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第91話~消氣剤の秘密~

 傷んだ木の扉を開けるとそこは学園の屋上。

 突き抜けるような青空からは強い日差しが、手すりに手を掛けて遠くを眺める茉里(まつり)の紫色の長い髪を照らしていた。

 いくらか風がある為それ程暑くはない。

 扉の軋む音に気付き、茉里はカンナの方を見た。


「澄川さん? わたくしに何かご用ですか?」


 カンナは微笑みながら茉里の隣に並び手すりに肘を置いた。


後醍院(ごだいいん)さん。私でよければ力になるから何でも言ってね。1人で抱え込まないで」


 カンナは遠くに小さく見える浪臥村の方を見ながら言った。


「え……? もしかして澄川さん、わたくしの事を心配して就いて来てくださったの?」


 茉里はカンナの横顔を見て言った。


「だって私達、友達なんだからさ。当たり前じゃん」


 カンナも茉里の顔を見て笑顔で言った。

 茉里は頬を赤く染め唇を噛み締めて嬉しさで歪む顔をカンナから背けた。


「ありがとうございます。澄川さん。わたくしはあなたにそう言ってもらえるだけで心が落ち着きますわ」


「そっか。それなら辛い時はいつでも言ってよ」


 茉里はカンナの顔を一度見ると、また景色に目をやった。そよ風が、茉里の紫色の長い髪を揺らしている。


「わたくし、以前よりはマシになったとは言え、何かを壊したい衝動は少なからずありますの。これまでも気に入らない事は山ほどありましたわ。その度にここに来て景色を眺めます。そうすると、物を壊したり、人を傷付けたりしなくても気持ちが少し落ち着くんですの」


 カンナは黙って相槌を打った。茉里の横顔はとても冷静に見えた。

 すると茉里はカンナの方に身体を向け、自分の左胸に手を当てた。


「ここ、この辺に今でも澄川さんの氣を感じますの。2年前、わたくしが浪臥村(ろうがそん)で暴れた時、あなたはわたくしに氣を注いでくれました。とても優しく温かい。心が洗われたような気持ちになりました。それからずっと、以前のようにすぐに暴れる事は少なくなり、一呼吸置いて考えられるようになりました。全てあなたのお陰ですわ。本当にありがとうございます。澄川さん」


 茉里はカンナに頭を下げた。


「そんな、頭を上げてよ。助け合うのは当たり前だよ。私も助けてもらったし。ね」


 カンナがウインクすると茉里はまた恥ずかしそうにハニカミ景色に目をやった。


「それで、悩んでる事は、弓特(きゅうとく)の事……だよね?」


 カンナは茉里の横顔に向かい本題を切り出した。


「……ええ。澄川さんはご存知か分かりませんが、今の弓特はバラバラですの。それは間違いなくわたくしが弓特のトップになったから……」


 茉里は寂しそうな声で俯いてポツリと言った。茉里が落ち込むところは初めて見た。


「弓特の人達がお互い仲良くないのは知ってるよ。一番個性的な人が多いクラスだもんね。でもそれは、お互いが皆プライドが高いからだし、後醍院さんのせいじゃないよ」


「あの子達のほとんどは、鏡子さんがトップの時からいた生徒達です。今までは鏡子さんがしっかりと弓特をまとめてくれていました。アリアさんも水無瀬さんも鏡子さんにはちゃんと従っていました。でも、鏡子さんが弓特のトップから離れ、師範になられてからはあの子達はやりたい放題。わたくしの言うことなんか聞かないし、鏡子さんも力を貸してはくれなかった……わたくしに弓特をまとめることなんて出来ないのかもしれない……」


 茉里は悔しそうに言うと両手で顔を覆ってしまった。


「後醍院さん……」


 カンナが励ましの言葉を掛けようとした時、茉里は顔を覆っていた手を離し、カンナの顔を見た。


「でも、わたくしは逃げませんわ。わたくしは後醍院財閥の一人娘。御堂筋弓術みどうすじきゅうじゅつの使い手。美濃口鏡子の弟子。そして、弓特トップの女。そんなわたくしが、高々9人の後輩をまとめられず逃げ出すなんて有り得ません。わたくしは必ずこの苦難を乗り越えて見せますわよ」


 茉里はニヤリと笑った。


「良かった。後醍院さんが強い子で安心したよ」


 カンナが微笑み返すと茉里はまた頬を赤く染めてカンナから目を逸らした。


「これも、あなたのお陰ですのよ。澄川さんのような心の強い方に……人の心を変えられる人間になれたらなって……」


「私は……そんな立派な人間じゃないけど……後醍院さんなら出来るよ! 応援してる!」


「ありがとうございます。まずはあなたの力を借りずにやってみようと思います。……何からやればいいのか分からないのですが、それも自分で探してみます」


「分かった。頑張ってね! 協力が必要な時はいつでも言ってね!」


 カンナは右手を差し出した。

 茉里はニコリと微笑みその手を取った。

 茉里は大丈夫そうだ。自分で破壊衝動を抑える(すべ)も身に付けているし、しっかりと自分を持っていた。

 カンナの取り越し苦労だったのかもしれない。

 風はまた茉里の髪をふわりと揺らした。



 このところ、大怪我をして医務室にやってくる生徒はいない。授業での軽い怪我ならしょっちゅうだが、その程度なら10人もいる医療班の面々で事足りる。お陰で学園専属の医師である御影臨実(みかげのぞみ)の仕事はほとんどなく、暇を持て余すことが多くなった。

怪我がない事はいい事なのだが、腕がなまるのはあまり良い事ではない。

 故に最近は浪臥村へ出張診療を行っている。

 医療班の半分を学園に残し、もう半分を引き連れて交代制で浪臥村へ行く。そうする事で浪臥村の人々の健康維持にも医療班の技術向上にも繋がる。いわば、医療班の村当番のような仕組みを確立したのだ。

 御影は医務室で1人、読書用の眼鏡を掛け、浪臥村で仕入れた最新の医学情報誌を読んでいた。金髪の長い髪を片側だけ耳に掛け、コーヒーを片手に本のページを捲った。

 部屋の奥には他の医療班の机が並んでいて、彼らは普段そこで仕事をするが、暇なので学園の雑務を手伝いに行ってしまった。彼らは医療の他に、簡単なものなら事務処理でも大工仕事でもこなせるのだ。


「失礼します」


「あら、柚木(ゆずき)師範。こんにちは。怪我でもしました?」


 医務室に入って来たのは御影よりは歳下の若い師範の柚木透(ゆずきとおる)だった。

 いつも笑顔で女性には特別優しいと一部の女子生徒の間では評判の良い師範である。とても清潔感があり、御影自身も好感を持てる師範だ。


「コーヒーの良い香りがしたもので……あ、すみません、怪我や病気ではないのです。今日の医務室の稼動具合を視察しに来ました。今日も平和そうで何よりです」


「あら、いつもは来ないのに、珍しいわね。座って。ミルクとお砂糖は?」


「僕はブラックで大丈夫です」


 御影は柚木を丸椅子に座らせ、先程焙煎したばかりのコーヒーをコップに注ぎ柚木に出した。普段視察など来た試しがないので、別の目的で来たのだということはすぐに分かった。


「で、何か用? 私を口説きに来たわけじゃないでしょ?」


 御影はまた自分の椅子に座ると脚を組んで柚木に向き合った。


「まあ、それもいいのですが、今回は氣を消す薬『消氣剤(しょうきざい)』について何か知らないかと思いお伺いしました」


「消氣剤……。どこでその名を?」


 御影は掛けていた眼鏡を外し机の上に置いた。


「やはりご存知でしたか。理事会の案件なので詳しい事は言えないのですが、消氣剤を使って悪事を働いた可能性のある輩がいるかもしれないのです」


「え?? そんな……消氣剤は栄枝(さかえだ)先生以外生成出来ない筈よ?」


「やはりそうなんですか。という事は、御影先生の認識では、現在この世に消氣剤は存在しない筈……という事ですね?」


「ええ。栄枝先生が作ったのは一度だけ。注射器10本分。そして、それは今は全て破棄されている。栄枝先生が亡くなった今は存在しないわ」


 柚木はなるほどと頷きながらも御影の心を見透かすような視線で見詰めてきた。

 思わず御影はたじろいだ。


「噂によれば、御影先生は栄枝先生の医療に関する技術を受け継いだと聞きました。もしかして、消氣剤の生成方法もご存知ではありませんか?」


 柚木は真剣な眼差しで尋ねてきた。どうやら相当大事(おおごと)らしい。


「そうね。私が受け継いだ栄枝先生のメモの中に『消氣剤の生成方法』という項目があったわ。それを見れば恐らく私でも生成出来るかもしれないけど、試した事はないわね。必要ないだろうし」


「なるほど。では、出来ればその、『消氣剤』に関する内容が記載されたページを見せて頂けないでしょうか?」


 柚木の申し出に御影は拳を顎に当ててしばし思案した。

 相手が知り合いの師範とは言え、機密情報に当たるものを簡単に見せても良いのだろうか。現に過去、信頼していた師範達による壮絶な裏切り行為を受け、死の危険に直面した事もある。その裏切り者の中には恩師である栄枝良宣(さかえだよしのぶ)もいたのだ。


「あれ? もしかして御影先生。そのメモというのは師範である僕にも簡単には見せられないものですか?」


「……ええ。ごめんなさい」


「理事会で必要な資料だとしても、ですか?」


 柚木は細い目をさらに細めて微笑みながらコーヒーを口に運んだ。


「理事会で必要という事なら、私が理事会に資料を持って行きます。万が一、あなたに渡して……その、もしもの事があったら、あなたに迷惑が掛かってしまうし」


「そうですか。それでは一度その旨を総帥に報告してからまた出直すとしましょう。念の為確認ですが、そのメモは盗まれたりしていないですよね? どこに保管されているのですか?」


「どうしてそんな事を聞くの?」


「まあ……こちらも機密情報なので、詳しい事はお教え出来かねます」


 何か疑われている。御影はそう感じたが、逆に柚木もこちらが疑っていると感じているだろう。


「あなたが理事会に参加する権限を認められれば、全てお話出来ますのでそう怖い顔をしないでくださいよ、御影先生」


「それはこちらも同じ事よ。理事会なら今からでも出頭するけど?」


「いや、それも一度総帥の許可を取りますのでお待ちください。早ければ今日の放課後。遅くとも明日にはお声掛け致します」


「そう。メモは私が肌身離さず持ち歩いているから盗まれてはいないわ」


「ならば一先ず大丈夫そうですね。コーヒー、ご馳走様でした。美味しかったです」


 柚木はいつの間にかコーヒーを飲み干しており、立ち上がると最後に笑顔を見せそのまま部屋から出て行った。

 御影はすぐに自分の鞄の中を漁った。中からボロボロの本を取り出し中を確認した。


「大丈夫ね……」


 この本こそ、栄枝から託された栄枝の医学のノウハウを記したメモである。勿論、消氣剤の生成方法も記載されている。栄田の形見として大切に持っているのだ。

 特に弄られた形跡はないと思う。

 一体、消氣剤を悪用した可能性があるとは何事だというのだろうか。この学園での出来事なのだろうか。

 御影はまた椅子に座ると消氣剤のページに目を落とした。

 底知れぬ不安がジリジリと湧き上がってきた。




 理事会のあった日の午後の授業が行われている時間、柚木は御影から得た消氣剤の情報を持って報告に来た。

 その報告によると、御影は消氣剤の事を知っている。生成方法も知っている。現在消氣剤はこの世に存在しない。しかし、その生成方法が記されたメモの提出は拒んだという。彼女にとっては当たり前の行動だろう。2年前、御影以外の師範達は重黒木(じゅうくろき)も含めて全員割天風の野望に加担しており、御影と生徒達を騙していたのだ。今はその蟠りもなくなったとはいえ、慎重になる気持ちは分かる。

 柚木は重黒木の執務室で直立したまま重黒木の言葉を待っていた。


「御影が消氣剤についての情報を持っている事は分かった。別に証拠資料を提出させずとも良いだろう。御影がその情報を持っており、消氣剤は現在この世に存在していないという事が分かれば良い。それに、我々が資料を見たところで専門的な事は何も分からん。それよりも柚木、御影にはこの学園に内通者がいるかもしれない事を伝えろ。その上で消氣剤の資料を自分で保管出来るか、こちらで預かるか決めさせろ。今は消氣剤の情報が敵国に渡っていなくても、今後、消氣剤の情報が漏れるような事があれば、氣での敵の感知が出来なくなる。つまり、学園は防衛面でかなり不利になる」


「承知致しました」


 柚木は一礼して部屋の扉へ向かった。


(そう)(てい)も動き出しているな。果たして龍武(りょうぶ)はどう動くか」


 重黒木はポツリと呟いたた。柚木は一瞬止まったが、独り言だと判断すると何も答えず部屋から出て行った。


 1人になった部屋で重黒木は窓から外を見た。

 槍特(そうとく)が馬術の授業で外を駆け回っている。

 内通者の存在が明らかにならぬ間は暗特(あんとく)の新設も見送った方が良いだろう。

 理事会を開いたのは単に情報共有ではない。動きを悟られたと思った内通者が焦ってボロを出させ易くする狙いもあった。これは海崎(かいざき)と密かに取り決めた事だ。海崎だけは間違いなく内通者ではない。それは、海崎が学園を不在にしている間に神髪瞬花(かみがみしゅんか)の資料の無許可閲覧があった事もそうだが、何よりどの師範よりも信頼のおける男だから、という理由が強い。

 内通者の件は帝都軍の久壽居(くすい)にも一応報告した。帝都軍内や龍武で何か動きがあったら情報を共有出来る体制を作った。

 生憎まだ宝生(ほうしょう)祇堂(ぎどう)に帰還していないらしい。

 今日からしばらくは眠れなくなる。

 重黒木は自分の拳を見詰めながらそう思った。




 三国急転の章~完~


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