第17話 『放課後Sweet Café Time』後編
(……やっぱり、こいつの聴覚は普通じゃない)
無意識に、そんなふうに思っていた――そのとき。
トン、と軽やかな足音が響く。
「おまたせ〜。飲み物、運んできたよ〜っ♪」
笹倉が両手にトレーを抱えて近づいてくる。
制服の上から掛けたエプロンには、細いレースの縁取り。さりげなく見えて、作りは丁寧だ。
……こういうところ、意外と几帳面なのかもしれない。
「まずは、河田ちゃんのコーヒーブレンド。
神田くんはストレートのホットティー。
越智くんのはグラスでアイスティーね。
それと――ボクの分、甘めのミルクティー!」
そう言いながら、コーヒーカップとティーカップ、そしてグラスを丁寧に並べていく。
「それから……はいっ、これ。
カモミールのハーブクッキーだって。
ママが“お味見にどうぞ〜”って言ってたよ〜♪」
笹倉が手にしていた小さなバスケットをテーブルに置く。
やわらかな色合いのナプキンに包まれて、淡い焼き色のクッキーがいくつか並んでいた。
微かに甘く、カモミールの香りが静かに立ちのぼる。
「わぁ……とってもオシャレ……。
ありがとう、笹倉先輩。いただきますっ」
河田の弾んだ声が耳に届いた。
俺はそのまま、手元のグラスに指をかける。
氷がカランと鳴り、ほろ苦い香りがかすかに鼻先をかすめた。
ミルクもシュガーも使わず、ブラックのままひと口。
冷たさと苦味が舌を刺すように広がり――頭の奥にこびりついていたノイズが、静かにフェードアウトしていく――そんな感覚だ。
余韻を残しながら、自然と手がクッキーへと伸びる。
ちょうどそのとき、向かいの神田も同じように一枚を取った。
ひと口かじると、さくりとした食感のあとに、
カモミールのやさしい香りがゆっくりと広がった。
ほろ苦さと控えめな甘さが自然に溶け合って――
舌の上には、柔らかな後味だけが残る。
「……さくって落ちる感じ、いいな。甘さも控えめで、ちょうどいい」
神田がぽつりと呟いたその言葉に、
表情はどこか穏やかで、口元がわずかに緩むのが見えた。
俺も小さくうなずきながら、ひと口かじったクッキーを味わう。
「……たしかに。ブラックとも合うな」
笹倉は嬉しそうに「でしょ〜♪」と頷くと、
満足げな表情のまま、軽い足取りで自分の席に腰を下ろした。
「えへへ、ボクの席〜♪ ただいま〜っ」
「うん、おかえりなさいっ」
紅茶やコーヒーの香りが静かに混ざり合い、その香りの広がりに合わせて場の緊張がすっとほどけていく。
河田は、そっとひと息ついてから、
ミルクとシュガーをひとつずつカップへ落とした。
カップを両手で包み、そっと口元へ――
そして、ひとくち。
「……ん〜、これ、思ったより飲みやすいかもっ♪」
安堵したような笑顔――けれど、それだけじゃなかった。わずかに滲んでいたのは、“高揚感”のような色。
――気のせいか?
いや、むしろ……やけに楽しそうだな。
ミルクティーをひとくち含んで、笹倉の表情がやわらかくほどけた。
「ボクのも、ちゃんと甘めだったよ〜♪
ママのオーダーに、パパの腕。完璧〜っ☆」
その笑みに、向かいの河田もつられて小さく表情をゆるめる。
神田はティーカップに目を落としたまま、ゆっくりとカップを口元へ運んだ。
ひと口、静かに含む。
そして、わずかに息を整えてから――
「……雑味がない。後味も静か」
多くを語らないのが神田らしい。
その一言だけで、十分だった。
窓から射し込む穏やかな光が、テーブルの上に淡く広がっていく。
立ちのぼる紅茶の湯気と断片的な会話だけが、この午後を静かに形づくっていた。
――そこへ。
「ねぇねぇっ、ここ、めっちゃ雰囲気いいじゃんっ♪
なんかさ〜……空気も香りも、全部ふわって包み込んでくれる感じ〜〜♡」
河田が突然、勢いよく笑った。
表情はいつも以上に柔らかく、瞳の奥には淡い輝きが浮かんでいた。
「ふふっ、河田ちゃん、テンション高めだね〜♪」
「だ、だって……っ! この空間、間違いなく“最高クラス”じゃん!
雑誌でしか見たことないよ、こんなカフェっ」
カップを両手で包み込んだまま、うっとりした様子で店内を見回す河田。
頬がほんのり紅くなっていて、さっきよりも一段階、笑顔が弾けていた。
(……河田、学校じゃこんな顔しないよな。肩の力、抜けてるっていうか――素で楽しんでる表情だ。)
そのあとも、やけにハイテンションで喋り続けている。
声の調子も上がりっぱなしで、言葉の勢いが止まらない。
……いつもの“省エネモード”とは、明らかに別人だ。
【解析ログ:河田亜沙美】
▶ 心拍数:78 bpm → 94 bpm(+16)
▶ 呼吸数:やや上昇傾向
▶ 状態:カフェイン過剰摂取による一時的な情緒高揚
……完全に、やられてる。
そう思ったちょうどそのとき――
神田はカップに目を落とし、一拍置いてから、ちらりと河田に視線を向けた。
「……声色が違う。浮いてる。それに――テンション高い河田なんて、記憶にないな」
その言葉に、俺も軽く頷く。
「……そうだな。カフェインにでもやられたか」
ストレートすぎるやりとりに、笹倉が「くすっ」と笑みをこぼした。
「えへへっ、でも、嬉しいよねっ。
河田ちゃんが自然に笑える場所って、ボクもちょっと誇らしいな〜」
紅茶の湯気の向こうで、河田がほんのり頬を赤らめて、照れくさそうに笑っていた。
……と、次の瞬間。
「や、やっぱこのコーヒーすごいね!? めっちゃ目が冴えてきたかも〜っ♪」
いきなり声が跳ねて、河田の肩に力が入る。
声のボリューム、完全に振り切れてる。
カップを抱えたまま、
落ち着かない動きで姿勢を整え――
「ふふっ、ふふふふ……っ! よーしっ! なんか今ならなんでもできそうな気がしてきた〜〜っ!!」
テンションが、明らかにおかしい。
目の奥が妙に冴えてて、情緒のスロットルが開きっぱなしだ。
「英単語100個いけるっ! 今なら絶対覚えられるっ!!」
「……今の認知リソースだと無理だな」
「むりじゃないもんっ! いけるもんっ!!」
俺の制止は、きれいにスルーされた。
高揚状態の河田は、完全に暴走モードだ。
「メニュー全部言える気がする〜っ! ねぇ神田くん、“アッサム”ってなに〜っ!?」
「……紅茶の品種だ。落ち着け」
神田の返しが冷静すぎて、逆にじわる。
その横で、笹倉が小声で笑いながらぽつりと呟く。
「これが……“ブレンド河田”ってやつ、かも……」
紅茶とクッキーの香りのなか、ひとりだけ世界線が違う。
まるで魔法でもかかったみたいに、河田はキラッキラに輝いてた。
「ブレンド河田……それ、採用っ!!
ねぇねぇ、それでさ――やっぱこのコーヒーすごいよね!? カフェインって、神〜〜っ☆」
背筋ぴしっと。
目はキラキラ。声のキレは謎。
(……いや、どう見てもテンションの軌道がイカれてる)
そのときだった――
「河田お姉ちゃん、カフェインにやられたんだ?」
ふと視線をずらすと、いつの間にか河田の椅子の陰から一香がそっと顔をのぞかせ、心配そうに河田を見上げていた。
「ちょ、ちょっと一香ちゃんっ!? 聞こえてたのっ!?」
河田が慌ててカップを置き、手をばたばたと振る。
けど、そのオーバーな挙動がすでにハイテンションすぎて、逆に図星感しかなかった。
一香が、じっと河田を見つめたあと――
そのあと、無邪気な声でさらりと、とんでもない一言を放った。
「ねぇ、河田お姉ちゃんって、彼氏いるの?」
……きた。これ、完全にオチへの流れだ。
「えっ!? か、か、彼氏っ!? な、なんで今その話なのっ!?!?」
河田は顔を真っ赤にして、テーブルの紙ナプキンを慌てて手に取ると、頬に押し当てた。
「えへへ〜♪ だって、さっきの河田さん――すっごく嬉しそうな顔してたんだもん。“好きな人いるときの顔”って感じだったよっ」
神田は、湯気の立つカップを片手に、淡々と放った。
「声のトーン、平常比+21Hz。語尾にかすれ。……“いない”のテンプレパターンだな」
……まあ、否定はできない。
完全に図星を突かれて、河田は顔を真っ赤にして紙ナプキンでパタパタとあおぎはじめた。
「な、なんでそんな分析的に言うの〜っ!? 怖いってば〜〜っ!」
「……当然だ。化学部だからな」
あまりに即答すぎて、逆にじわる。
「ズルい〜〜っ! そっちだけ理系バフ使ってくるの禁止っ!!」
その慌てっぷりがツボすぎて、思わず吹き出しかける。
その様子を見ていた笹倉が、「あはっ」と小さく笑い、
一香もくすくすと肩を震わせていた。
そして神田までも――珍しく口元をゆるめ、くくっと笑っている。
(……ほんと、河田は分かりやすいな)
でも、そんな素直なとこも――悪くないと思った。
ふと視線を上げると、笹倉がティーカップをゆらしながら、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「ねえ……こういうときって、自然に恋バナとかしたくなっちゃわない? ふふっ、みんなの“好き”とか、ちょっと気になってきちゃったなぁ〜」
その笑顔はいつも通り穏やかで、でもほんの少しだけ、からかいが混じってるようにも見えた。
……ま、話がこっちに飛んでこないことを祈るしかない。
俺はアイスティーを一口すすって、気配を消すことにした――そう思ったのも束の間。
次の瞬間、河田が“爆発”した。
「い、いないしっ!? ほんとに! 恋とかじゃないし! こ、これはカフェインのせいだからっ!!」
──【観測ログ:河田亜沙美】──
・声量:平常比1.6倍(ピーク時2.1倍)
・話速:+28%
・視線:きょろきょろ状態/手ぶんぶん
・笑顔:固定+やや引きつり気味
・推定感情:カフェイン過剰摂取によるテンション爆上げ+羞恥心ブースト【大】
必死な声で否定する河田に、一香がいたずらっぽく目を細め、にこっと笑った。
「ふ〜ん。でもね? そういうときこそ――恋って、始まるんだよ?」
……そのセリフ、どこで覚えたんだ?
くすくすと笑う笹倉、苦笑いの神田。
(……河田、完全に弄られ役になってるな)
そう思いながら俺が息を整えていると――
一香が、満足そうににっこり笑った。
「うんっ。じゃあ、あたし、お仕事に戻ってくるね♪」
そう言って、くるりと背を向けて軽やかに奥のカウンターへと戻っていく。
……ついさっきまで、場をかき乱してた張本人とは思えないくらい、あまりにも自然な去り際に――
俺は心の中で、静かに一言だけ呟いた。
(……敵に回しちゃいけないタイプだな)
──と。
その瞬間、河田がハッと我に返った。
「……わ、わたし、なに言ってたのっ……!?」
両手で顔を覆うと、カップの前で小さく項垂れる。
「てか、彼氏とか、ないしっ! むしろいないしっ! 誰もいないしっ!!」
指の隙間からのぞく頬まで真っ赤で、肩をすぼめた背中が必死に恥ずかしさを隠していた。
「ふふっ、大丈夫だよ〜。誰も変なふうには思ってないし、ね?」
笹倉がやわらかくそう言って、そっと手を伸ばす。
その手がためらいなく河田の頭に触れ、静かに乗せられた。
ほんの一瞬、河田の肩がわずかに緩むのを見て――
俺は思わず口を開く。
「……河田って、コーヒー苦手なのか?」
顔をわずかに上げた河田が、すぐさま首を振った。
「ち、違うのっ。だいすきなんだけど……飲むとテンション上がっちゃって……なんか、気持ちがぽかぽかしちゃうっていうかっ……!」
すると笹倉が、落ち着いた声で返す。
「なるほど。じゃあ次は、もっとやさしいブレンドにしよっか♪」
紅茶とコーヒーの香りがほのかに混じり合い、やわらかな空気がテーブルを包み込む。
そのぬくもりに誘われるように、会話は自然と別の話題へと移っていった。
最近の科学部での出来事。新しく試作した装置のこと。
それから、今度出す予定の“新作クッキー”について、笹倉が少し誇らしげに語る。
話題は断続的に続き、
やがて会話の輪がひと段落したところで――
ふと、静けさがテーブルを包んだ。
窓の外には、夕暮れの気配がほんのりと差し込んでいる。
会話が一段落したせいか、場の流れが帰路へ傾きはじめていた。
「……そろそろ、帰ろうか」
俺がそう言うと、河田が「うんっ」と頷いて、
カップをそっと置いた。
笹倉も軽く椅子を引きながら、柔らかく微笑む。
「放課後に来てくれて、ありがとね♪」
「いや、こちらこそ。落ち着けたよ」
「……クッキーも、美味かった」
すると河田が、少し遠慮がちに口を開いた。
「……えっと、お会計ってどうしたら……?」
その声に、梓は小さく笑い、軽く手を振って応えた。
「大丈夫♪ 今日はママの“おもてなしDay”だもん。
“紅茶とクッキーくらい、お友達に楽しんでもらいなさい”って、ちゃんと任されてるの〜」
「えっ、い、いいんですか……?」
「もちろんっ♪」
「そ、それじゃ……お言葉に甘えてっ。
ほんとに……ありがとうっ」
俺と神田も立ち上がり、カウンター奥にいる笹倉のご両親へ、静かに頭を下げた。
「本当に、ごちそうさまでした」
「……おいしかったです」
「うふふ、こちらこそ、来てくれてありがとね〜。
クッキーのおかわり、今度はもっと用意しておくわね」
「また気軽に寄ってくれ。今度は、うちの特製サンドも食べてってくれよ」
ふたりのやわらかい声に見送られながら、俺たちはテーブルを離れた。
そのとき、河田がふと視線を向けたのは――
アーチの奥、香水やアクセサリーが並ぶクラシカルな雑貨スペースだった。
「ねぇ、あそこの雑貨……ちょっとだけ見てってもいいかな?」
ぽつりと漏らしたその声に、笹倉がすぐに反応する。
「うんっ♪ ボクもついてく〜」
女子ふたりがそちらに歩き出すのを見届けながら、俺は神田に目をやった。
「じゃあ、俺たちは……」
「……帰るか」
うなずき合って、俺と神田はカフェをあとにした。
* * *
「……静かで、いい店だったな」
そう言うと、神田が隣で小さく頷く。
「紅茶もうまかった。……落ち着ける場所だった」
「だな。俺も、また来てもいいって思ったよ」
少し歩いたあと、ふっと思い出したように言葉を継ぐ。
「……それにしても、河田のテンション、高かったな」
「……あれはレアだった」
神田の返しに、俺も思わず笑ってしまう。
「……河田って、ああいう一面あるんだな。ちょっと新鮮だ」
神田は返事をせず、ほんの一瞬だけ口元を緩めた気がした。
夕暮れの風が頬を撫でる。……なんだか、今日という日の“ログ”は、少しだけ特別なデータになりそうだ。
――そして、俺たちは帰路についた。




