「……ん?」
視線の先。
実用性という基準から明らかに外れた一角。
星型。ハート型。
鼻と口ひげが一体化した、どう見てもネタ用としか思えない眼鏡。
「……あ」
犬神の目がキラリと光る。
――おもちゃを見つけた瞬間の犬みたいな目だ。
嫌な予感がした。
「ね、ねぇ越智くん」
「……何だ」
「ちょっとだけ」
気づけば、表情を緩めたまま一本を手に取っていた。
「試着してみよ?」
「……それは眼鏡じゃない」
「だいじょーぶ!」
「ちゃんと“かけるもの”だもん!」
理屈が通じないのは、もう分かっている。
「はい、動かないで〜っ」
距離が一気に詰まった。
犬神がフレームの位置を確かめるために、
さらに身を乗り出してきた。
一瞬、息が詰まりそうになり、
反射的に視線を外してしまう。
呼気の温度。
わずかな体温差。
近くにいる犬神の輪郭が、やけに鮮明に感じられる。
……いや、感情ではなく作業に集中すべきだ。
そう判断して、俺は意識を逸らす。
鼻の上に――異様な感触。
「…………」
視界いっぱいに、でかい丸フレーム。
視線を動かすたび、作り物の鼻と口ひげが視界の下で揺れる。
「……犬神」
「待って待って!」
「鏡見るまで我慢!」
腕を掴まれ、半ば強制的に鏡の前へ。
そこに映っていたのは――理屈と合理で生きてきた人間が、全力で道を踏み外した姿だった。
一拍。
「……っ、あはっ……!」
犬神が、耐えきれずに吹き出す。
「なにそれっ!」
「越智くん、顔が真面目すぎるから余計に面白いっ!」
「外せ」
即答。
「えー、もう一回だけ!」
「却下だ」
「むぅ〜……」
名残惜しそうに眼鏡を戻しながら、
犬神は小さく息を漏らした。
「……ごめんごめん。
じゃあさ――」
そう言って、犬神は例の眼鏡を手に取る。
「わたしもかけてみるから。
これで、おあいこってことでどう?」
犬神がかけていたのは、
大きめの丸フレームのオレンジ色だった。
少し派手なはずなのに、その色は犬神の雰囲気に不思議と馴染んでいる。
……似合っていた。
予想外なほど、違和感がなかった。
「……?」
鏡をのぞき込みながら、犬神が首を傾げる。
「え、変?」
「やっぱ変かな?」
「……」
一瞬、視線を逸らしてしまう。
評価は、もう出ている。
だが――それを言語化する理由が、見当たらない。
「なにその間〜」
「ちょっと、なんか言ってよっ」
「……主張は強いが」
「うんうん」
「構造的な破綻は、ない」
一拍。
犬神の表情が、一段明るく切り替わった。
「なにそれ!」
「それって、つまり――」
……反論は、用意できなかった。
答える前に、犬神はもう満足そうに眼鏡を外していた。
「はいっ。じゃあ、これでおあいこね!
……よし、今度はちゃんと探そっか」
その一言で空気が静かに戻る。
棚の奥から、犬神はもう一度フレームを探し出した。
細めのスクエアフレーム。
色は控えめなメタル。
角はあるけれど、線がやわらかい。
「……じゃあ、これ。
越智くん、こういう“静かなやつ”が似合うもん」
差し出すまでが、やけに早い。
「……完全に主導権を握ってるな」
「だって今日のテーマ、“失敗しない”でしょ?」
言われるまま、かけ替える。
――視界そのものは変わらない。
だが、顔に余計な違和感が残らなかった。
鼻当てや耳まわりに引っかかりはない。
……かけていることを、意識させない。
「……」
評価に使う言葉を探して、思考が一拍遅れる。
「どう?」
「……悪くない。
正確には、かけ心地がいい」
「でしょ」
それで、話は十分だったらしい。
犬神は満足したように息を弾ませた。
鏡を見る。
そこにいるのは、見慣れないが違和感のない自分だった。
無理に印象を変えていない。
それでも、今までとは少し違う。
「……いいな」
気づけば口に出ていた。
犬神は次の瞬間、力を抜いたように笑う。
「うん。それがいちばん、越智くんらしいかも。
初メガネなのに、無理してないし。ちゃんと“考える人”の顔してるっ」
……理屈としては、相変わらず定量化できない。
だが、否定する理由も見当たらなかった。
「……これが最適解だ」
犬神は何も言わず、その手を胸元でそっと握る。
一拍。
その感触が消えきらないうちに、後ろから声がした。
「フレーム、こちらでよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
「では、レンズのご案内をいたしますね」
そう言って店員に促され、検査用の椅子に腰を下ろす。
額と顎を軽く当てるように促され、
目の前に黒い覗き口がせり出してきた。
「では、こちらを覗いてください。中の映像が変わりますので、そのまま見ていてくださいね」
小さな窓の向こう。
片目ずつ、視界が切り替わる。
――気球。
――家の輪郭。
――放射線みたいな模様。
――ぼんやりとした記号。
レンズが切り替わるたび、
カチ、カチ、と小さな音が鳴る。
(焦点、輪郭、にじみ……)
無意識に思考が走る。
「……こちらと、こちら」
「どちらが見やすいですか?」
一瞬、迷う。
レンズが切り替わる。
――輪郭が、あるべき場所に戻った。
「……こちらです」
「こちらの方が、楽ですか?」
焦点が合う。視界の端が騒がない。
「……はい。こちらです」
店員が頷く。
「では、こちらの度数でお作りしますね」
そう言って検査用の椅子を離れ、
ショーケース前の椅子へ案内されて腰を下ろす。
店員は一度奥へ下がっていった。
その背中を見送ってから、
後ろにいた犬神が小さく呟いた。
「ねぇ、越智くん」
「どうした」
「眼鏡、似合うと思うよ」
「真面目なのにね、なんか優しく見える」
……余計な感想だ。
《心拍数:微増》
《原因:解析不能》
(……だから、ログは増やすな、俺)
そのまま数秒、言葉が出ないでいると、
控えめな声がかかった。
「お待たせいたしました」
顔を上げると、店員がカルテを手に、
こちらと向かい合う椅子に腰を下ろしている。
「こちらのフレームで、度数も問題ありません」
「レンズも店頭在庫がありますので――」
一拍置いて、続けた。
「本日中にお渡し可能です。
仕上がりまで、だいたい一時間ほどですね」
一時間。
思っていたより短い。
「その間、外出されますか?」
「仕上がり次第、ご連絡もできますが」
「……お願いします」
そう答えた直後だった。
犬神が、ほんの少しだけ身を乗り出す。
「えっ……一時間?」
声が、わずかに弾んだ。
「じゃあ……」
一拍置いてから、こちらを見る。
「その間さ、ご飯行かない?」
即断というより――
思いつきを、そのまま採用したような表情だった。
「ちょうどお昼だし。
このまま待ってるの、なんかもったいない気がして」
確かに、時間帯は昼下がり。
店内の静けさが逆に腹時計を刺激してくる。
「……候補は?」
そう聞くと、犬神は一瞬だけ視線を泳がせてから、
こらえきれなかったみたいに口元を緩めた。
「ね、行ってみたいとこあるんだ〜っ」
一歩、距離が縮まる。
「笹倉カフェ♪」
その名前を聞いた瞬間、
あの落ち着いた空気と、紅茶の香りが頭に浮かぶ。
「前からちょっと気になってて。
でも、ひとりで行くのはタイミングなくてさ」
少し照れたみたいに付け足す。
「今なら、ちょうどいいかなって」
俺が答えを返すより先に、犬神は一瞬だけ視線を逸らした。
声の調子が、少しだけ軽くなる。
「……笹倉先輩や、にゃんこにも会ってみたいなぁっ」
ぽつり、と。
反論する理由は見当たらない。
「……合理的だな」
「でしょっ?
わたし、初・笹倉カフェなんだよっ」
ちょうどそのタイミングで、
向かいに座っていた店員が、控えめに身を乗り出す。
「では、こちらが控えになります」
「仕上がり次第、お電話いたしますね」
差し出された伝票を受け取った。
「ありがとうございます」
店を出る準備をしながら、
無意識に――眼鏡のない視界で、もう一度犬神を見る。
さっきまでと何も変わらないはずなのに。
その輪郭だけが、少し違って見えた。
(……次にここへ戻るとき)
何が変わるのかは、まだ分からない。
ただ――戻ってくる理由は、ひとつ増えた。
「じゃ、行こっか」
犬神の声。
その足取りが、ほんの少し弾んでいる。
眼鏡は、まだ手元にない。
それでも――視界は前より澄んでいる気がした。




