第52話~馬香蘭と青幻~
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──23年前──
龍武帝国の東、江陽の北に裴山荘という小さな村があった。
龍武帝国でも特に貧しい人々が住む貧困地域の1つで、馬香蘭は両親に祝福され産声を上げた。
馬香蘭の両親にとって初の娘の誕生はまさに幸福な事だった。
しかし、父と母が生きるだけでも精一杯の家計の中、馬香蘭の誕生は幸福ばかりをもたらした訳ではなかった。
共働きだった両親は馬香蘭が手の掛からなくなる歳になるまでは母が仕事を辞め育児をし、代わりに父が寝る間も惜しんで働いた。
勿論それで生活が良くなる筈はなく、馬香蘭が産まれる前より生活水準は低下、両親は見るからに痩せ細っていた。そんな両親を見るのが馬香蘭はとても辛かったが、父も母も優しくしてくれるので元気で明るい子に育っていった。
馬香蘭が7歳になったある日、村で最も貧しい家の子となってしまっていた。それが原因で村の歳の近い3人の子供達から虐められるようになった。石を投げられたり、髪を引っ張られたり、田んぼに突き落とされたり、両親の悪口を言われたり。自分に降り掛かる虐めはまだ我慢出来た。しかし、両親への悪口だけは許せなかった。以前から活発だった馬香蘭は相手が男だろうと恐れず立ち向かった。だが、3人の男の子達には女の子1人ではどう頑張っても勝てなかった。反抗したのが悪かった。その日から馬香蘭への虐めは悪化した。
悔しくて家に帰って毎日泣いた。その頃には母は元気がなく寝ている事が多く、あまり心配を掛けまいとこっそりと泣くようにしていた。父はほとんど家に帰らず、ずっと隣街の江陽で仕事をしていた。両親の前ではいつも笑顔で母に代わり家事をした。だから両親は馬香蘭が虐められている事など知るよしもなかった。
鏡の前で泣いている時だった。本来映るはずの自分の姿が鏡に映っていない事に気が付いたのは。
驚いて泣くのをやめるとすーっと鏡に自分の姿が映し出されていった。初めは意味が分からなかった。泣くと姿が消えてしまう。そんな事がある筈がない。すぐには受け入れられなかったが何度も虐められその度に鏡の前で泣くと身体が消えた。
ある時にはクシャミをした拍子に消えた。またある時には欠伸をした時にも消えた。
そして、虐められて悔しいという感情の後に憎いという感情が宿ってきた時も身体はすーっと消えていた。不思議な事に着ている服や、その時持っている物まで消えた。
この時、馬香蘭は思った。
──もしかしたら身体を消すタイミングをコントロール出来るのではないか──
馬香蘭はその時から家事の合間に密かに身体を消す練習をした。と言っても、消えろと念じたり、様々な感情を思い浮かべたりするくらいしか方法が分からなかったが自分なりに模索した。
外に出る度に虐めっ子に石を投げられたり両親の悪口を言われたがもう無視する事にした。今は逃げる。後で絶対殺すから。
そして、家事を熟し、虐めっ子から逃げ、消える為の方法を模索し続けて僅か2ヶ月。そこまで苦労する事なく、馬香蘭は自分の意思で身体を消せるようになった。なんの事はない。ただ本当に「消えろ」と念じるだけで消えるようになったのだ。
もう完全に寝たきりになってしまった母。月に1度僅かな生活費を渡してまた仕事へ行ってしまう痩せこけた父。そんな現状に幼い心に溜め込んでいた感情が『力』を手に入れた事により爆発した。
『まずは邪魔な物を片付けよう』
馬香蘭は姿を消し、虐めっ子共の楽しそうに遊ぶ村の広場へ向かった。白昼堂々と近付いた。周りには大人達も沢山いた。でも見えていない。誰も馬香蘭の存在に気付いていない。そう思うと、楽しいような、寂しいような複雑な気持ちになった。
とりあえずボールを蹴って遊ぶ男を背後から大きな石で思いっ切り頭を叩いてみた。すると簡単に頭が割れて血が吹き出して死んだ。
周りの虐めっ子共は突然の事に悲鳴を上げている。
スカッとしたので今度は、以前髪を引っ張って虐めてきた奴の髪の毛を突然毟ってやった。ピーピーうるさかったのでこいつも大きな石で頭を割った。やはり死んだ。
手に血がついたと思ったがそれすらも見えないようだった。
面白くなってきたので最後の1人は田んぼに突き落とした。そして、後頭部を掴み顔をを泥水に押さえ付けた。最初こそバタバタ暴れたがすぐに動かなくなって死んだ。
父と母を馬鹿にする奴は死ねばいい。
全員に復讐した馬香蘭は清々しい気持ちになっていた。これで明日からは虐められない。不快な思いをしなくて済む。
すぐに子供達が死んだ事は村中で騒ぎになったが、子供達が死んだ時の様子を見ていた村人達は「勝手に死んだ」としか言わなかった。それもその筈だ。3人の子供達が何に殺されたのか見えなかったのだから。勿論、馬香蘭が疑われる事もなく3人の死は呪いだと言われ始めた。その日から馬香蘭は身体を消し、村の食べ物や金を盗んだ。怪しまれないように毎日少しずつ盗んだ。
しかし、それでも貧しい生活は何故か変わらなかった。せっかく盗んで来た食べ物を母は食べず日に日に弱り、盗んだ金で村の医者に診てもらったがもう長くはないと言われた。知らない間に母は癌になっていたのだ。
馬香蘭は泣いた。肝心な時に金は役に立たない。もう少し早く身体を消す術を身に付けていれば母を助けられたかもしれない。
医者に診せてから数日後、布団の上の母は今にも消え入りそうな声で言った。
「蘭……ごめんね、こんな家に産んでしまって……お母さんもお父さんも……何もしてやれなかった……逆に苦労を掛けたね」
「何言ってるの? 謝る必要ないよ! 私は感謝してるんだよ? こんなに元気に可愛く育ったんだもん! ほら、おっぱいも少しずつ大きくなってきたの!」
最早うわ言のような母の言葉に馬香蘭は笑顔で答えた。母は微かに微笑んで微かに頷いた。
「蘭……お父さん……遅いね……もう直帰って来てもいい頃なのにね」
確かに月に1度の生活費を渡しに来てもいい頃合いだった。
「会いたいの? すぐ呼んでくるよ!」
母はまた微かに頷いた。
馬香蘭は悟っていた。もう母は死ぬ。だからその前に父に会わせてやりたい。
馬香蘭はすぐに走って江陽へ向かった。
だが、それが母との永遠の別れになった。
江陽どころか裴山荘から出た事もなかった馬香蘭はとりあえず村を飛び出し、森の道を闇雲に走って行った。
しばらく走ると、前方に2、30人はいるかと思われる集団が道を塞いでた。
「すみません、江陽へはこの道で合っていますか?」
男達の元で馬香蘭は立ち止まり丁寧に道を尋ねた。
「随分な餓鬼だな。1人で江陽へ? どうします? 羅傑堅様」
羅傑堅と呼ばれた男は馬香蘭を品定めするかのように頭から爪先までをジロジロと見た。
「まあ、どこにでもいるただの餓鬼だが、商品が多いに越した事はねえ。仕入れだ」
羅傑堅が部下に指示を出すと近くにいた男が馬香蘭の襟を掴んで持ち上げた。
「やめてください! 私、お母さんが病気で、今からお父さんを連れて来なきゃいけないんです!」
馬香蘭は暴れたが大人の男の力にはまるで歯が立たなかった。
「悪いな。そんな事言われても、こっちも仕事なんでな」
馬香蘭は江陽の近くで人攫いが多発しているという噂を聞いた事があった。こいつらはまさにその賊なのだろう。
暴れる馬香蘭の必死の訴えも聞き入れられず、男達の輪の中にあった小さな鉄製の檻に引きずられれていった。他に数人の生気を失った大人から子供が入れられていた。
逃げなければ……!
馬香蘭は自分を引きずる下っ端の男の手に噛み付いた。男が驚いて手を離した隙に馬香蘭は姿を消し、走った。
だが馬香蘭の身体に強烈な痛みが走った。いつの間にか地面に倒れて腹の痛みに悶絶していた。何故か消したはずの姿も元に戻っていた。
「何だこの餓鬼、消えたぞ!? お前達見たか!? あぶねー、あぶねー。俺様がこの餓鬼の動きをしっかり見てなかったら逃げられてたぜ」
羅傑堅が新種の生き物を見つけたかのように嬉しそうに地べたで悶絶する馬香蘭の所で腰を下ろした。
「噂に聞く『神技』って奴かもしれねー。おい! 鎖付きの首輪と手枷足枷も持って来い! この餓鬼を絶対逃がすな! いい道具になるぜこりゃあ」
痛みで意識が薄れる中、馬香蘭の首と両手両足に鉄の輪っかが付けられ、檻の中に入れられた。
そして、程なくして意識を失った。
それからというもの、男達に拉致された馬香蘭は、姿を消せる力を人攫いの為の資金調達に利用しようとしてきた。断わると容赦なく拷問され暗くて汚い狭い部屋に閉じ込められた。そして半日後にまた男達がやって来て、姿を消し金を盗んで来いと言ってくる。それでも馬香蘭は断り続けたが、拷問される事たったの3日。僅か7歳、幼い少女の体力も精神力もあっという間に尽きてしまい、男達に従うしかなくなった。
馬香蘭には江陽の役所や銀行、宝石店等から金品を盗んで来るという仕事が与えられ、1日の大半を占めた。仕事が終わるとあの恐ろしい部屋に閉じ込められる。
馬香蘭が盗みの途中で消えて逃げなかったのは逃げたら両親を殺すと羅傑堅に脅されていたからだ。羅傑堅が脅している内は両親は生きているという事だ。そう信じて毎日罪悪感に苛まれながら羅傑堅の為に働いた。帰宅の時間も決められていたのでこっそり江陽にいる筈の父を捜す事も出来なかった。
江陽の金をある程度盗むと次は隣街、その次はまたその隣街と、馬香蘭の仕事は終わる事はなかった。
そんな風に必死に働いていても、鉄の首輪だけは盗みの途中でも外してはもらえなかった。いつも監視されて拘束されている苦痛。逆らえば両親が殺され自分もあの暗くて汚い狭い部屋で拷問を受ける恐怖。
いつの日か馬香蘭は余計な事は何も考えなくなっていた。
そんな生活を2年ほど続けた頃の事だった。
その男は突然やって来た。
羅傑堅の人攫い集団の根城を青い髪の男率いる50人程度の盗賊団が襲撃したのだ。男達の阿鼻叫喚が聴こえる。
馬香蘭はいつものように忌々しい部屋に閉じ込められていたのでその騒ぎには巻き込まれなかった。見つからないように姿を消し膝を抱えて黙っていた。
男達の悲鳴が鎮まったかと思うとその部屋に青い髪の男が数人の部下と共にやって来た。
「誰もいませんね、青幻様」
部下の男は言ったが青幻と言う男は部屋の奥へと進んだ。そして、部屋の隅を見てニヤリと笑った。
「ここにいるじゃないですか。小さな少女が」
青幻は姿を消し膝を抱えて隠れていた馬香蘭の前で片膝を付き頭を撫でた。
「どうして見えるの?」
馬香蘭はゆっくりと姿を現した。
「見えますとも。私はその辺の雑魚とは違いますから」
青幻はニコリと微笑むと部下に何か指で指示を出した。
すると馬香蘭の足元に人の頭のようなものがゴロリと転がって来た。
その転がって来たものと目が合った。
羅傑堅の首だった。
馬香蘭は恐怖で声も出ずただ震えた。
「君の願いを叶えましょう。その代わりに君の力を貸して欲しい。共に作りましょう。こんな腐った国ではなく、新しい国を」
その青幻の誘いを馬香蘭は快諾した。他に羅傑堅に捕まっていた奴隷達も全員救世主である青幻に従った。
両親の死を知ったのは青幻に救出された翌日だった。青幻に「両親の安否が知りたい」と頼んだのだ。すぐに青幻は馬香蘭の両親の安否を部下に調べさせた。調べた部下の報告によれば、馬香蘭が羅傑堅に捕まった日の夜には母は娘と父の帰りを待ち続けながら息を引き取ったという。父に至っては母の死の10日前には過労で死んでいた。それを聞いた馬香蘭は思った。「それなら自分は何の為に2年間苦痛に耐えたのか?」
そして、決意した。こんな国は潰さなければならない。
それから14年もの間、馬香蘭は青幻に忠誠を誓い働き『姿を消す』という神技を使い功績を立てていった。
全ては青幻の為に、そして、この国を滅ぼす為に。
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