第88話~移りゆく気持ち~
紫嶋はすぐに宝生のもとへやって来た。
表情がなく殺伐とした雰囲気を醸し出しているガッシリした身体付きの若い男である。
黒髪の長髪を後頭部で結っており、黒い衣装と具足を着けていて、全体的に暗い印象がある。
瞳も生気が宿っていないような暗い緑色をしている。
ただ、右手に持っている真っ赤な棒だけが異様に目立っていた。恐らく棒術使いなのだろう。
従者に宝生が座っている床几の隣に、同じ床几を用意させ、紫嶋をそこに座らせた。紫嶋は棒を従者に持たせたが、従者には重いのか受け取った時にふらついていた。
「紫嶋将軍、その棒を見るに『破軍棒術』を使われるのかな?」
「ええ」
紫嶋は短く返事をした。相変わらず無表情である。
宝生は自分で淹れた篳篥から貰った茶を紫嶋にも渡した。
「『紫嶋』というと、破軍棒術の創始者、紫嶋鈕勘の子孫か何かかな?」
「いえ、私は当時道場の師範だった紫嶋嘉祓の養子です」
紫嶋は宝生が訊ねたことだけ答えると茶を啜った。一瞬眉が動いたが、視線は遥か遠くを見ていた。
「そうか。あの紫嶋師範の。紫嶋嘉祓が開いていた道場と言えば、樂庸府ではかなり有名な道場だったな。ただ、紫嶋師範には跡取りの子がおらず、1年前に紫嶋師範が病で亡くなられてから道場は閉鎖されたと聞いた。まさか養子がいたとは。道場は継がないのか?」
宝生は紫嶋の顔を見ながら茶を啜った。口の中には今まで味わったことのない甘美な風味が広がった。
「私は帝都軍としてこの国を守る為に尽力しているつもりです。道場を継ぎたい気持ちもありますが、私が今やるべきことは、龍武の再生。その片手間に道場を運営することなど私には出来ません。養父にも国の為に働けと言われておりました」
龍武の再生。その言葉を発した紫嶋からは少し怒りのようなものを感じた。
「宝生将軍。私に何かご用でしょうか? 世間話をする暇があるなら、一刻も早く樂東に行き、青幻や我羅道邪を撃滅した方がよろしいかと」
「まあ、待て。人間休息は必要だ」
宝生は笑いながらまた茶を啜った。
紫嶋も無表情のまま茶を啜った。
「其方は樂庸府郊外の街へ勝手に兵を率いて賊徒の討伐や奴隷商人の摘発などをしていたらしいな。その罰として今回樂東に左遷されるとか」
紫嶋は遠くを見たまま頷いた。
「そうらしいですね。誰も帝都・樂庸府の周りの脅威を見ようとしない。すぐ近くに苦しんでいる人間がいるのに救おうとしない。だから私が救ったのです。軍令には違反しましたが、悪いことをしたとは思っておりません」
紫嶋は語気を荒げて言った。やはりこの国に憤りを感じているようだ。
「罰として樂東に左遷されることについて、どう思っている?」
「樂庸府郊外の治安を維持出来なくなるのは心残りです。まだ賊徒や奴隷小屋を根絶したわけではありませんから。ですが、ここで歯向かったところで私は軍から追放されるか投獄されるだけでしょう。ならば、大人しく罰を受け、樂東の争いを早急に鎮圧し、その功績を手土産にまた樂庸府に戻るべきだと考えました」
紫嶋という男の目は死んでいるように見えたが、国の話をすると目に炎が宿り、饒舌になった。
「なるほど。俺も其方の行いは必ずしも悪ではないと思っている。いや、むしろ、人間としては正義の行動だ。其方のような人間が樂庸府の軍にはいない。廷臣にもいない。だから本当は其方を樂庸府に戻したい。だが、今戻したところで、宇津木橋元帥や朝倉大将がいる限り無意味だろう」
紫嶋は茶を啜りながら宝生の話を黙って聞いていた。
「なればこそ、今は樂東を早急に平定し、俺と其方の2人で樂庸府に戻ることが良策だ。そして2人でこの国を変えていこうではないか!」
宝生は湯呑みを机に置き、紫嶋に右手を差し出した。
すると紫嶋はいつの間にか飲み干していた空の湯呑みを従者に渡し、床几から腰を上げたかと思うと地面に膝を突き拱手した。
「宝生将軍! 私はあなたのような方にお会いするのは初めてでございます。龍武を変えたいと思っているのは私だけなのではないか、樂庸府にいるとそう思うばかりでありました。宝生将軍。この紫嶋泰元、身命を賭けて宝生将軍にお仕え致します!」
宝生は驚き立ち上がり、紫嶋の手を握り立ち上がらせた。
「ありがとう、紫嶋将軍。共に戦おう。全ては民の為に」
「宝生将軍、やはりこうしてはおれません。早急に進発し、青幻、我羅道邪討伐の軍議を開きましょう」
「分かった。だが、焦るな。進発は兵や馬を十分休ませてからだ。殿軍は引き続き頼むぞ。紫嶋将軍」
「御意!」
紫嶋はまた拱手して従者から棒を受け取ると自分の部隊へ戻ろうとしたが、すぐに立ち止まり宝生の方を見た。
「龍神茶。美味しかったです。ありがとうございました」
「待て、この茶を知っているのか? 皇族専用だぞ?」
「一度だけ、頂いたことがありました。篳篥様がご馳走してくださったのです。それでは」
紫嶋は初めてニコリと微笑み、そして走り去った。
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シャワーを浴び終わると、カンナは光希と別れて和流の待つ美術室に向かった。
美術室の扉の前で深呼吸した。少し緊張しているようだ。
「お待たせ」
カンナはゆっくりと扉を開けながら中をのぞき込んだ。
「待ってたよー澄川さん! 今回は柚木師範いないよね? 大丈夫??」
和流は1人で新しく買ってきた画材の試し描きをしていたのか、机の上の白い紙に何色もの筆の跡が描かれていた。
「大丈夫だよ。柚木師範の氣は感じない。近くには誰もいないよ」
「なら今度こそ2人っ切りだね」
和流は嬉しそうに微笑むと、カンナの顔から胸、脚へと目線が動いた。
思わずカンナは胸と股間を手で隠した。
「あ、ごめん。和流君の視線が厭らしかったからつい」
「ちょっと澄川さん! これから澄川さんは絵のモデルになるんだよ? つまり、俺に身体の隅から隅まで観察されるってこと。分かってる? 俺は真面目に見るよ!」
和流は凛々しい顔で筆をカンナに向けて言った。
「隅から……隅まで」
カンナは頬を染めて身体をモジモジとさせた。
「恥ずかしがる澄川さんも可愛い」
「も、もう、からかわないでよ。恥ずかしい」
カンナは両手で顔をパタパタと扇いだ。
「澄川さん、暑かったら全然服脱いじゃっても大丈夫だからね! 澄川さんのどんな姿でも俺は大歓迎だから」
和流はいつものように、セクハラめいたことを言いながら画材の準備をして用意されていたキャンバスの前の椅子に座った。
「えーっと、和流君、私を脱がせたいの?」
「え? あ、違っ、その、冗談だから怒らないでよ! そりゃあ澄川さんの裸見たいよ、俺は男だからね。その気持ちは隠さない。男が好きな女の子の裸を見たくないわけないんだからさ。でも、無理矢理どうこうしないし、適当に聞き流してよ」
和流は馬鹿正直に答えた。
「やっぱり、そうだよね。男の人なら、好きな女の子の裸見たいよね。……その……エッチもしたくなるよね?」
「うぅえええ?? エッチ!? ま、まあそうでしょうね。そういう生き物だから」
和流が珍しく動揺していたのでカンナは首を傾げた。
「え? どうしたの?」
「いや、澄川さんが突然エッチしたくなるよね? とか聞くから、ビックリしたんだよ……えーと、これは、今夜あたり期待してもいいのかな?」
「え!? 違う、そういう意味で言ったんじゃなくて!」
確かにカンナは変なことを言っていたようだ。しかし、和流の男としての意見を聞き、やはり未だに肉体関係を求めてこない斑鳩が普通じゃないのだと思った。
「和流君。先に言っておくけど、私、斑鳩さんと付き合ってるの」
「うおっ! やっぱり……そうだったんだ。いや、知らなかったけど、付き合ってても不思議じゃない仲ではあったけど……個人的にショックだな」
和流は苦笑しながら頭を掻いて、画材を無意味に弄り始めた。
「和流君、前私に付き合ってって言ってくれたよね。凄く嬉しい。でも、付き合うことは出来ないから、ちゃんと言っとこうと思って……ごめん」
和流は下を向いて黙り込んでしまった。
きっと、和流はカンナと付き合える可能性を信じてこうやって絵のモデルに誘ったのだろう。斑鳩と付き合ってることを告白した今、和流はカンナに興味をなくしたはずだ。だが、このまま真実を隠していたら余計傷付けてしまうことになる。これで良かったのだ。
「まあ、それは仕方ない。澄川さんが好きな人と付き合えてるのは幸せな事だよ。俺が口出しする事はない。上手くやってるの?」
和流はそこまで落ち込んでいないように見えた。カンナに笑顔を見せて、そして、カンナと斑鳩の関係を気遣うような事を聞いてきた。
「それなりに……でも、これから1ヶ月は斑鳩さんは暗特師範の研修があるから会えないと思うけどね」
「そっか……寂しいね。ま、寂しかったら俺はいつでも暇してるから声掛けてよ。俺、振られても澄川さんを好きなことは変わらないし」
「あ、ありがとう。でも、私、多分和流君が思ってる程いい女じゃないよ?」
「そんなことないよ。まず俺は澄川さんの見た目が好き。かなり好き。可愛いし、スタイル良いし、リボン可愛いし……あと、声も好き。性格も友達思いで面倒見が良くて優しくて、体術も凄いし、嫌いなところがない」
和流の本気かお世辞か分からない賛辞にカンナは口元を隠してニヤリと笑った。
「ほ、褒め過ぎだよ。そんな褒めても何も出ないよ……」
「それだけ俺は澄川さんにゾッコンてことだよ。あんまり望まないけど、万が一、斑鳩さんと上手くいかなくなったりしたら、俺と付き合って欲しいな。絶対大切にするし」
「ま、まあ、ないとは思う……けど」
カンナは頬を染めたままニヤつく口元を隠し続けた。
「それじゃぁ、澄川さん。そこで前と同じ篝氣功掌の構えをお願いします! 疲れたら言ってね」
和流はそう言うと自然に絵を描き始めた。
カンナの顔はまだ少しニヤケていて、しばらくいつものクールな表情に戻らなかった。
辺りがすっかり暗くなった頃、和流は画材を片付け始めた。部屋のランプだけが2人を照らしていた。まだ絵が完成したわけではないが、今日の作業は終わりのようだ。
「澄川さんこんな時間までごめんね。良かったら俺の部屋で飯食わない? こう見えて俺、料理上手いよ」
長時間同じ姿勢を続けて固まってしまった身体を伸ばしていたカンナは突然の誘いに苦い顔をした。
「ああ……ごめん。今日は光希がご飯作って待ってるから帰らなきゃ。また今度ね」
「そっか。じゃあ、寮まで送るよ」
和流は荷物を纏めると立ち上がった。
「え、いいよ。逆方向だし」
「それは気にしなくていいよ、俺は少しでも澄川さんと一緒にいたいんだからさ」
和流は白い歯を見せてニコリと笑った。清々しいまでに自分の気持ちを隠さない和流。振られたにも関わらずいつも通り接してきてくれる。
カンナはそんな和流に魅力を感じ始めていた。
「じゃあ、帰ろ」
「よーし! そう来なくっちゃ!」
和流は子供のようにはしゃぎながらランプの灯を消した。
そんな姿を見て、ふと、カンナは蒼衣に言われたことを思い出した。
『あなたは斑鳩さんよりも、和流さんとの方が上手くやれますよ』
確かにそうかもしれないと思った。
和流には斑鳩にはない無邪気さがある。そして、カンナが求めている肉体関係への関心。
蒼衣の言う通り、和流と付き合えば、カンナの処女を奪って貰える。いや、もしかしたら付き合わなくとも、躰だけの関係を築けるかもしれない。
校舎の外は真っ暗だ。そんな中、和流の笑顔だけは輝いて見えた。和流の話は面白い。時々際どい話も自然に混ざっているがカンナはそんな話にも刺激を感じた。
一度意識してしまうともう特別な目でしか見れない。
カンナと和流はそれぞれ馬に乗り体特寮へ駆けた。
馬を使えば寮へはすぐに着いてしまう。
もし、自分が斑鳩と付き合っておらず、先に和流に告白されていたら、一体どうしただろうか。
「そういえば、水無瀬さんと海行くんでしょ? もし良ければ俺も一緒に行っていいかな? 澄川さんの水着姿また見たい!」
「あ、うん。私はいいよ。水無瀬さんに聞いといてあげる」
カンナはあっさり承諾した。
こんなにはっきりと自分の水着姿を見たいと言ってくれれのは和流だけだ。
あっという間に体特寮に到着してしまった。
カンナは響華を降りた。
「送ってくれてありがとう。楽しかったよ。絵のモデル、また声掛けてね」
「うん! 助かるよ。付き合ってくれてありがとう。俺も今日は楽しかった。それじゃぁまた明日。おやすみなさい」
和流は微笑むと夜の闇へと馬と共に消えて行った。
カンナは響華の鼻面を撫でた。
「斑鳩さん……私……」
呟きかけた言葉をカンナは飲み込んだ。
初恋から始まって初めて出来た恋人。カンナにとって恋愛とは何もかも初めての経験だった。
そして、今心にモヤモヤとしているこの気持ちが『浮気』というものであるなら、それもまた初めての経験だった。
響華は複雑な表情をしているカンナの顔にそっと顔を寄せた。




