慣れないことはやらない方がいい
御前試合翌日。
アレンは朝から私を甘やかすだけ甘やかすと、いつものように二人で登城し、それぞれの職場に向かった。
今のところ何の異変もなく、私は着慣れた制服に袖を通す。
ところが、金庫番の業務室の扉を開けると目の前に信じられない光景が――
「アルノー、その顔どうしたの?」
私の斜め前の席に座っているアルノーは、左の頬が赤く腫れていた。治りかけてはいるようだけれど、虫刺されやかぶれでは絶対にない。
「あぁ、ソアリス、おはよう~」
「おはよう」
気の抜けた声はいつものアルノーだ。私が顔を顰めて頬を凝視していると、彼は苦笑いで言った。
「ちょっとダグラスと」
「ダグラス様と!?喧嘩したの?」
昨日、ユンさんはアルノーに連絡を取り、メルージェたちの仲介人として呼んだという。
しかし、ユンさんが私のもとへ戻り、アルノーがダグラス様から事情を聞くうちに逆切れされ、そして言い争いの結果二人は殴り合いに発展してしまったのだとか。
メルージェは、荷物を寮へ戻す作業があるので今日はお休みしていた。
「何やっているのよ……。最弱だって自分で言っていたくせに」
近衛に異動するほどの騎士と殴り合いだなんて、無謀にもほどがある。
アルノーは持っていた書類を置くと、遠い目をして薄ら笑いを浮かべていた。
「慣れないことはやるもんじゃないね。何事もノリと勢いでは解決できないと知ったよ」
「ノリと勢いって、アルノーが一番向いていない行き当たりばったりじゃないの。アルノーはもっとこう、緻密に戦略を練ってどす黒いことをする頭脳戦の方が向いているわ」
「ソアリス、人はときに自分でも理解できない行動をとるものなんだよ」
共感できるけれど、それでもやはり騎士と殴り合いはダメだ。
「で、なんでアルノーが殴られてるのよ」
「先に掴みかかったのは俺だから」
返り討ちにされていた。
何ともコメントしにくいわ。
まだ誰も同僚が来ていないから、私たちはトーンを落としつつも私的な話を続けた。
「ダグラスのヤツ、食堂の女の子だけじゃなかったらしい」
「えっ」
「あいつ、もともと軽いところはあったんだけれど、メルージェに本気になってからは浮気したことなんてなかったんだよね。それなのに、『戦に行って大変な思いしてきたんだから浮気くらいしても許せよ』とか最後には言い出してさ。そんな理屈が通るなら、メルージェだってつらい思いをして待ってたんだから浮気してもいいってなるよね?でも妻の浮気は認めないって。支離滅裂もいいところだよ」
メルージェはすっかり抜け殻のようになってしまい、二人で暮らす家に住むのは無理だと言って寮に戻ったそうだ。
「挙句は、『どうせおまえもメルージェのことを狙ってたんだろう、臆病者が』ってこっちにまで暴言吐いてきやがって」
アルノーが不快感を滲ませつつ言った。
「昔は仲よくつるんでたけれど、出世して変わったんだよな……。ダグラスのやつ。過剰に自信がついたせいで、メルージェのことを思いやれなくなってるんだよ」
出世をきっかけに傲慢になるという話は、特に成り上がりの騎士や文官によくあることだ。女性が7割を占める王女宮の文官や使用人たちからは、食堂や休憩場所でそんな話をたくさん聞く。
本来そういう性格だったのか途中で変わったのかはわからないけれど、出世したら妻子を蔑ろにし始めたという話はめずらしくない。
「ダグラス様はどうしたいのかしら。浮気もするけれど離婚もしないってこと?そんなのメルージェがかわいそうだわ」
「でもダグラスは、そういう感じだったよ」
お腹の奥底からむかむかしてきた。
「法的にも、ダグラスにしか離婚を決める権利はない。メルージェは平民だから、ソアリスみたいに離婚申立書を叩きつけることもできないしなぁ」
別に叩きつけたわけでは……。
「平民の妻から離婚する裏技はないのかしら」
私の言葉に、アルノーは肩を落としてため息を吐く。
「失踪して三年経てば貴族院の夫婦認定から除籍してもらえるけれど、仕事を続けたままじゃ無理だよ。失踪なんて現実的じゃない」
「なんとかならないかしら……。あ、でもその前にメルージェがどうしたいかよね」
「う~ん、でももう時間の問題じゃない?多分、今頃は正気に戻って怒り狂ってるかもよ」
「怒り狂っている状態を正気っていうの?」
「昨日は、とにかく脳が働いていないっていう感じだったからなぁ」
しばらく無言が続いた後、同僚が出勤してきてこの話はもうここではできなくなった。
「私、帰りに寮へ行ってみるわ。アルノーはどうする?」
「いや、今日はやめておくよ。ソアリスが慰めてあげて?女同士の方がいいでしょ」
「わかった」
アルノーは立ち上がると、西側の窓を閉め、書庫へ向かう。そのまま会議に出るというので、戻ってくるのは昼過ぎだろう。
私は昨日休んだことで積み上がっていた書類を一つ一つ確認し、計算が間違っていないか、記載漏れがないかをチェックしていった。
昨日の御前試合の緊張感のせいか、この地味な仕事が妙に落ち着く。
やっぱり私は文官が性に合っているんだわ、としみじみ思った。




