第90話~疑い~
ある日の昼休み。学園の掲示板に序列仕合の日程が掲出された。
それは、このところ頻繁に序列仕合を行っていた霜月ノアの仕合ではなく、カンナの馴染みの生徒同士の仕合だ。
序列5位、斉宮つかさ。対するは序列7位、火箸燈である。
以前より話があった仕合がついに決行されるのである。
掲示板の前は各クラスの生徒達で溢れかえっている。それもそのはず、上位序列の生徒同士の仕合など、滅多にお目に掛かれるものではない。生徒達は皆興奮した様子で互いに勝敗の行方や仕合に至った経緯などをあれこれ予想し合っていた。
当の本人達はここにはいない。
その人集りの中で、カンナが1人掲示板をボーッと眺めていると、不意に隣に気配を感じた。
「上位序列の人同士の仕合って僕初めて見ます」
話し掛けてきたのはカンナと同じ体特の序列38位の水本京介だった。
水本はまだ幼く、10代前半かそれよりも若いくらいの可愛らしい男の子だ。見た目はこの武術を教える学園に相応しくないくらいの貧相な体型で、その見た目通り体術も大して出来ない。龍武の蘭顕府で生まれ育ったが、すぐに病で親を亡くし、その事が原因で何らかの心の病を患った。だが、幸運にも好意で街の長に育てられる事となり、孤児にならずに済んでいた。そんな時、この学園の噂を聞き、身体を鍛える為に長の勧めで入学したという話だ。
「そうだよね。君が来てから上位序列同士の仕合ってやらなくなっちゃったもんね。……あ、そもそもそんなに仕合自体やらなくなったかも」
カンナは年下の水本に優しく答えると、過去の序列仕合を思い浮かべながら唇に人差し指を当てた。
思えば一番最近行った上位序列同士の仕合は、カンナとつかさが闘った2年前まで遡る。
それ以来積極的に序列仕合を行うものはいなかった。
ここ最近、霜月ノアが序列仕合を敢行しているくらいで以前より明らかに序列仕合の頻度は落ちた。序列というものに興味を持つ生徒がいなくなったからなのかもしれない。
「皆凄いな……。僕なんて1人でも生きられる力を付ける為にここに来たのに、誰よりも弱くて……身体も貧弱なままだし。結局病気を持ってるから僕は強くなれないんだ」
水本は弱々しい声で俯いてしまった。
「大丈夫だよ、ちゃんと授業受けてれば皆みたいに強くなれるよ」
カンナが膝を曲げ、水本の顔を見ながら優しく言った。
だがその時、どこからか舌打ちがカンナの耳に入ってきた。
「男のくせにグズグズと。鬱陶しいから消えなさい。38位」
水本の少し後ろで不快そうな顔をしながら霜月ノアが悪態をついた。
水本はビクッと震えてさり気なくカンナの後ろに身を隠した。
「ちょっと、霜月さん、そんな言い方」
「あなたもあなたです。そんな貧弱な子供放っておいて篝氣功掌の普及をした方がいいんじゃないですか? 私の目にはあなたもグズグズしている自分の意思のない優柔不断なクソ女に見えますよ。澄川さん」
「はぁ?」
流石のカンナもノアの暴言には頭に血が上った。
しかし、ノアは動じずに平然とカンナを見た。
「あなただけじゃありません。この学園の生徒達には向上心を感じられない。ただ平和に甘んじて安穏と暮らしてるだけ。それなら、大陸側の孤児院でも大差ない。上位序列を目指すわけでもなく、独り立ちするわけでもなく、ほんと、何やってるんですかね?」
カンナは痛いところを突かれ、反論しようにも言葉が出て来ず俯いてしまった。
「私はこの学園で1位になり、樂庸府で弓術の自警団を組織するという目標があります。その為に日々修行をして常に上を目指しています。でも、今のこの学園で1位になったところであまり意味はないのかもしれませんね」
そこまで言うとノアは溜息をつき、持っていた短弓に目を落とした。
「昔は上位序列には素晴らしい武術家達が君臨していたと聞きます。私ももう少し早く、この学園に来れば良かった。割天風先生に直接指導して頂きたかったものです。今は神髪さんもいないようですし」
もう言うことはないと言わんばかりにカンナを睨み付けると、ノアは1人食堂の方へ歩いて行ってしまった。
カンナの背後には水本がまだしがみついている。
「澄川さん、僕あの人怖いです。何を怒っていたのか分かりません」
カンナはまた膝を曲げ、水本の頭を撫でた。
「君はまだ深く考えなくていいよ。霜月さんは私に怒ってたんだから」
「そうなんですか?」
「そう。あ、水本君お昼まだ? だったら一緒に……」
「おい! 水本! こんな所にいたのかよ! 飯行くぞ!」
突然声を掛けてきたのは体特の七龍陽平だった。隣には同じく体特の魁清彦もいる。
「あ、もう先約がいたのね。じゃ、またね」
カンナは七龍と魁に連れて行かれる水本に手を振った。
「あ、いや、僕は」
水本は何か言おうとしていたが、七龍に遮られそのまま食堂の方へ消えて行った。
気が付けば、掲示板の前にいた生徒達も食堂やら修行やらへ行ったのかカンナ1人になっていた。
いつもカンナと一緒にいる光希はキナや蔦浜らと共に提出期限が今日までの数学の課題が終わっていないらしく、昼休みでも教室で必死に取り組んでいるのだ。
1人になったカンナは光希がいないので、つかさを誘って食堂へ行こうかと思っていた矢先、突然1つの氣を背後に感じた。
「海崎さん、戻られたんですね」
背後を振り返ることもなく、その氣の感じだけでカンナは何者か言い当てた。
「ああ、それより澄川。緊急の理事会だ。一緒に会議室へ来てくれ」
「理事会?」
カンナは訝しげに首を傾げつつ海崎の方を見ると、カンナがまだ承諾していないにも関わらず、海崎は先に歩き始めていた。
もう、と言いながらもカンナは海崎の後を追った。
カンナが校舎の2階にある会議室に到着した時には、既に師範も生徒も全員揃って着席していた。
長机が2列、師範と生徒が向かい合うように設置されており、片方の席を師範達が埋めていた。最近師範となった斑鳩と奈南も師範達の側にいた。現在師範は、剣特師範、大甕伊佐治。槍特師範、南雲魁司。体特師範、柚木透。弓特師範、美濃口鏡子。そして、斑鳩爽と四百苅奈南の6人である。
「あ、斑鳩さん。こんにちは」
ここ最近斑鳩に会ってもいなかったので、久しぶりにその端正な顔を見られて嬉しい気持ちと共に恥ずかしさで口元から笑みが零れた。
「ああ」
斑鳩はにこりと微笑むと短く答えた。しかし、その笑みはすぐに消え、難しそうな表情になった。
「こんにちは、澄川さん」
生徒側の席にいた茉里がカンナに微笑み掛けた。カンナも笑顔で応えた。
理事会の生徒達は序列1位から5位までが通例だが、今は1位の神髪瞬花が居ない為、繰り上がりで序列6位の後醍院茉里が参加していた。
現在空席の序列2位も、本来は生徒を繰り上げて埋める必要がある。しかし、今回は海崎が参加している為、多数決を取るにしても、重黒木を抜いて人数は11人で奇数となるので問題ないのだろう。
生徒ではカンナが一番最後の入室となった。
カンナはリリアとつかさの間の席に座った。
総帥である重黒木は師範と生徒の席の端に平行に置かれた席に着席していた。隣にはカンナを連れて来た海崎が立っている。
「それでは、全員揃ったところで、理事会を開始する。とても重要な案件だ。海崎」
重黒木が言うと、海崎が一礼して理事会の面々を見渡した。
厳粛な雰囲気にカンナは唾を飲んだ。
「率直に話す。学園序列1位、神髪瞬花が蒼国に亡命した」
海崎の突然の話に生徒も師範も声を上げて驚いていた。
「亡命? 一体どういう事ですか?」
槍特師範の南雲が言った。
「鼎国を監視している八門衆の巽から、先日神髪瞬花を捕獲しようと鼎の将軍が兵5千を率いて亜務剡で戦闘を行ったとの報告があった。しかし、鼎軍は神髪瞬花にあっという間に軍を撤退に追い込まれた。その混乱に乗じて、蒼の何者かが神髪瞬花と接触。そのまま蒼へと連れて行った、という事らしい。それと、神髪瞬花の監視に付けておいた離の行方が分からず連絡が途絶えた。恐らく神髪瞬花か蒼の者に殺られたと思われる」
「ちょっと待ってくれ。神髪瞬花が人の説得を聞くとは思えん。なんせ、奴は強い者と戦う事にしか興味を示さない筈だ。神髪瞬花自身より弱い者の話など聞くわけがない。何かの間違いだろう、海崎殿」
剣特師範の大甕が言った。流石に学園創設時からの師範だけあって神髪瞬花の事も良く知っているようだ。
「私もそう思い、大陸側で動いている他の八門衆のドゥーイと乾の2人に確認させたが、どうやら神髪瞬花が蒼にいるのは間違いないようだ」
「そんな……馬鹿な」
大甕の嘆きに重黒木が眉間に皺を寄せて口を開いた。
「学園に保管されている神髪瞬花に関する機密事項を記載した資料を許可なく閲覧した者がいる」
その場の全員が言葉を失い重黒木の顔を見た。
「資料には神髪瞬花の『制御方法』が記載されている。それが蒼に漏れていたとしたら、神髪瞬花を言葉巧みに言いくるめ、寝返らせる事は可能だ。その後言う事を聞かせる事も勿論可能だ。だが、この資料は俺の執務室の金庫に保管されており、俺以外が金庫を開ければ必ず開けたことが分かるように細工してある。そして、俺は海崎から今回の報告を受けた時に金庫を調べた。資料自体は無事だったが、金庫を開けられた形跡があったのだ。金庫からも資料からも不審な指紋は出なかったがな」
その場の全員が息をするのさえ忘れているような表情で黙って聞いていた。そして、その重黒木の言葉の意味を皆が理解するのにそう時は掛からなかった。
「つまり、学園内に蒼の内通者がいるということですね」
弓特師範の美濃口鏡子が結論を口にした。
皆が神妙な面持ちで顔を見合わせた。
「そうなるな。学園の警備は海崎と八門衆が行っている。総帥執務室がある校舎は海崎が担当している。それを掻い潜って侵入する事も、金庫の暗証番号を知る事も俺に近しい人間にしか出来ない。悪いがこの理事会メンバーの中に内通者がいるのではないかと疑っている」
「そんな、冗談ではありませんわ! わたくし達がそんな事をする理由なんてありません。外部の者の犯行ではないのですか?」
茉里が机を叩き立ち上がった。
しかし、重黒木は冷静に茉里を見た。
「残念ながら外部の者の犯行の可能性は極めて低い。2年前と違い、この学園の敷地内に侵入した者は八門衆にその氣を感知されすぐに侵入が発覚する。セキュリティは以前より厳しくなっている」
「え? 氣を感知……って??」
カンナは聞き慣れた言葉につい反応してしまった。
「海崎と八門衆には氣を感知する特別な修行をしてある。残念ながらお前の篝氣功掌のように、氣を攻撃には使えんが、半径1キロ程度なら学園の生徒の氣か部外者の氣か位は判断がつく」
「そうなんですか。それなら確かに外部の者が侵入したら気付きますね。気配は消せても、氣を消すことは出来ませんからね」
カンナはそこまで言ってある事に気が付いて立ち上がった。
「あ! でも、氣を消す薬があれば可能じゃないですか? 以前響音さんが使ってたあの薬」
カンナが学園に入学して間もない頃、響音の虐めを受けていたカンナは、氣を消す薬を使われ散々苦しめられた事を思い出した。あの薬の効果は本物だった。
「確かに……『消氣剤』を使えば氣を消して侵入する事も出来るわね」
静かに口を閉じていた奈南が口を挟んだ。
「『消氣剤』って言うんですか、あの薬。四百苅さん、あれはどこで入手したものか知ってますか?」
「詳しくは知らないわ。あの人、いつの間にか持っていたの。それを頼まれて私が預かっていた。でも、響音さんが消氣剤を手に入れた頃は大陸側に行った様子はなかったから、可能性としては、浪臥村で手に入れたか……」
「学園内部で生成されたものだろうな」
奈南の話に今度は重黒木が口を挟んだ。
「学園内部で? どういう事ですか? 重黒木総帥」
カンナが言った。
「あくまでも俺の勘だが、その『消氣剤』という薬を作るには『氣の知識』と『製薬の知識』が必要だ。その2つの知識はかつての学園に存在した」
「割天風先生と栄枝先生か」
南雲が言った。
「割天風先生は学園に憎悪を作り出す為に多綺響音を利用した。その時に『消氣剤』を作り、澄川カンナと争わせる目的で多綺響音に渡したと考えても不自然ではない。四百苅、その消氣剤は今もあるのか?」
「いえ、必要ないと思い、預かっていた分は処分しましたので私の知る限りではないと思います」
「なるほど。確実にこの世にないとは言い切れんわけか。ならば外部の者が氣を消して八門衆の包囲を掻い潜った可能性もあるわけだ」
重黒木は『消氣剤』という盲点に困り果てたようで、腕を組むと目を閉じてしまった。老齢の師範達はうーむと唸っている。
「栄枝先生の技術は全て御影に託されたと聞きました。もしかしたら、消氣剤の事も御影が知っているかもしれません、総帥」
大甕が俯いている重黒木に言うと、重黒木は俯いたままうむと頷いた。
「ならば僕が御影先生に聞いてきましょう。栄枝先生が消氣剤の生成に携わっていたのなら、栄枝先生の技術を受け継いだ御影先生も消氣剤について知っている筈ですからね」
体特師範の柚木が静かに言った。
「よし、では柚木。消氣剤の調査は任せた。各師範、並びに理事生徒は他の生徒の安全確保に努めよ。内通者が生徒達に危害を加えないとも言い切れんからな。万が一、不審人物を見掛けたら拘束せよ。例えそれが、顔見知りでもだ。それと、内通者の件は他の生徒には口外するな。いいな?」
重黒木の指示に、全員が声を揃えて返事をした。しかし、生徒達の返事にはいくらか迷いがあるように感じた。カンナにも迷いがあった。それはやはり、「顔見知りでも拘束せよ」という言葉に対するものである。
「八門衆は引き続き学園内の警戒に当たらせろ。今回は海崎が学園にいない時を狙われたのかもしれんが、今後は虫一匹逃さん。頼むぞ、海崎」
「お任せ下さい」
「それから、一番まとまりのない弓特。美濃口が寮長だった頃のように統率を取れるようにしろ。いざと言う時に団結が出来なくては話にならん。正直、今は弓特が心配だ。いいな、後醍院」
「……わたくしは」
「茉里。口答えしない」
辛辣な言葉に弓特の寮長である茉里はムッとしながら文句を言い掛けると、向かいの席の美濃口鏡子が窘めた。
「分かりました」
茉里は鏡子には口答えせず、静かに首を縦に振った。
話が終わると生徒達には解散の指示が出されたが師範達だけ残り、重黒木と何か細かい話を始めた。
そんな中、柚木だけが先に部屋を出て行った。御影に消氣剤の話を聞きに行ったのだろう。
カンナも気になって柚木を追い掛けようと立ち上がったが、席の一番端に座っていた茉里が無言で立ち上がりカンナの後ろを素通りして部屋から出て行ってしまったのでカンナはそれを追った。
廊下に出たカンナは互いに反対方向へ歩いて行く柚木と茉里の背中を見た。
「行ってあげな。カンナ」
肩を叩いたのはつかさだった。その隣にはリリアもいた。
「つかさ……」
「あの子には、あなたが必要だよ」
つかさは笑顔で言った。
その笑顔はどこか垢抜けた感じがした。
柚木には後で話を聞ける。同じ体特なのだから。
カンナはつかさの笑顔に笑顔を返した。
「ありがとう。つかさ」
カンナは紫の長い髪の毛を揺らしながら遠ざかる茉里を追った。




