第11話『“アップデート”の通過点』
【4月14日(火) 河田亜沙美宅】
──朝。鏡の前。
制服の襟を整えながら私は、じっと自分の顔を見つめていた。
(……目元、ちょっとだけマシかも)
昨日よりほんの少しだけ、顔色が明るい気がした。
メガネの奥に映る自分の瞳も、どこか、いつもよりしっかりと前を向いている気がする。
手にしたヘアブラシの動きも、昨日よりはずっと軽い。
無理に笑わなくても――今朝の私は、ちゃんと“自分”でいられた。
(……うん。今日も学校、行ける)
ほんの少しだけ心が軽くなって、ふと頭をよぎったのは――部活のことだった。
(そういえば……部活、まだ決めてなかったな)
(気になってるところは、あるけど……)
ふと時計を見ると、もう出発の時間。
カバンのファスナーを閉じて、玄関の扉を開けた。
春の風が、ふわりと頬を撫でる。
やわらかくて、ほんのりあたたかくて――背中を押してくれるような風だった。
* * *
家を出て、住宅街を抜け、商店の並ぶ通りを過ぎたあたり。ようやく見えてくるのが――日向高校へと続く、ちょっと急で、ちょっと長い坂道。
ほんの少し前まで、私はいつも自転車だった。
坂の手前で無言で降りて、下を向いたまま押していく。
誰にも気づかれないように、誰にも話しかけられないように……それが“正解”の朝だった。
でも今日は――気持ちが、ほんの少しだけ違っていた。
だから、いつもの近道じゃなくて、ちょっと遠回りでも陽の差す道を選んだ。
誰かと、一緒に並んで歩けたらいいなって――そんなふうに思ったから。
(……ふぅ。今日も、がんばろ)
深呼吸ひとつ。スカートの裾が風に揺れ、私は一歩ずつ坂を登っていく。
足取りは、ちょっと重たいけど――それでも今日は、どこか気分がいい。朝の風がさらっと髪をなで、足元には春の光がやわらかく差し込んでいる。
そのとき――背中を跳ねるような声が、空気を弾ませた。
「おっはよ〜〜〜〜〜〜っ!! 河田さ〜〜〜んっ!!」
その声が朝の空に、ぱっと広がっていく。
振り向いた先、坂の下から――
風を受けて胸元のリボンを揺らし、両手をぶんぶん振って、笑顔全開で駆けてくる犬神さんがいた。
「……おはよう、犬神さん」
思わずこぼれた声に、自分でもちょっと照れくさくなる。でも、毎朝これだもんなぁ。――なんだか、もう慣れっこだ。
「えへへ〜っ! 今日もいっしょに行こ〜ねっ!」
ぴょこぴょこ跳ねるような足取りで、隣に並んでくれる。
その姿を見ていると、胸の奥まで明るくなって、思わず笑みがこぼれそうになる。
でも――なんだろう。
今日はいつもより、その距離がほんの少し近く感じた。
歩幅がぴったり合って、息づかいも心地よく重なって。
ただ並んで歩いているだけなのに、それだけで、どうしようもなく嬉しかった。
(……やっぱり、自転車じゃなくて歩いてきてよかったな)
空の青さも、坂道を抜ける風も――ぜんぶが今日の味方みたいに思えた。
そんな私の横で、犬神さんがふいにこちらを振り向いて、にぱっと笑う。
「ねぇねぇ、今日さ〜、人参をハートに切る練習してみようと思ってっ!」
「……人参? ハートに?」
「うんっ!ちょっとコツいるんだけどね、包丁をこうやって、ハの字に切ってから〜〜、くるっと角を落とすと、ほらっ!ハートに見えるのっ!」
「……むずかしそう」
「だいじょ〜ぶっ!!ハートはね、“気持ち”で切るのっ!!」
「……気持ちで、か……」
(なんだろう、よくわかんないけど――あったかい)
「そしたらさ、うまくできたら、次は“ハートブロッコリー”にも挑戦してみるね〜っ!」
「……そ、それはさすがに、無理があるような……」
「気持ちがあれば、いけるのだ〜〜っ!!」
そう言いながら、犬神さんは私のまわりを、くるっとひとまわり。はしゃぐように弾む足取りは、じゃれつくみたいに駆けまわる子犬みたいで――その無邪気さに、胸の奥がふわっとほどけた。
昨日、あんなことがあったのに。
それでも今、こうして笑えてる。
それだけで――うん。きっと今日は“いい朝”なんだ。
校門の前に、人の流れができはじめていた。
その中で、犬神さんがふと視線を向けた先に――見覚えのない二人組の女子生徒が立っている。
周りのざわめきが、一瞬だけ遠のいた気がして、私もそちらへ目を向けた。
ひとりは、金色に近い髪を朝日に透かしていた。
ゆるやかなウェーブが光を拾いながら揺れ、そのたびに淡いきらめきがこぼれる。
姿勢はまっすぐで、歩みはしなやか。
ふとこちらを見やり、その笑みには気高さの中にやさしさが滲んでいた。
その隣を歩くのは、黒髪をきちんと束ねた女性。
清らかな輪郭に、落ち着いた光を宿す瞳。
穏やかに立つその姿からは、聞こえない声まで澄みきっていくような、不思議な安心感が漂っていた。
「あ、高橋先輩っ! 九条先輩も〜っ!おっはよ〜ございますっ!」
犬神さんが、うれしそうに手を振る。
「おはようございます、犬神さん。今朝もとてもお元気そうですわね」
「ふふ。相変わらず朝からテンション高いわね」
ふたりの先輩は、足を止めて私たちの方に視線を向けてくれた。
「……あっ、こちら、クラスメイトの河田さんですっ! 昨日ちょっといろいろあって、一気に仲良くなっちゃいました〜っ!」
「……あ、あのっ……初めまして。河田亜沙美です」
そのとき――朝陽を受けてきらめく黄金の髪の先輩が、ふっと優雅に微笑んだ。
「あら、初々しいご挨拶。よろしくてよ」
スカートの裾をたおやかに揺らし、静かに姿勢を正して品のある声で続ける。
「高橋玲奈と申しますわ。テニス部に所属しておりまして、生徒会では副会長も務めさせていただいていますの」
その言葉の余韻が残るなか――隣にいた黒髪の先輩が、ふと視線をこちらに向けた。
柔らかな微笑みとともに、静かに言葉を紡ぐ。
「河田さん、よろしくね」
すっと背筋の伸びた佇まい。
その眼差しには、まるで感情の揺らぎを静かに見つめるような――月影のようなひそやかさが宿っていた。
「九条詩織。科学部に所属してるわ。……少しお節介で、余計な一言が多いってよく言われるの」
口元にかすかな笑みを浮かべ、いたずらっぽく目を細める。
「でもね、誰かと静かに話せる時間って、案外悪くないものよ。気が向いたら、いつでも声をかけてね」
「……はい。ありがとうございます」
先輩たちにうながされるように校門をくぐる。
コンクリートを踏む足音が、澄んだ朝の空気に溶けていった。
校庭では、生徒たちが笑い合いながら玄関へ向かっていく。
言葉を交わしながら歩くうちに、足取りも自然と軽くなる。
(……なんだろう、二人ともすごく落ち着いた人……)
そんな思いに浸っていた、そのとき――
九条先輩がそっと視線を向けてきた。
「河田さん、部活動はもう決めているの?」
九条先輩の問いかけに、一瞬だけ戸惑ってしまう。
「……まだ決めては、いないんですけど」
制服の袖を少しきゅっと握りながら、言葉を探す。
「……科学部が、ちょっと気になってて……」
「科学部?」
九条先輩が、少しだけ驚いたように目を細めた。
「はい。中学のとき……理科研究部に入ってたんです。小さなクラブだったけど、理科の実験とか、自由研究みたいなことが好きで……」
ぽつぽつと、でもどこか嬉しそうに言葉がこぼれていく。
「最近そういうことから離れてたんですけど……少し、またやってみたいなって思って」
「ふふ、それは嬉しいわ」
九条先輩の声がやわらかく響いた。
「越智くんや神田くんもいるわよ。犬神さんのクラスメイトでしょ?」
「知ってます……! 神田くんはあまり話したことないけど、越智くんとは、ちょっとだけ……」
言葉がするすると出ていくのが、なんだか不思議。
でも――少しうれしかった。
「ふふ、よかったら今度、部室にも来てみて。歓迎するわ」
その言葉に、犬神さんがふわっと目を輝かせた。
「わたしも、科学部見てみたいな〜っ! 河田さんもいっしょに行ってみる?」
少しだけ、戸惑う。でも、その胸の奥にぽっと灯る“うれしい”気持ちは、確かにあった。
「……うん。行ってみたい」
「あら、犬神さんまで。ふふっ、ふたりとも……科学部に入る気?」
九条先輩が、やわらかく微笑んだその瞬間――
ふいに視線を、高橋先輩の方へとちらり。
「ちょ、ちょっと九条さん!? 犬神さんはダメですわよ!?」
高橋先輩が、すかさず声を上げて指先を空へと差し向ける。
「うちのテニス部の宝に手を伸ばすなんて、おいたが過ぎますわよ? 彼女は、私たちにとっての大切な“要”なのですから」
その言葉に少し肩をすくめながら――九条先輩は、口元に小さな笑みを浮かべて、今度はやさしい視線で私を見つめた。
「……あら、ごめんなさい。河田さんに声をかけたつもりだったの。犬神さんのことは……ちょっとした、いたずら心ってやつよ。ふふ、気にしないで」
その微笑みは、からかうようでいて――でも不思議と心をゆるませる、余裕ある大人の優しさが滲んでいた。
九条先輩は、ひとつ息をつくように言葉を紡ぐ。
「……河田さん。まだ“居場所”が決まっていないのなら――科学部という選択肢も、覚えておいて損はないわ。思っているより、心地いい場所よ。まあ、多少の騒がしさはご愛敬だけれど」
その言葉に、心がふっと傾く。
返事よりも先に、胸の奥がゆるやかにほどけていくのを感じた。
すると――隣を歩く高橋先輩が、すっと横から品のある声で言葉を重ねた。
「テニス部も、素敵ですわよ。運動は気分転換になりますし、礼儀作法も自然と身につきますの。
それに――ご興味があれば、生徒会のお手伝いも大歓迎ですわ。どうぞ、いつでもお声がけくださいませ。
“最初の一歩”って、案外、人生を左右しますもの」
と、高橋先輩が笑みを添えて返した直後――
隣で歩いていた九条先輩が、ふっと微笑みを深める。
「……科学部の毎日はね、ほんの少しだけ“非日常”を混ぜたカクテルみたいなものよ。クセはあるけれど――刺激的で、案外クセになるの」
九条先輩は、楽しげに目元を緩めながら続ける。
「何しろ、毎日のように何かが“爆ぜて”いるの。音も、匂いも、時には煙も……」
「えええっ!? 煙!?」
思わず声が裏返ってしまった私に、九条先輩はくすっと笑って、指先でそっと髪を耳にかけた。
「ふふっ。冗談よ。……ただし、“全部が”とは言ってないけれどね」
楽しげに揺れる瞳に、ほんの少しだけ悪戯っぽい光が宿る。
するとその横で、犬神さんが、うれしそうに口元をほころばせた。
「えへへ〜っ。どっちの部活も、それぞれ魅力たっぷりだね〜っ!」
その声は、春の風に乗って、やさしくまわりを明るくしていく。
(……どんな場所が、わたしに合うんだろう)
テニス部も生徒会も、それぞれ魅力的できっと素敵な場所なんだと思う。でも――どうしてだろう。
(……科学部の毎日はね、ほんの少しだけ“非日常”を混ぜたカクテルみたいなものよ――)
九条先輩のその言葉だけが、ぽんっと、胸の奥に残っていた。
ちょっと変わってて、ちょっと不思議で、でも……どこか、あたたかい。
(カクテル……かぁ。
わたしも――ほんの少し“非日常”を混ぜたら、生まれ変われるのかな?)
気づけば、頬がほんのりあたたかくなっていた。
やさしく、くすぐったいような心地よさに包まれて。
もしかしたら、“科学部”という場所が、これからの自分にとっての“通過点”になるのかもしれない。
なにかが少しずつ、動き出している――そんな予感がした。
……ただ、このあと学校で、みんなを巻き込む“予想外の出来事”が静かに近づいていることに――
今の私は、まだ知るよしもなかった。




