将軍は落ち込んでいる
「あの、離してくれませんか?」
「それはできない」
ヘンデスとダグラス様が捕縛され、私たちは無事に邸へ戻ってきた。
メルージェのことはアルノーに任せ、ユンさんが2人の護衛を頼まれてくれたので安心だ。
ところが邸で軽い夕食をとった後、アレンが私を抱きかかえてまったく離さなくなってしまったのだ。
私の部屋に二人きり。なぜか彼に背後から抱き締められる形で座っている。
一体どうしてこんなことになったのか。
私の肩に顔を埋めたアレンは、絶対に離さないという雰囲気を醸し出している。
夜遅くに、近衛から聞き取りのために訪問があるようなことをルードさんから聞いているのに、まさかそれまでずっとこうしているつもり?
私は、もう何度目かわからないお願いを口にする。
「アレン?私は逃げませんから、せめてそちらの椅子に座らせてくれませんか?」
「嫌だ」
さっきからそればかり。
私は困ってしまって、抵抗する気もなくなってきた。
「一体、どうしたのですか?」
どこにも行かないと、逃げないと言っているのにどうして離してくれないのか。
使用人も助けてはくれないし、私はお手上げだった。
しばらく黙っていると、アレンがぼそっと呟く。
「あんなところを見せてしまって、幻滅していないか」
「あんなところ?メルージェを人質に取っていたことですか?」
「…………」
どうやら正解らしい。
確かにものすごくびっくりしたけれど、幻滅するなんてことはあり得なくて、アレンがそんな風に思っていることにびっくりした。
「幻滅なんてしていませんよ?驚きましたが、ダグラス様が離婚届を書かなければメルージェは退職せざるを得なかったわけで、しかも国外追放なんて……。やり方はどうあれ、結果的にはアレンに助けられたとわかっていますよ?」
私一人の力では、どうにもならなかった。相談にのるといっても、私には何の力もない。
もっと方法があったのでは……なんて言うのは簡単だけれど、実際に動くとなると時間は限られていたわけで、私にどうこうできる問題ではなかった。
アレンがいてくれたから、私は親友を失わずに済んだのだ。
「またアレンに助けてもらいました。ありがとうございます」
「また?」
お腹に回された大きな手。それに自分の手を重ねると、くるりと手を返されて逆に握りこまれる。
カサついた、皮の硬い手の感触になぜだか安心した。
「私が誘拐されたときも、アレンは助けに来てくれました。あのときはお礼も言えなくて」
離婚申立書のことがあったから、お礼を言うのを忘れていた。
「ありがとうございます」
心から感謝している。それは本当。
なのに、アレンは悲しそうに嘆く。
「俺が将軍でいる限り、ソアリスを危険な目に遭わせてしまう。もしソアリスに何かあったらと思うと、気が狂いそうだ」
どうやら責任を感じているらしい。
私は慰める言葉が思い浮かばず、しばらく黙って目を閉じていた。
自分のせいで、私が危険な目に遭うと心を痛めているアレンに対して、何が言えるだろう。
私は自衛力がないので、アレンに助けてもらわないと身を守れない。
だから「絶対に大丈夫です」なんて言えないんだけれど、でも今回は私に直接の危険はなかった。
今日のことで、アレンが責任を感じる必要はどこにもない。
「将軍の妻という肩書が、ソアリスに負担をかけているのはわかっている。それなのに、俺は世間で称えられているような立派な騎士でもなければ、清廉潔白な男でもない。ソアリスにあんなところを見せたくなかった。君の前では、なるべく自分の汚いところは隠したかった」
落ち込んでいる理由は、どうやら色々あるらしい。
私は少しだけ身体をねじると、アレンの顔を覗き込んで言った。
「世間の人がアレンに理想を抱いているのは知っていますが、人は皆、表と裏があるものですよね?私だって、世間の評判とは随分違いますし……それこそ、笑っちゃうほど違います。でもどれほど噂と違おうと、アレンは私にとっては誰より素敵な騎士です。私のことを守ろうとしてくれますから。私の安全だけでなく、大事な友人まで守ってくれました」
これ以上、何を望むと言うのか。
借金まみれの没落貴族を経験したら、世の中には汚いことが溢れていることも実感した。父の商会の経営が傾いたとき、少ない財産を奪おうとしてきた親族の顔は未だに忘れられない。
笑顔であんなに汚いことができるんだと、子どもの私は大きなショックを受けた。
きっと誰しも人に言えないことの1つや2つはある。それはもちろん、アレンにも、私にも。
だとしても、アレンの誠実な部分やまっすぐに愛情を注いでくれるところが消えてなくなってしまうわけじゃない。
「私はこの通り元気です。アレンが守ってくれたので、平気です」
気休めにもならない言葉だけれど、私は幻滅したりしない。嫌いになったりしない。それだけはわかってもらいたかった。
「ずっと、そばにいますよ。大丈夫です。どんなあなたを見たとしても、私の気持ちは変わりません」
「ソアリス……」
笑って見せると、アレンもかすかに微笑んでくれた。
ここで私は、好奇心から聞いてみる。
「メルージェが倉庫に来なければ、アレンは一体どうやってダグラス様に離婚届を書かせるつもりだったのですか?」
「…………」
ん?
まるで眠っているのかと疑ってしまうほど、アレンが微動だにしなくなった。
「寒くないか?」
しかも話を逸らされた。
寒いはずがない。こんなにもアレンがしっかり抱き締めているのに。
「アレン、話してくれないのですか?」
しばしの沈黙の後、彼は言った。
「すべてを話すのと、内容を比較的優しく改変したものとどっちがいい?」
「すべてを話して欲しいです」
「改変した方にしよう」
アレンは咳払いをして、会話を仕切り直した。
「メルージェが現れなければ、ルードと2人で倉庫に乗り込み、ヘンデスを痛めつけることでダグラスを脅し、離婚届を書かせるつもりだった。指の2、3本折ればおとなしくサインするだろうとルードが……」
これで優しく改変した話なの?
私は目を瞬かせる。
「後始末は、2人が仲間割れをして争ったように偽装して、双方とも国外へ追い出すつもりだった。牢に入れた後、暗殺者を送り込み、わざと失敗させて自主的に国を出て行かざるを得ない状況にするまで準備していた」
「!?」
「早期解決にはこれが一番だと思って……。ヘンデス侯爵家も、リヴィトのことは廃嫡すると早々に切り捨てたことで、誰にも遠慮する必要がなかったから」
想像していた以上に、アレンたちはあれこれ画策し動いていた。
聞きたいと言ったのは私だけれど、自分が生きていた世界とはすべてが違いすぎて言葉を失ってしまう。
「ソアリスが誇れるような夫になりたいと言っておきながら、ヘンデスに卑怯者だと罵られたことを完全には否定できない。そして俺は、自らの意志で手を汚している。こんな俺を知られたくはなかった」
少しアレンの腕の力が緩んだことで、私は身体をずらして彼の顔が見えるように座り直す。
蒼い瞳は不安げに私を見つめていた。
仕方のない人だな、と思う。
そして、そんな人を好きになってしまった自分もまた、仕方のない女だと思った。
「そんな顔しないでください。アレンは以前、自分のことを聖人ではないと言いましたが、私だってそんなに清らかな人間じゃありません。他の人ならば許せないことでも、あなたが私のためにしてくれたことなら咎めることも嫌うこともできないんです」
苦笑いでそう言うと、アレンは少し驚いた顔になる。
「でも、あまり危ないことはしないでくださいね。最初は一人で乗り込むつもりだったんでしょう?ユンさんから聞きました」
いくら強いといっても、何があるかわからない。
無茶だけはしないで欲しい。本当にそう思う。
「それに私にすべて話してくれとは言いませんから、ルードさんたちにはきちんと話してくださいね」
「わかった。なるべくそうする」
なるべくって……。
私はつい拗ねたような顔をしてしまった。
「本当にわかっていますか?信用していないわけではないですが、私だってアレンが心配なんですよ?」
けれど、アレンはなぜか静かに笑い出した。お小言っぽかったかしら?
私の方こそあまりうるさく言って嫌われたら困る、と思ってしまって口をつぐめば、すぐに唇が触れ合う。
「……聞いてます?」
「聞いている」
うん、聞いているけれど、聞き入れる気はありませんね!?
何度も唇が重なり、次第にそれは深くなっていく。
「あの」
逃げようとすると、しっかり腕を回されて捕まえられた。
こんな風に強引にされると、ドキドキしすぎて意識が飛びそうになる。
本当なら、もうすぐそれぞれの部屋に戻って就寝する時間だ。でも「もう少しだけ」と思う気持ちは、きっとお互い同じなんだろう。
頬や目元、首筋にもキスをされ、思わず吐息が漏れる。
「ソアリス」
「はい」
「今日は一緒にいてもいいか?」
見つめられると、心臓がまたドキンと大きく跳ねた。
「一緒にって、えっと、それは……?」
背中や腰を撫でる手つきが妙に艶っぽい。
え、これはまさかそういうことですか……!?
自分の心音を一層激しく感じ、アレンの目を見つめるだけで何も言えなくなってしまった。
彼はずっと私の返事を待っていて、けれど嫌とは言わせない強引さも伝わってくる。
私はぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと頷いた――――――
が、ここで扉をノックする音が突然聞こえてきた。
――コンコン。
ビクッと全身を跳ねさせた私は、思わずアレンの胸に縋りつく。
「は、はい……!」
しまった。
反射的に返事をしてしまった。もう眠っていることにして、黙ってやり過ごすこともできるはずなのに……!
いやいや、でも用事があるからこそこうして誰かが呼びに来たわけだし、寝たふりはよくない。
きっと今、私は耳まで真っ赤になっているだろう。顔が熱い。全身が熱い。
恥ずかしすぎて顔が上げられない。
「誰だ。何かあったのか?」
代わりにアレンが用件を尋ねてくれた。
「ヘルトでございます。城から遣いの者がやってきて、アレン様に事件のことで詳細を伺いたいと申しております」
「「…………」」
そういえば、そんなことを言われていた。
すっかり忘れていた!
アレンは苛立ちを露わにして、扉を睨みつける。
「邪魔だな。もういっそ、近衛に一服盛って眠らせるか」
「ダメですよ!?何を言っているんですか!」
「どんな俺でも一緒にいてくれるんだろう?」
「切り替えが早いっ!さっきまで落ち込んでいたアレンはどこへ行ったんです!?」
「さぁ?」
「さぁ!?」
正当防衛でもない犯罪はダメ。何の罪もない、ただ仕事で聞き取りに来た近衛に薬を盛るのは絶対にダメ。
慌てる私。
アレンは大きなため息を吐いた。
「今日は諦める。ソアリスは疲れただろう?ゆっくり休んでくれ」
お腹に回されていた逞しい腕が、するりと解ける。
私は慌てて立ち上がり、部屋を出ようとしたアレンに問いかけた。
「あの、私も聴取に同席した方がいいでしょうか?」
しかし彼は、静かに首を振った。
「明日以降でいい。今日のことは、あらかじめ説明していたから。近衛には俺から説明しておく」
「はい……」
廊下まで見送ると、アレンはそっと私の額にキスを落とした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
将軍モードに切り替えた彼は、ヘルトさんと共に応接室へと向かった。
一人残された私は、さっきのことを思い出して居たたまれなくなる。
崩れ落ちるように床にしゃがみこんだ私は、両手で顔を覆い、しばし羞恥心と格闘する。
私、あのままアレンと一緒にいたら……!今頃になって、心臓がドキドキと早鐘のように打つ。
「ううっ……!」
夫婦なんだから、何もおかしくない。
当たり前のことよ。
そう、何もおかしくないし困ることもないし、普通の結婚生活なら当然そういうことになるわけよね……!
それに、アレンが望んでいるんだから妻としてはそれに応えないと……!
同じことがぐるぐる頭の中を巡る。
そして考えに考えた挙句、私は一つの結論に達した。
「忘れましょう!」
考えるからいけないんだわ。
何事も、強い気持ちで、来るべきときにそのまま流されればいい……はず。
今度そうなったときは、怖がらずにすべてを受け入れると決めておけば大丈夫なはず。多分。そう、多分、何とかなると思いたい。
「そうだ、昇格試験の勉強をしないと」
それがいい!
そうするしかない!
この日、私は真夜中まで机に向かっていた。




