第82話~樂庸府凱旋~
龍武帝国の都、樂庸府は平和だった。
東の地、祇堂方面での青幻の築いた国『蒼国』との激烈な戦闘が嘘のようだ。まるで別の国なのかと思える程だ。
宝生は祇堂郊外での戦闘での勝利を理由に龍武の帝、機織園に招集を受け、凱旋という形で1万の兵と共に樂庸府へと赴いていた。
機織園からは褒賞として勲章と莫大な金を貰った。共に連れて来た1万の兵も、近衛兵である禁軍の士気を高める為に盛大に労われた。兵達は皆嬉しそうに笑顔を見せるものばかりだった。
だが今はそんな物を受け取る為にわざわざ祇堂の戦線を離れてこんな所に来ている場合ではない。完全に蒼国を倒したわけではないのに凱旋などとは気が早い。やはり機織園も廷臣も戦況などまるで理解していない。
樂庸府への道中には、南橙徳の久壽居から学園の生徒である澄川カンナが、青幻の幹部の程突に攫われたなどという情報も入って来ていた。すぐにはどうする事も出来なかったのでその件に関しては久壽居に一任した。だがそれも、5日程で片がついたと連絡が来た。
久壽居はまだ30前半の若造だったが、やはり、その存在は心強く感じた。
元々、宝生が不在の場合の総指揮官は木曽を任命していた。だが、先の薄全曹と孟秦との戦で戦死した。
久壽居がいなければ今頃どうなっていたか分からない。
宝生も今年で70になった。もう退役して若い者と交代するべきなのだろうが、今の帝都軍にめぼしい人物はいない。
極論を言うと、自分と久壽居しかこの大任は担えない。
しかし、久壽居は軍歴も浅く、何より若過ぎる。
宝生は優秀な将校を失い過ぎた。
押領司は不祥事を起こしたが優秀な指揮官だった。下級将校ばかりの中で唯一押領司だけは上級将校として指揮を執る力を持っていた。だが、押領司は不祥事の罰を与える為に戦線からは外さざるを得なかった。
そしてもう1人、下級将校の水主村も死んだ。孟秦の軍と対峙し、手の届くところまで行ったが乱戦の中戦死したのだという。
兵からの指揮官への昇格や、学園からの引き抜きなどで急遽対応したが、所詮は付け焼き刃の補充にしかならない。
今必要なのは、すぐに一軍を任せられる歴戦の将軍なのだ。
褒賞を受けた夜、今度は盛大な宴が催された。財政難だというのに何の遠慮もなく酒や料理がこれでもかという程出された。
こんな光景を見るとつくづくこの龍武という国が嫌になる。
この酒や料理は民の血税から賄っているに違いない。
機織園直々の誘いなので宝生も断る事は出来ず仕方なく出席した。
宴の場には朝廷の役人達が大勢集まった。
その中には皇帝機織園を守備する龍武帝国禁軍の元帥・宇津木橋と大将・朝倉、そして、儀仗兵の隊長・詩智の3人も出席していた。
実質、龍武の政治はこの3人が実権を握っていると言っても過言ではない。この龍武では軍隊が強い発言力を持つ。
勿論、帝都軍総司令官である宝生も政治には関与する力がある。しかし、龍武の政治を思い通りにしたい宇津木橋、朝倉、詩智の3人は宝生を樂庸府から離れた祇堂へ追いやり、蒼国との戦闘に釘付けにさせた。
権力で言えば、宝生の指揮権の及ぶ帝都軍は実際に外敵と戦う地方軍のみで、皇帝警備の近衛兵である禁軍と、全く戦闘能力を持たない礼式だけの儀仗兵の指揮権とは隔離されている。故に、政権は樂庸府に常駐出来るこの3人が握る事になる。
今回宝生を樂庸府に呼んだのは機織園本人であり、宇津木橋、朝倉、詩智の3人は宝生を樂庸府に呼びたくはなかった筈だ。
「いやいや、祇堂での宝生将軍のご活躍はこの樂庸府にも届いておりますぞ。蒼国の幹部の薄全曹と孟秦を打ち破るとは我々も鼻が高い」
宴の席で宝生の隣に座った宇津木橋が杯で酒を飲みながら言った。
「しかし、まだ蒼国を倒したわけではありません。すぐにでも祇堂へ帰還し、軍の整備を行いたいので明日にでも出立致します」
「私もその方が良いと思うのですが……陛下はまだゆっくりしていけと仰っておいでです。僅か1日の滞在で帰還されたのでは陛下の御機嫌を損ねます。せめて明日くらいはゆっくりされた方が良いでしょう。陛下には私からもそうお伝え致します」
「そうですな。分かりました。1日だけ帰還を見送りましょう」
宇津木橋の言う通り、機織園の機嫌を損ねることは軍隊の維持にも影響しかねない重大な問題である。機織園は帝都軍の司令官が誰であろうと構わない。故に宝生のことを良く思わなければすぐに交代させることも十分ありえる。それが龍武の軍事力を落とすことになるとしても機織園には関係のないことだと思っているのだ。
翌日、宝生は宇津木橋が統括している禁軍の調練を視察することになった。
宇津木橋は城壁の上に絢爛豪華な椅子を2脚用意し、一方を宝生に与えた。そしてそこへ座ると宇津木橋はふんぞり返るようにして禁軍大将の朝倉が指揮する調練を眺めた。
「調練は毎日このように行っております。如何せん、実戦が行われないので禁軍の兵士達は宝生将軍の兵に比べると明らかに緊張感が違いますがね」
宇津木橋の言う通り、調練には宝生の指揮する軍の兵達よりも緊張感はなかったが、それ以前に調練の内容も酷かった。これが皇帝を守護する軍隊なのかと思える程動きが緩慢である。
「1つ提案なのですがね、宇津木橋元帥。禁軍の一部を実戦がてら龍武国境警備に回してみてはいかがだろうか? この襲撃の恐れの少ない樂庸府に禁軍50万を置いておくだけではいざという時に兵が動きません」
宝生の提案を宇津木橋は鼻で笑った。
「それは良い案ですね、宝生将軍。しかし、それには及びません。ここが襲われる時はあなた方地方軍が敗れた時。私には宝生将軍の軍隊が蒼国に敗れるとは思えません」
「いや、しかし、万が一という事もあるでしょう。敵は蒼国だけではありません。我羅道邪の鼎国も龍武を狙っております。我々の軍は蒼国との戦闘で手一杯。先の戦で将軍や将校が死にました。私としては兵や指揮官の補充をして頂きたい気持ちもあります。兵を私にお預けいただければ必ずや強力な兵に鍛え上げて見せましょう」
「禁軍の指揮権は私にあります」
「ええ、ですからこうして案を出しているのです」
「宝生将軍、軍の遠征には金が掛かるのです。今龍武で無駄な金を使うべきではない。禁軍は禁軍。地方軍は地方軍。それで良いではありませんか。事実、今の今まで樂庸府から援軍が必要になる事態には至っておりません」
反論すべき事が多過ぎて宝生は何から話せばいいかと一瞬言葉に詰まった。
「宝生将軍がお帰りだ。誰かご案内しろ」
宇津木橋は兵を2人呼ぶと宝生を強制的にその場から連れ出させた。
「宇津木橋元帥、話は終わっておりません。今は問題なくとも、万が一という事がないとは言い切れません」
「ああ、そうだ。指揮官が欲しいと言ってましたな。それでしたら適任の男がいます。元々禁軍の候補指揮官でしたが、地方軍への転属を希望している武勇に優れた男がいましてね。その者をそちらにお付けしますよ。その男の手兵ならすぐに動かせますので一緒に連れて行かれるといい」
宇津木橋はそれだけ言うと宝生の左右に立っている兵に合図して背を向けてしまった。
そして宝生はそのまま兵に連れ出され、樂庸府に与えられた館までの馬車に乗せられた。
やはり宇津木橋に何を言っても無駄だ。樂庸府での権力では帝都軍総司令官の宝生という男は何の力もない事が証明されただけだ。
そして、やはりこの国は腐っていた。
樂庸府出発の早朝、宝生に与えられている樂庸府の舘に少女が現れた。
機織園の3女の篳篥である。
従者を2人だけ連れて人目を忍ぶかのようにやって来た。
「篳篥様、このような朝早くから一体どのようなご要件でありますか? 仰っていただければ私の方から出向いたというのに。とにかく、中へどうぞ」
宝生が館の中へ入るよう促すと、篳篥は右手を向けて止めた。
「いえ、宝生将軍。すぐに帰ります故、ここで結構でございます」
篳篥は丁寧な口調で言うと、後ろに立っていた従者から箱を受け取り宝生へ差し出した。
「祇堂でのご活躍、大変喜ばしい戦果を上げたとお聴き致しました。わたくしとしてもこの龍武をお守り頂く為に命懸けで戦って下さっているあなた方地方軍にはとても感謝すると共に誇りに思います。ささやかな気持ちですが、お受け取りください」
篳篥は高価な桐の箱を渡すとすぐに1歩下がった。
「篳篥様、わざわざその為に?」
「ええ、個人的な御礼です。樂庸府の皇族御用達のお茶です。宝生将軍はご自分でお茶を淹れる程の大のお茶好きとお伺いしました。樂庸府から祇堂までの道中にでもお楽しみくださいませ」
篳篥はニコリと微笑んだ。しかし、その笑顔にはどこか深い悲しみを感じた。
「篳篥様にそのようなお心遣いを頂けるとは、この宝生、光栄の極みでございます」
宝生が膝を突いて拱手するとすぐに篳篥はその手を握り、宝生を立たせた。
「拝礼は結構です。宝生将軍。どうかこの国をお救いくださいませ」
篳篥はそれだけ言うと、従者と共に宝生の舘を後にした。
宝生は篳篥が帰えるとすぐに支度を整え、1万の兵達と共に樂庸府を出発した。
結局、この国の腐敗を再確認しただけの樂庸府滞在だったが、1つだけ得たものがあった。
紫嶋という若い指揮官の男と5千の兵。
それは宝生の率いる1万の後ろにぴったり就いて来ている。
宝生はその紫嶋という男から、湧き出る闘志と共にどこか深い悲しみを感じていた。
****
鼎の西の国境に神髪瞬花という女が侵入したという情報が入った。
鼎国の幹部である杷弩暦普は斥候から情報を受けるとすぐに5千の自動小銃を装備させた部隊を西の国境地帯・亜務剡という地に派遣した。
我羅道邪からは神髪瞬花をただの女と思うなときつく言われていた。
実際、以前神髪瞬花が龍武の玉戴黄に現れた時に派遣した500人の部隊は隊長の摸硫普共々全員殺された。500人の銃で武装した男達がたった1人の女に、しかも、槍1本で壊滅させられた。その報せを聞いた時、すぐには理解出来なかった。それは人間の仕業ではないとさえ思えた。
だがその圧倒的な戦力だ。我羅道邪が神髪瞬花を欲しがる理由も分かる。故に今度は10倍の兵で疲弊させた後に捕らえよと命令が下った。
女1人に5千人掛りである。
確かに、神髪瞬花という女を捕えられれば鼎国は他国とは一線を画する。
「杷弩暦普様、神髪瞬花はまだ亜務剡から動いておりません。今が攻撃の好機かと」
亜務剡から2キロメートル程離れた小高い丘の上に陣を敷いていると杷弩暦普の幕舎に斥候の男が来て言った。
だが、杷弩暦普には引っ掛かることがあった。
斥候を送った人数と帰ってきた人数が全く合わないのだ。高々2キロメートル先の偵察に行かせているのだから全員帰って来るのが普通だ。しかし、10人送って帰って来たのは今の男を入れて2人だけだった。
敵は神髪瞬花1人の筈。まさか斥候も駆逐しているというのだろうか。
「俺は斥候を10人送った。しかし、帰還したのはお前を含めたったの2人。どういう事だ?」
「神髪瞬花は昨日から動いてはおりません。戦闘を行った形跡もありません」
「ならば、別の何かが潜んでいるのではないか? お前は神髪瞬花を監視しつつ、辺りに何がいるのか突き止めろ。送った斥候の死体もある筈だ」
杷弩暦普は斥候の男をまた走らせると幕舎に戻った。
神髪瞬花を狙っている者がいるとすれば、龍武か蒼国の連中だろう。しかし、大勢を潜ませている様子はない。だとすれば、数人の暗殺者を潜り込ませているのだろう。そうなればこちらの作戦が台無しになりかねない。
「桾凕」
杷弩暦普が呼ぶと男が1人幕舎の中に入って来た。
「敵は神髪瞬花だけではない可能性がある。まずはそいつらをお前に片付けて貰うことになりそうだ」
「そうですか。よく分かりませんが、俺は殺せと言われた奴を殺すだけ。所詮敵には武術しか出来ない連中しかいない。銃がある俺達の方が強い」
桾凕はニヤリと笑った。ちらりと見えた歯は煙草のヤニで真っ黒だった。
杷弩暦普はそれを見るのが嫌いだった。
「斥候が戻り次第向かってくれ。戻らなくても、向かってくれ」
杷弩暦普は桾凕に背を向けて言った。
「了解した」
振り向くともう桾凕は幕舎から姿を消していた。
****




