第27話『雨宿りの拝殿で』
【4月17日(金)16:35/犬神神社・拝殿の軒下 越智隆之】
雨は途切れることなく軒を叩き、白い幕のように境内を覆っていた。
杉の香りを含んだ湿った風が吹き込み、古い木材の匂いが拝殿の奥からほのかに漂う。
冷たい雫が肩口に滲み、肌をひりつかせるたびに、静謐な空気がいっそう濃くなっていく。
犬神は「制服びしょ濡れだ〜っ」と小さく笑いながら、濡れた上着を脱いで腕に掛けた。
白いブラウスの輪郭がわずかに透け、襟元に張り付いた髪を指先で払う。
その何気ない仕草に気づいた瞬間――視線は勝手に逸れていた。
見てはいけないと分かっているのに、心拍は律動を乱していく。
雨粒を拭う仕草がまた視界をかすめ、意識はさらに揺さぶられた。
(……落ち着け。これは、ただの生理現象だ)
俺は小さく息を吐き、額にかかる前髪を払った。
続けて上着を脱ぎ、袖口を軽く絞って雫をはらい落とす。
その瞬間――
カッ――。
白い閃光が拝殿の柱や狛犬の輪郭を一瞬だけ鋭く浮かび上がらせる。
直後、バアァンッ! と大気ごと叩き割るような雷鳴が轟き、境内を叩く雨脚までも震わせた。
「きゃっ!」
犬神が反射的に身を寄せ、俺の腕をぎゅっと掴む。
冷えた指先が一瞬で肌に染み込み、鼓動が直に伝わってくる。
(……心拍、基準値+12。原因は、分析不能)
俺は咄嗟に息を飲み込み、無理やり平静を装う。
「……ただの雷だ。心配ない」
努めて淡々と声を返すと、犬神は顔を赤らめながら慌てて距離を取った。
「ご、ごめんっ。雷、ちょっと苦手で……」
一瞬の沈黙。けれど、胸の鼓動は収束せず、基準値から外れたまま揺れていた。
気まずさと呼ぶには不適切で、観測上は“熱量の残留”と表現するほかない。
やがて雨脚は減衰し、軒を打つ響きは静かに変調を重ねていった。
張りつめていた境内に、ほのかな静けさが戻る。
俺と犬神は並んで立ちながら、ただ雨音に耳を澄ませていた。
言葉を交わさない静けさは、不思議と息苦しくなく、思考のノイズも次第に薄れていった。
ふいに犬神が、小さく口を開く。
「そういえばね……」
濡れた石段の向こうを見つめながら、声を少し落とした。
「……河田さんとね、二つ約束したの。
わたしの家で料理を作ること。それから――学校の屋上で、みんなでお昼を食べること」
「……そうだったのか」
犬神は照れくさそうに笑みをこぼす。
「うん。そのときの河田さん、ほんとに嬉しそうで……。だから、絶対に叶えてあげたいって思ってるんだ」
その言葉で、思考の中にひとつの因果が結び直された。
――中休み、彼女が急いで屋上へ向かった理由。
やはりあの時。約束の場所がどんな景色か、確かめに行ったのだろう。
俺は小さく息をつき、言葉を返す。
「……犬神は知らないと思うが、俺の中にも残っているものがある」
一拍置き、静かに続けた。
「笹倉カフェで見せた、ほんの少しだけ気を許した笑顔。科学部を見学したときに見せた、目を輝かせた瞬間――あの河田の姿が」
犬神は目を丸くし、それから柔らかく笑んだ。
「……うんっ! じゃあ一緒に、叶えてあげよ〜っ! 河田さんとの“屋上での約束”、ぜったいに!」
彼女の声に背中を押され、胸の奥での決意が揺るぎない形となった。
その約束を――必ず現実するために。
俺の決意をよそに、犬神はふと懐かしむように口を開く。
「小さい頃ね、この神社でよく遊んでたの。……神主だったおじいちゃんと一緒に。――そのとき、よく言われてたんだ」
『命は大切にしなさい。君がどんな時でも、命を守るために強くなりなさい』
犬神は一瞬だけ目を伏せ、間を置かずに顔を上げて笑みを浮かべた。
「最初はね、自分の命のことだと思ってたんだ。でも今なら、“友達”って意味にも繋がってるんだって分かるのっ!」
その声に熱が宿り、瞳はいっそう強く光を帯びる。
「だからわたし、絶対に守りたいんだっ! 大事な人も、仲間も――ぜんぶ!」
その輝きは真っ直ぐで、揺るぎない。
理屈抜きに、否定しきれない何かが残った。
「……犬神らしいな。根拠もないのに、妙に説得力がある」
その言葉に、犬神は満面の笑顔を見せた。
「えへへっ……いま、しっぽあったらぜったい全力で振ってる……っ。越智くんに褒められたから、かも?」
(……全く、計測不能だ)
無邪気すぎる反応は数値化できない。けれど、理性の制御域を超えるには十分だった。
データでは処理できない感覚の残響が、ゆっくりと広がっていく。
(……命を守るために、強くなれ。か)
気づけば、その言葉だけが胸に残っていた。
あの日、神社で咄嗟に犬神を庇ったこと――そして、俺に授かったこの“力”も、それと繋がっているのか。
……いや、考えすぎだ。
そう打ち消しても、心の奥に残るざわめきは、雨脚が弱まっても消えない残響のように響き続けていた。
犬神はふっと目を細めて軒先を見上げる。
「そういえばね……おじいちゃんが神主だった頃に作ったおみくじ、今もここに置いてあるんだよ」
「……おみくじ?」
「うん。おじいちゃんが“神社に来てくれた人たちのために”って残してくれたの。亡くなったあとも、お父さんがずっと補充してるんだ」
小さく笑って、両手を合わせるように声を弾ませた。
「だからさ、せっかくだし二人で引いてみない? きっとおじいちゃんも喜ぶと思うのっ」
雷の緊張が解け、境内の空気がやわらぐ。
俺は頷き、ポケットから小銭を取り出して賽銭箱へ。
隣で犬神も同じように投げ入れ、顔を見合わせて小さく笑った。
そのまま筒へ手を伸ばす。先に俺が一本、続いて犬神が一本――それぞれ細い棒を引き抜いた。
「わぁ、懐かしいなぁ。昔、イベントのときはここで巫女さんやってたこともあるんだよ〜」
得意げな笑みを浮かべ、おみくじを持ち直して小さく首をかしげる。
「じゃあ、わたしから開けてみるねっ!」
指先が紙を広げる。
雨に濡れた光の下で、文字がはっきりと浮かび上がった。
「……わっ、大吉っ! えへへっ、“ペット運”でわんこに好かれるんだって〜。
帰ったらゲンキを、ぎゅ〜って抱きしめてあげよ〜っと!」
弾けるような声に釣られて、俺も小さく笑みをこぼす。
次は俺の番だ。折り畳まれた紙を指先で開く。
「……姫吉、か。初めて見たな」
「“優しくすれば姫に好かれる”、ずいぶんファンシーな文面だ」
犬神の表情が、一気に明るくなる。
「えっ、それレアなんだよっ! 越智くん、すごーいっ!」
「……その下に、“健康運に注意”ってある」
紙面の端を指でなぞりながら、ただの注意喚起として受け止めた。
「越智くん、大丈夫っ! わたしが健康祈願してあげるからねっ!」
犬神はおみくじを胸元に押さえ、満面の笑みを見せた。
「……お前に祈願されるなら、健康指数の平均値くらいは上がるかもしれないな」
一瞬、紙面を見つめる。……確かに、思い当たる節はある。
(視力が落ちてきている気がする。あの日、犬神を庇ったときに浴びた光と関係があるのか……いや、考えすぎだろう)
「ん? どうかしたの?」
犬神が覗き込むように問いかける。
少し間を置き、俺は淡々と口にした。
「最近……視力がな。黒板が、少し見づらくなってきた」
犬神は心配そうに眉を寄せたあと、すぐ口を開いた。
「じゃあそろそろ、越智くんもメガネデビューだね〜っ! 絶対似合うと思うな〜、理系男子って感じでっ♪」
「メガネなんて、見えれば何でもいい」
小さく息を吐き、軽く視線を逸らす。
「そんなのダメだよ〜っ!」
犬神は声を弾ませ、子犬みたいに身を乗り出した。
「わたしが選んであげるっ! 絶対似合うやつにするから!」
一歩分の距離が一瞬で詰まる。吐息が触れるほど近くて、胸の奥が跳ねた。
(……心拍、基準値+18。制御不能)
「……無駄に距離を詰めるな。それに勝手に決めすぎだ。……まぁ、その時が来たら…頼む」
犬神は小さく息をのんで、それから「えへへっ」と微笑んだ。
その無邪気さが、数値では測れない熱を胸に残していく。
境内の空気も、さっきまでのざわめきが嘘のように静まり返っていた。
雨はすっかり止み、軒先からは名残りの雫が数えるほどしか落ちていない。
犬神は空を仰ぎ、ひとつ瞬きして――表情を一変させた。
「わぁ……虹っ! すごいきれいだね〜っ!」
その視線の先、石段の向こうに鮮やかな光景が広がっていた。空を割るように大きな虹が架かっていたのだ。
(……虹か。久々に見たが、悪くないな)
境内に残るのは、雨の余韻と木々が放つしっとりとした香気。
虹の下で笑う犬神の横顔が、光の弧よりも鮮やかに焼き付いて離れない。
(心拍――基準値+7。……データ上は問題なし。けれど、この乱れだけは“未定義のバグ”としか言いようがない)
数値には表れない熱が、胸の奥で静かに脈を刻んでいた。




