第12話『頼っても、いいんだよ』
【4月14日(火) 体育の授業(午前)/河田亜沙美】
春の陽差しが、グラウンドいっぱいに広がっていた。
(……あっつ……)
着替えたばかりの体育ジャージが、もう背中にぺたっと張りついていた。
風がそっと吹いて、顔まわりの髪が揺れる。
メガネを直しつつ額の汗をぬぐいながら、私は女子の列に――そっと、まぎれ込んだ。
体育の授業って……なんでこんなに、周りの目が気になるんだろう。
得意だったら、たぶん笑っていられたんだろうな……。
走ったり跳んだりって、どうも昔から得意じゃない。
それに――朝から少し体がだるくて。足もとから、じわっと力が抜けていくような感じがしていた。
…でも、大丈夫。ちゃんとやれる。
そう言い聞かせながら、深呼吸をひとつ。
握りしめた手をほどいて、そっと肩の力を抜いた。
グラウンドの向こう側では、男子たちがダッシュや体力測定に取り組んでいる。
号令の声が響き、笑い声と掛け声が入り混じる。
そんな中で、女子たちはゆるやかにストレッチを始めていた。
隣では、同じクラスの女子たちが輪になって、楽しそうに話していた。
学校のこと、テレビのこと、推しのアイドルのこと――
たわいない話題で盛り上がっているその輪に、自分から声をかける勇気がなかった。
(……入りたいけど、入れない)
犬神さんは、もうすっかりみんなと仲良くなっていた。
明るくて素直で、誰とでも自然に笑いあえる。
気づけば、クラスの輪の中心みたいな存在になっていた。
(……すごいなぁ……。わたしも、あんなふうに笑えて、お話できたら……)
そんなふうに思った瞬間だった。
「河田さんっ、一緒にストレッチしよ〜っ!」
ふいに、明るく伸びる声が耳に届いた。
顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた犬神さんが、手を差し伸べてくれていた。
「え、あ、うんっ……!」
慌てて答えると――犬神さんは、さらに嬉しそうに目を輝かせた。
ふわりと頷いて、一歩こちらへ近づいてくる。
「ね、一緒にやろっ! あ、今日のメニューってストレッチからのシャトルランだって〜っ! ちょっとキツいかもだけど、がんばろ〜ねっ!」
そう言うなり、犬神さんはくるっと後ろを向き、背中をぴたりと合わせてきた。
「じゃあ、せ〜ので、ちょっとずつ押すよ〜っ!」
「え、う、うん……っ」
(……せ、せなか……!?)
そっと背中を預けると、やわらかなぬくもりが布越しに伝わってくる。
(こんなの、だれともやったことない……!)
ふたりの背中が静かに支え合って、じんわりと体が伸びていく。
ただ背中が触れているだけなのに、どうしてこんなにドキドキするんだろう。
鼓動がバレそうなくらい、胸の奥で早く跳ねてるのがわかって――気づけば、呼吸まで同じリズムになっていた。
息がうまく整わないのは――きっと、ストレッチのせいじゃない。
「は〜〜っ、これこれ〜っ! 背中ストレッチって、なんだか安心するよね〜っ♪」
その無邪気な声に、私は――
「……うん、安心……できてるかも」
そんなふうに、小さく頷きながら、はにかむように笑った。
ああ――やっぱり、この人は、まぶしい。
……いつか、私も。
犬神さんみたいに、人に笑いかけられる自分になれたら――そう思えた瞬間、その気持ちが心の奥で小さな光を灯したような気がした。
* * *
ストレッチのあとは、シャトルラン。
二本のラインを何度も往復する、持久力を測るあの種目だ。
春の陽ざしがじんわりと背中に降り注いで――私は、待機列の最後尾に並んでいた。
(……少し、息があがってるかも)
まだ走ってもいないのに、身体の奥が重たくて。
でも――負けたくなかった。
犬神さんがそばにいる。それだけで、ちゃんと頑張りたかった。
乾いた空気を切り裂くように、グラウンドに笛の音が鳴り響く。
20メートル間隔で引かれた白線。その間を、前の組が順番に駆けていく。
「次の組、準備してー!……無理はしなくていいからなー、自分のペースでいいぞー!」
低く通る声が、グラウンドに響いた。
体育担当の戸田先生――短く刈り上げた髪と、がっしりした体格が印象的な男性教諭だ。
落ち着いた声色で的確に指示を出しながらも、生徒一人ひとりをきちんと見ていて、どこか安心感のある存在だった。
「はいっ、いっくよ〜〜っ!!」
号令と同時に、ひときわ大きな声がグラウンドに響いた。勢いよくスタートラインを蹴ったのは――犬神さんだった。
肩までの髪が、ぴょんっと跳ねる。
腕も脚もぜんぶ使って、ワンコみたいに全力ダッシュ!
靴音がリズムよく響いて、地面を蹴るたびに砂ぼこりがふわっと舞い上がる。
(……元気、すぎる……っ)
でも、そんな姿を見ていたら、胸の奥のもやが少しずつ晴れていくようだった。
(わたしも、がんばらなきゃ)
気づけば、口元に小さな笑みが浮かんでいた。
頬に風が触れる。
息を整えようとした、そのとき――笛の音が鳴り、前の組がスタートした。
自分の番が近づくたび、緊張と不安が喉を締めつける。
肩に思わず力が入り、手のひらにはじんわりと汗がにじんだ。
そして――私の番。
ゆっくりと列を進み、スタートラインの前に立つ。
小さく息を吸い込み、地面を見つめた。
「――始めっ!」
笛と声が重なった瞬間、砂の上でスニーカーがきゅっと鳴り、身体が前へと駆け出した。
(……いける、いける……)
1本、2本、3本――
最初は、なんとかなった。
でも、数本目を走り終えたあたりで、急に呼吸が浅くなった。
「……っ、はぁ……はぁ……」
7本目。
呼吸が浅くなって、足が思うように動かなくなる。
(……あれ、なんか、変……)
耳鳴りがして、何かが遠のいていく――
* * *
その少し前――
「……河田、走り方が変わったな」
男子の列にいた神田優希が、小さくつぶやいた。
彼の視線はグラウンドの先――女子の列でシャトルランに挑む河田亜沙美に向けられていた。
「足音のリズムが……半拍、遅れてる」
「さっきまでは、疲れながらも一定のテンポで踏み出していた。だが今は――違う」
神田は、音の微細なズレを聞き分けることに長けていた。
幼い頃から、耳の良さだけは人一倍だったという。
足音の速さや呼吸の乱れ、声のわずかな揺れ――そうした音の差を、無意識に拾い上げてしまう。
今もまた、その“聴覚の勘”が、グラウンドの異変を確かに捉えていた。
「踏み出す軌道が乱れてる。呼吸音も浅くなってきている……単なる疲労じゃない。明らかに異常だ」
視線の先、女子の列でシャトルランに挑む河田亜沙美。
周囲と同じく疲労の色が見える中で、彼女の足取りだけが、不自然に揺れていた。
「……このままでは危険だ」
「――確認する」
隣にいた越智隆之が、短く応じる。
グラウンドの先を見据える彼の視界に、瞬時にデータが走る。
▶︎【生体モニター:河田亜沙美】
・脈拍:98→111bpm(上昇急)
・呼吸:浅く、不規則
・表情:蒼白化、視線の揺れ
[反応解析:自律神経過剰反応/熱失神リスク:大]
「――まずい。止めるぞ」
越智の声に、神田もすぐ反応した。ふたりは同時に駆け出す。
迷いのない足取りで、まっすぐにグラウンドを横切る。
シャトルランの列、その先――ふらついた彼女の姿が、視界の真ん中に飛び込んできた。
(――間に合え)
走路の端に差しかかった、その瞬間だった。
河田亜沙美の身体が、糸が切れたように前のめりに傾く。
砂埃がふわりと舞い上がる。その刹那――越智隆之の腕が、その身体をしっかりと守るように受け止めた。
* * *
(……あれ?)
視界がにじんだ。地面が、ぐらりと揺れていく――
「……っ!」
ふと、背中に何かが触れる感覚。
やわらかくて、あたたかくて、ふっと重心が引き戻される。
(……だれかが、受け止めてくれた)
意識はふわふわと心もとないのに、その腕のぬくもりだけは、やけに鮮明だった。
「立てるか?」
低く落ち着いた声が、耳もとにそっと届いた。
「……越智、くん……?」
足もとの力が抜けて、声もうまく出せない。
でも、彼の腕のなかで、私は――倒れずにすんだ。
そのとき、彼の声が鋭く空気を裂いた。
「――犬神っ!!」
抱える腕が、ふいにぎゅっと強まった。
その一瞬に、彼の焦りと必死さが伝わってきた。
その呼びかけに応えるように、犬神さんがこちらへ向かって駆けてくる。
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▶︎【生体モニター:河田亜沙美】
・脈拍:124 bpm(前回比 +13)
・呼吸数:25回/分(浅く速い)
・表情筋:緊張持続/顔色やや蒼白
・額部温度:上昇傾向(+0.4℃)
[反応解析:自律神経異常進行中/脱水+熱失神リスク:高]
【処置提案:早期休養・涼所への速やかな移動を推奨】
⸻
「……保健室だ。頼む、犬神」
「う、うんっ! わたし、すぐ連れて行くねっ!」
犬神さんが、私の肩を優しく支える。
「戸田先生、河田さんが……」
「分かった。保健室まで連れていきなさい。報告はあとでいいからな」
先生の声が遠くで響いた。
犬神さんの肩に支えられて、一歩、足を出す。
地面がゆらりと揺れて、世界の輪郭がぼやけて見えた。
それでも――その手のぬくもりだけは、確かだった。
それに、越智くんの腕の中で感じたあの体温が、まだ残っている。
そのあたたかさに導かれるように、私はゆっくりと前へと進む。
「ひとりで頑張らなきゃ」――ずっと、そう思っていた。
けれど今は、ぼんやりとした意識の中で、その壁の隙間から、誰かの手を受け取ってもいい気がした。
頼っても、甘えても、きっと大丈夫。
そう思えた瞬間、胸の奥に、小さな光がふわりとともった気がした。
たった一歩かもしれない。
でも――それは確かに、わたし自身を変える、小さくて大きな“更新”の始まりだった。




