第36話~姉と呼びたい女~
翌朝。カンナが気持ち良くベッドで寝ていると燈の大声で叩き起された。
「な、何何!? いきなり!? ……おはよう……」
カンナは寝ぼけながら目を擦った。燈は幕舎の入口の布を片手で開けてこちらを覗き込んでいた。
「何だよお前こそそのめちゃくちゃ不機嫌そうな顔はよ」
いきなり大声で叩き起されたらそれは不機嫌な顔もするだろうと思いながらその不機嫌な顔のままカンナはベッドから起き上がった。
「……で、どうしたの?」
カンナはムスッとして燈の前に立った。
燈は何故かカンナの顔と胸を交互に見ながらカンナを叩き起した理由を説明した。
「どうしたの? じゃねーよ、このビッチが! 昨日船の時間説明しただろ? 聞いてなかったのかよ?」
「え!? もうそんな時間?? ごめん! すぐ準備するー……ってか、ビッチって何よ!?」
カンナはようやく脳が動き出し、状況を理解し燈の悪口にも気付いた。
「外歩く時は下着くらい着けて来いよ?」
燈はカンナの胸を指差して皮肉めいた事を言いながら走り去った。自分の胸を部屋にあった鏡で確認すると確かに下着を着けずにTシャツ1枚だけ着たカンナの形の良い程よい大きさの胸はしっかりと卑猥な主張をしていた。カンナは顔を赤くしながらそのTシャツを脱ぎ、急いで下着を着け出発の準備を始めた。
カンナが出発の準備を済ませ燈達が待つ本営の入口に響華を曳いてやって来た。
そこには既にカンナ以外の学園生徒全員と響音、そして八門衆の震と坤を含めて集まっていた。
「おせーんだよ! ビッチカンナ!」
燈の苛立っている叱責が飛ぶ。
「ごめんなさい。お待たせしちゃって……って、燈! ビッチって言うのやめてよ!!」
「カンナがビッチだってのは今に始まった事じゃねーから心配すんな!」
燈は楽しそうにケラケラと笑った。
「そーか、やっぱりカンナはビッチだったのね? そこら辺は月希とは似てないわね。月希は清純で胸もおっきかったから」
「もお〜! 響音さんまで! 勘弁してくださいよぉ〜」
「澄川さんをそれ以上困らせないでくださるかしら? わたくし、怒りますわよ?」
弄られるカンナを茉里だけは庇ってくれた。今度茉里とデートしてあげようかなと思った。
ふとカンナは1人見覚えのある男がいる事に気が付いた。
「え? 東堂さん!? どうしてここに??」
学園序列10位。槍特、東堂宏臣。この男が何故ここにいるのか見当がつかなかった。援軍にしては遅過ぎるしまた新たな任務でも言い渡されたのだろうか?
「おはようございます。澄川さん。俺はこれから久壽居さんの下で帝都軍指揮官の見習いとして修行する事になりました。なのでしばらく学園には戻りません。昔からの夢だったんです。帝都軍に入る事が」
確かに、東堂と言えば、2年前の学園戦争の際にその統率力を発揮し、槍特生を率い、全員生き残らせた男だ。
「東堂君は帝都軍にスカウトされたのよ。帝都軍にスカウトされるなんて学園では久壽居さん以来の事よ。頑張ってね」
奈南が微笑みながら東堂に賛辞を述べた。東堂は顔を赤くし頭を掻いている。
「じゃあ、しばらくつかさには会えないな。東堂さん」
「え? な、何で急につかささんの話に? 火箸さん?」
東堂は顔を赤くしたまま動揺して言った。
「あんたがつかさの事好きなんじゃないかって噂が槍特男子の間で話題になってたぞ? 今の反応見てあたしも確信したわ」
燈は頭の後ろで両腕を組んでニヤニヤとしていた。
「あいつら……勝手な事を言いふらしやがって……主犯は和流だろうな。今度会ったらぶっ殺す」
「にしても、つかさが好きとか物好きがいたもんだよな。あんな凶暴な怪力女のどこがいいんだか。胸がでかいだけじゃんか」
つかさの悪口を言う燈をカンナと東堂は同時に睨んだ。
燈はその殺気にビクッと身体を震わせた。
「燈さん、同時に2人を敵に回したわね」
奈南が微笑みながら言った。
そうやって久しぶりの平和な時間に戯れていると、宝生と久壽居がやって来た。
「出発するか、お前達」
「ええ、短い間でしたが、お世話になりました。宝生将軍」
奈南が頭を下げたのでカンナ、茉里、燈もそれに倣った。
「世話になったのはこちらの方だ。お前達がいなければ戦は長引いていただろう。……それと1つ、お前達の耳に入れておかねばならぬ事がある」
「何でしょうか?」
奈南が小首をかしげ訊ねた。
「今朝、東堂が来るより前に八門衆の乾という男が来てな、我羅道邪が動き出したと報告していった」
我羅道邪という名前にカンナは頭に血が昇るのを感じたが拳を握り締め抑えた。
「先日、玉黄戴という遺跡で学園の生徒達と八門衆が神髪瞬花の捕縛任務を遂行していたところ、我羅道邪の兵達が現れたらしい。奴らの狙いもどうやら神髪瞬花だそうだ」
「え!? その任務って……斑鳩さん達の任務じゃ……!? 斑鳩さんは無事なんですか!?」
カンナは青ざめて宝生に訊ねた。
「学園側に死傷者は出ていない。学園の生徒達には帰還命令が出た。神髪瞬花の追跡と我羅道邪の監視は八門衆が行う事になったそうだ」
八門衆の震と坤は無言で頷いた。
「……無事……なのか……良かった」
カンナはホッと胸を撫で下ろした。
「重要なのは我羅道邪が何故神髪瞬花を捕らえようと動いたのかだ」
宝生は問題点を明確に示した。確かに我羅道邪と神髪瞬花に何の関係性も見い出せない。
「我羅道邪は更なる勢力拡大を目論んでいる。神髪瞬花を味方につければ1万の軍隊を手に入れたも同義だからな」
久壽居が神妙な面持ちで言った。鼻の辺りにはまだ包帯が巻かれている。
「そんな!? たった1人の人間が1万の兵力に匹敵するってのかよ!? あの割天風総帥でも1万人は相手に出来ないって言ってたのに……冗談だろ? ものの例えだよな!? ……なあ!?」
燈は動揺して久壽居に追求した。
しかし、久壽居の目は真剣なまま燈を見た。
「冗談ではない。奴は化け物だ。奴は割天風先生でも止められない程の力を付けたと聞く。故に長い間2人の医師を就けて薬で力を抑え、槍特の特別寮に監禁していたのだ」
神髪瞬花と対峙したことがあるカンナにはその意味が分かった。2年前、神髪瞬花が学園内に解き放たれた時、あの女は楽しむ為だけに戦闘をしていた。戦闘の邪魔をする者は容赦なく殺し、カンナの潜在能力を引き出そうと遊びながらカンナをいたぶっていた。あの女の氣は尋常ではなく、こちらが氣の感知能力を弱めなければまともに向かい会うことも出来ない程だった。そう、カンナは遊び半分のあの女に手も足も出なかった。
カンナはその時の事を思い出し鳥肌が立つのを感じ腕を抱えた。
「ただ、我羅道邪如きに神髪瞬花が扱えるとは思えん。ましてや捕まえる事さえ出来ん。下手に手を出せば破滅を招くからな」
「でも、学園はその神髪さんを捕まえようと斑鳩さん達を派遣したんですよね? 学園の力なら神髪さんを捕まえる事も制御する事も出来るって事なんですか?」
宝生の話をカンナはさらに追求した。
「どうだろうな。元々神髪瞬花を制御していたのは学園だ。奴に対する秘策があるのかもしれんが俺は知らん。詳しくは重黒木にでも聞くといい」
煮え切らない宝生の返答にカンナは小さく唸った。
「話は以上だ。気を付けて帰りなさい」
宝生が言うと八門衆の震と坤はすぐに馬に飛び乗った。
「では我々は一足先に帰還します。お前達、寄り道せずにまっすぐ学園に帰るのだぞ」
震と坤のどちらが喋ったのか良く分からなかったが2人は颯爽と馬首を返し駆け去っていった。
「では、俺も南橙徳へ行くとするか。行くぞ、東堂」
「はい! 久壽居将軍! 宜しくお願いします!」
久壽居は東堂と共にまた本営の中に戻って行った。
カンナは響音の顔を見た。
「どうしたの? そんな子犬のような目であたしを見て」
「いや、その、やっぱりここでお別れ……なんですよね?」
「そうね。あたしにはこっちでやる事があるからね。元気でね。カンナ、奈南さん、茉里。ついでに燈も」
響音は1人ずつ目線をやり、最後に燈の方を見て八重歯を見せてウインクした。
「おうおう、多綺、あたし以外の奴に殺されんじゃねーぞ? お前を殺すのはあたしだからな?」
「響音さん、少しでしたがあなたと話せて楽しかったです。懐かしい気持ちになりました。響音さんこそ、お元気で」
奈南が微笑むと響音は目をうるっとさせた。
「響音さん、黄龍心機、取り戻したらまた会いましょうね? 約束ですよ?」
カンナがまた子犬のような目で言うと響音は溜息をつきカンナの目の前に近付いた。そして、背の高い響音はカンナに目線を合わせるように膝を少し折った。
響音の顔がカンナの目の前にあった。
「また妹が出来ちゃったわね。これじゃあうっかり死ねないわ」
響音はニッコリと微笑むとカンナの額を人差し指で小突いた。
カンナは頬を朱に染め響音の優しさに陶酔した。
「響音さん、お元気で」
茉里も微笑み頭を下げた。
「ええ、またね」
そう答えると、響音は一陣の風と共にその場から姿を消した。
素敵過ぎる。かつてカンナが響音に虐められていたなんて思えない。本当に榊樹月希と澄川カンナが似ているのなら、多綺響音という女に惹かれるのも必然なのかもしれない。
「では、俺も本営を畳む準備を始める。……もう一度訊くが四百苅、軍に入る気は」
「そのお話なら何度もお断りさせて頂いたはずです」
「そうか、分かった。ではお前達、達者でな」
宝生は踵を返し1人本営に歩いて行った。その後ろ姿にカンナ達は礼を言い頭を下げた。
宝生は振り向かずにただ右手を上げてそれに答えた。
「奈南さん、軍に勧誘されてたんですか? 就職先決定じゃないですか?? 何で断るんですか?」
燈は信じられないと言わんばかりに騒ぎ始めた。
「私は人を指揮するなんて向かないわ。自分の身は自分で守る。それだけよ。それに、そろそろ結婚して家庭を持ちたいし」
「え!? 相手がいるんですか!?」
「いないわ」
「お、おう……なんか、すみません」
「謝られると、逆に傷付くんだけど」
燈と奈南のやり取りを見てカンナと茉里は苦笑した。
すると本営の方から男が1人馬で駆けて来た。
「皆さん! 見送りが遅くなりすみませんでした。本営撤収の作業をなかなか抜けられなくて」
やって来たのは女の子の様な可愛い顔で長めの髪を振り乱した梵だった。
「そ、梵将校! い、いいのかよ? 仕事サボって」
真っ先に興奮した燈が梵の元へ寄って行った。
カンナも茉里も奈南もクスクスと笑った。
「田噛に任せて来た。あいつ、兵糧庫襲撃任務の戦果で部隊長に昇格したんだ。だから張り切ってたよ……それでさ、火箸さんに話があるんだけど」
「お、な、何だ?」
燈は顔を真っ赤にして何故かファイティングポーズを取っている。
「来年の春、蔭定村の母の所へ様子を見に帰ろうと思うんだけど、良かったらその時一緒に桜でも見ない……かな、と思って」
梵は話の最後の方で燈から目を逸らした。カンナはその様子を見て何故か両手を身体の前でグッと握り締めていた。茉里と奈南は両手を口に添えて成り行きを見守っている。
「あ、ま、まぁいいぜ? お前があたしと桜を見たいってんなら付き合ってやってもいいかな? うん」
燈があからさまに動揺している。今度燈に弄られたらこれをネタにしてやろうと密かにカンナはニヤリと笑った。
「良かった。女の子を誘うのは初めてだから緊張した。それじゃあ皆さん、今回はありがとうございました! お元気で!」
梵は少し赤面していたがそれを隠すようにすぐに反転してまた本営の方へ駆けて行った。
「田噛さんに宜しくお伝えくださーい!」
カンナが梵の後ろ姿に叫ぶと梵は親指を立てて答えた。その姿もやがて見えなくなった。
「それじゃあ私達も帰りましょうか」
カンナが言うと3人は馬に飛び乗り帰りの船の待つ鄭程港へ向かった。
半年間の任務の筈だったが実際はたったの3日で帰還出来た。しかし、そのたった3日で実に様々な事が起こった。辛い事ばかりだったが、全て響音がカンナの心を癒し助けてくれた。
また会えるだろうか。そんな事を考えていたが、道中燈のテンションが異様に高かったお陰で笑いを堪えずにはいられなかった。
蒼幻の章〜完〜




