人の心はわからない
西の空に、薄紫色に染まる雲が漂う。
潮の香りがする倉庫街は侘しさを感じさせる静けさで、人の姿はない。
そんな場所で、黒い隊服の騎士らがある一棟の出入り口を見張っていた。
薄汚れた茶褐色の木造倉庫は二階建て。つい数ヶ月前まで酒樽が所狭しと保管されていたが、現在はすっかり空っぽだ。
倉庫の中には、2人の騎士と4人の下働きの男が集まっていると情報がもたらされた。
「バカはバカらしく、短慮でいてくれたらよいのですが」
物陰に身を潜め、監視を続けるルードが呟く。すぐそばに立つアレンディオは、その言葉に苦笑した。
「メルージェが来ないとなると、ヘンデスは怒り狂ってすぐ飛び出してくるんじゃないか?」
「そうですね。ヘンデスのようなプライドの高い男は、自分の計画が崩れても『じゃあ仕切り直しを』なんて臨機応変なことはできません。なんとか己の計画通りに事を戻そうと、後先考えずに無茶をするでしょう。そうなると、こちらとしてもありがたいのですが」
悪いことをするには、単独で。
そう言い張って単身乗り込もうとしたアレンディオについて来たルードは、もはや捕縛されるしか道の残されていないリヴィト・ヘンデスのいる倉庫へ憐みの目を向ける。
「目の付け所は良かったんですけれどね~。ダグラスの不祥事をもみ消してやる代わりに、彼の妻にソアリス様を連れて来させるっていうのは。これが将軍の妻ではなく、単なる上官の妻なら成功していたでしょう」
ダグラスは近衛に転属し、そこで事務方の女性と不倫関係になっていた。
相手は未婚で、ダグラスは彼女と割り切った関係を楽しんでいるつもりだった。
が、手を出した相手が悪かった。
相手の女も複数の騎士を手玉に取っていて、未婚のまま子を身篭ったのだ。
「父親が誰かなんてわからないのに、ダグラスは自分の子と思い込んだなんて……愚かですね。事務官の女の方は、ダグラスよりも高官狙いだったみたいですが」
おそろしい、と遠い目になるルード。
アレンディオはため息をつく。
「事務官の教育は俺の仕事じゃない。が、騎士はこちらの管轄だ。戦が終わり、全体的にたるんでいるのでは?全員を鍛え直すか」
「はい。そのように進めておきます」
ルードはこの先、騎士団に響くであろう悲鳴や怒号を想像し苦笑いになる。
「ヘンデスは、除籍に加え国外追放ですかね。さすがに首を刎ねるわけにはいきませんから、それだけはご理解を」
アレンディオは不満げに眉根を寄せる。
「ダグラスの不祥事を家の力で揉み消す代わりに、ソアリスを拐って俺に辞職を要求しようなど何万回切り刻んでも許しがたい」
すでにその目は殺気を放っていて、今彼が現れれば斬りかかりそうな雰囲気であった。
「アレン様の急所は、わかりやすく奥様ですからね。むしろそれしかありませんから。しかし要人の家族を人質にとって辞職を要求するなんて、随分古めかしい手法を選びましたね。愚かにもほどがあります」
かつては、そのような事件が頻繁にあった。だが、成功率が著しく低いためすでに廃れた犯罪である。
ただ、ヘンデスは知らない。
辞職騒ぎは、もう数ヶ月前に将軍本人がやらかしていることを。
「ネタ被せはやめて欲しいです」
「おい」
人の辞職願いをネタ呼ばわりするな、とアレンディオはルードを睨む。
「辞めたがっている人に辞職を要求するなんて、前代未聞です。辞められるものなら辞めてますよね~」
救国の英雄は、これから復興政策を推し進めるにあたり、国にとってなくてはならない「看板」であり「防波堤」である。
国民が英雄の存在に感謝し、希望を抱いている今なら、政治的な不満をある程度抑え込めるからだ。
アレンディオもそれがわかっているから、しばらくは将軍でいることにした。
愛する妻と暮らす国が荒れるのは、彼の望みではない。
「それはともかく、ダグラスがあちら側に取り込まれたのは予想外だったな。ダグラスに監視させることも考慮してヘンデスの左遷先を選んだが、まさか女関係で足元を掬われるとは」
すべては、ダグラスの危機管理能力のなさが招いたこと。
女性関係で職場を乱したとなれば、さすがに免職の可能性がある。
近衛の事務官は全員が貴族であり、身篭ったことが露見すれば、実家の縁戚や寄親である高位貴族が出てくる可能性すらあった。
食堂の女性を騙すのとは訳が違うのだ。
もっとも、事務官が複数の騎士や文官と関係があったことを知る者にとっては、ダグラスのことが公になったところで大した事件ではない。
ところが、ダグラスは彼女の子が自分の子であると思い込んでいるため、ヘンデスの口車に乗り、侯爵家の力に縋ってでも内々に事を収めようとした。
(脅された時点でアレン様に助力を乞えばよかったのに)
ルードは呆れていた。
「皮肉ですよね。男爵のダグラスからすれば近衛補佐の末端は栄転で、家柄だけは立派なヘンデスにとっては左遷だなんて。まともに戦えばそこそこ使える騎士でしたのに、惜しい2人を亡くしました」
「まだ殺ってないぞ」
冥福を祈りだすルード。もうすでに亡くなった者として扱う気らしい。
「殺すと何かと影響が出ると言ったのはおまえだろう」
「おや、そうでしたね。でもユンさんが大変ご立腹でして。奥様を誘拐してアレン様に辞任を要求するばかりか、ゴロツキに手に入れさせた薬で奥様を薬漬けにしようなど、騎士として以前に人間として許されません」
ギリッと歯を食いしばるアレンディオは、冷静さを失わないようどうにか己を押さえつける。
「……俺が憎いのなら直接剣を向ければいい。ソアリスを巻き込むなど、楽には死なせない」
「悪夢でうなされるくらいには恐怖を与えたいですね~。まぁ、近衛からも見放されて、もう死んだも同然です。侯爵家からも『弟が家を継ぐので、リヴィトは我が家と一切関わりのない者とします』とそれはそれは温かいお言葉をもらいましたしね」
「温かいか?」
「ええ、こちらにとっては」
つまり、彼がどうなろうと侯爵家は出てこない。何をしてもいいということになる。
根回しは完了していた。
ヘンデスは縁故採用とはいえ、近衛騎士として家の期待に応えるには十分な力量がある。性格に難はあれど、アレンディオにさえ牙をむかなければ、このまま侯爵家を継いで上等な人生を歩んで行けただろう。
「愚かだな」
アレンディオは呟く。
しかしもう、互いに後戻りはできない。
こちらは、リヴィト・ヘンデスが自滅するのを待つだけーーーー
と思っていたが、倉庫街に現れた人影を見つけ、アレンディオは顔を顰める。
「メルージェ?」
彼女は、夫からの呼び出しには応じないと考えていた。ソアリスを売るような人間ではないと知っていたからだ。それがなぜか、一人でこんなところへやってきている。
「浮気を重ねた夫なんて、どうなろうと知ったこっちゃないだろうと思っていましたけれど、どうやらそうではなかったみたいですね」
ルードは己の見当違いを悟る。
「あんな男でも、惚れて一緒になった相手ということか……。自分が行かなければ、夫がヘンデスに斬られると思ったのかも知れないな」
「だとしても、ヘンデスの望んだソアリス様がいないのに無謀すぎません?」
ジャックスは、ソアリスを留め置くのに成功したのだろう。今ごろソアリスは何も知らずに安全なところにいるはずだと、二人はそう思っていた。
「わからないものですね、夫婦の情って」
「俺たちが普通の人間の情を知らないだけでは?」
「そうかも知れませんね」
メルージェをこのままヘンデスとダグラスのもとへ行かせるわけにはいかない。
妻の親友を見捨てるわけにはいかない、アレンディオはそう思った。
「行くぞ」
「よろしいので?悪いことは少人数で、とおっしゃっていましたが」
付き従うルードに向かい、アレンディオはニヤリと笑って言った。
「どうせなら、ヘンデスの希望を叶えてやりたい。とことん汚い手を使う男になってやろう」
アカデミーの入学試験で、不正をした。その言いがかりをつけられたことに対しては、何も腹を立てていない。
どうでもいい。アレンディオはそういう男だ。
だが、妻にそんな嘘を告げ、トラブルに巻き込んだことは許せなかった。
「ここにソアリスがいなくてよかった」
「本当に」
アレンディオは、まだ知らない。
妻がこちらへ向かっていることを。




