騒動の予感
――はじめ!
開始合図とほぼ同時に、二人の木剣が強く打ち合う。
近衛のゼス様は、連戦の後とは思えない力強さと素早さで次々とアレンに向かっていった。
アレンは冷静に、でも慎重に相手の剣を受け止める。
ユンさんが言ったようにアレンの動きは普通の人と思えないくらい速くて、大柄な体に似合わない身のこなしの軽さに目を奪われる。
「すごい……」
私が誘拐されたときは、誘拐犯が剣も何も嗜んでいないゴロツキだったからよくわからなかったけれど、こうして騎士同士で打ち合ってみると、アレンがいかに強いかがよくわかる。
しかもアレンには攻撃を選ぶ余裕があり、ゼス様を徐々に追い詰めているのが素人の私にもわかった。
数分で決着がついた戦いは、アレンの完全勝利だった。
ゼス様は少し悔しげな表情で、でも親し気に握手を交わす様はとても絵になる光景だ。
何を話しているのかはわからないけれど、アレンの勝利を称えているように見える。意外にも二人はしばらく言葉を交わし、アレンの表情はまったく変わらないけれど、ゼス様は笑ったり狼狽えたり表情豊かな方だとわかった。
二人は観衆に手を振り声援に応え、それぞれの控室へ戻る――
のかと思いきや、アレンはまっすぐにこちらを見据えて歩いてくる。
え?
え???
この注目度をそのままにこっちへ来るってことは……。
戦勝祝いのパレードの悪夢が脳裏によみがえる。
アレンのことは好き。
愛してるのかというと、おそらく愛していると思う。
でもそれとこれとはまた別で、今だけはこっちに来ないで欲しいと心から願ってしまった。
ガタッと椅子を鳴らして、無意識のうちに逃げようと腰が引けた私を見て、ユンさんが満面の笑みで告げる。
「諦めましょう。ここはもう、流れに任せて」
「え、ちょっ……、あの……」
オロオロしていると、視界の端に、ゼス様がローズ様に近づいて行っているのが見えた。
その手には薔薇を持っていて、目的は明らかだった。
ローズ様は一段高くなっている王族席で、顔面蒼白で狼狽えている。まるで「何でこちらに来るんですか!?」という声が聞こえてきそうだ。
あぁっ、あっちも気になるけれどこっちにも危機が迫っている!
周囲のご夫人方は、なぜか私たちの関係を好意的に見ているようで感嘆の声を漏らした。
「やはり将軍は、奥様だけを愛していらっしゃるのね……!」
「もうお互いしか見えていないようですわ~」
「なんて素敵な夫婦愛なの……!」
一体、皆さんの目はどんな風に色眼鏡がついているのでしょうか!?
逃げ場のない私の前にはすぐにアレンがやってきて、いつものように甘い笑みを浮かべていた。
「今日の勝利は、我が最愛の妻に」
声にならない悲鳴は、歓声にかき消される。
いくらアレンと気持ちが通じ合っても、こんな風に注目されるのは心臓が縮み上がるような気分になった。
アレンは容赦なく私の手を取りその場に立たせると、かき抱くようにしてきつく抱擁をする。
「っ!」
長い腕に囚われ、一瞬にして私からは何も見えなくなる。
まるで大恋愛中の恋人同士のような振舞いに、さらに歓声が高まった。
「お幸せに!王国の象徴!」
悪のりしたジャックスさんの声がしっかりと聞こえる。
恥ずかしくて顔を上げられない私は、アレンに抱きついてその胸に顔を埋めた。
もう何も見たくない。私は将軍の妻というぬいぐるみだ。
自分に暗示をかけ、ひたすら時間が過ぎるのを待つ。
「ソアリス」
「…………はい」
「顔を上げて?ソアリスの顔が見たい」
「それは、できません」
アレンはクッと喉を鳴らして笑い、私が恥ずかしがっているのを楽しんでいた。
「もう、こういうことはこれで最後にしてくださいね……?」
何かイベントがあるたびにこんな風に注目されては、私の臓腑に穴が開くかも。普通の文官にこの状況はつらい。
「さて、どうかな」
「いじわるを言わないで……」
「大丈夫だ。多分これからは、王妹殿下とゼスが注目を集めるだろうからな。さっき握手したときに、薔薇を贈れと言っておいた」
まさかの言葉に、私は思わず顔を上げる。
アレンは少しだけ眉を上げると、「慣習だから」と言った。
未婚の王族女性がいたら、必ず誰かが薔薇を贈るものなのだという。けれど、今年は既婚者が多かったこともあり、ゼス様しかもうローズ様に薔薇を贈れる人がいなかったんだとか。
古参貴族の中には、ローズ様が誰からも薔薇をもらえなかったら蔑む者もいる。いくら事情があったとしても、市井育ちの姫はどの騎士からも乞われないと陰口を叩かれる可能性があるのだ。
それを危惧した陛下は、アレンに「姫に社交辞令で薔薇をやってくれ」と願ったそうだが、ヴィクトリア妃に「ややこしいことを起こすな」と注意され、結局は優勝候補だったゼス様に白羽の矢が立ったという。
婚約者候補だとは噂されているが、当事者の2人は寝耳に水。ゼス様は困惑しつつも、断って王妹殿下にあらぬ批判を集めては……と承諾してくれたらしい。
「恋人や婚約者はいないと確認済みだ。これから2人がどうなるかは、本人たちの意向を汲むと両陛下もおっしゃっていたし大丈夫だろう。何より俺にはソアリスがいるから、例え慣習でも君以外に薔薇を贈ることはできない。これが最善だっただろう?」
確かに、目の前でアレンが王妹殿下に薔薇を……となると、いくら儀礼的なものだとわかっていても、誰よりも私自身の心が乱れたかもしれない。
「では、戻ろうか。俺だけの姫君」
「っ!」
耳元で甘い声で囁かれ、私は一瞬で顔が真っ赤になる。
アレンはおもしろがって頬や耳にキスをして、どこまでも私を追い詰めた。
もう、一刻も早く退場したい。
そう思った私は無理やりにアレンの腕から逃れると、ユンさんの手を取り、階段を下りる。
けれど城内へと続く通路にはたくさんの将軍ファンが待ち構えていて、ユンさんからアレンにエスコートが代わると期待の眼差しが集中した。
「ソアリス?手を」
「…………」
口元がぴくぴくと痙攣する。
差し出された左肘を取らないわけにはいかず、私はそっと自分の手を絡める。
赤いリボンやブローチ、赤い縁取りの扇などを手にしたご令嬢方は、まるで恋焦がれる男性が現れたかのように私たち夫婦を迎えてくれる。
「ヒースラン将軍、今日も素敵でした!」
「奥様!ぜひ我が家のお茶会にお越しくださいませ!」
アレンは特に挨拶もせず、私を連れてさくさくと歩いて行く。
私は失礼にならないよう、愛想笑いを浮かべて方々に会釈をしながらアレンに付いて進んだ。
人波をかき分け、関係者しか入れない区域に繋がる門をどうにか通過する。
門番がついてくるご令嬢方を制止してくれたので、ようやく私はひと息つくことができた。
「ソアリス、大丈夫か?」
「えぇ。なんとか」
ところが、ホッとしたのも一瞬のことで、背筋が凍るほどの鋭い視線を感じる。
「っ!」
周囲を見回すと、特に怪しい人影や姿はない。
気のせい……?
さっきのご令嬢方からは感じられなかった、明らかに敵意を感じる視線。胸がドキドキと鳴り、私はついアレンを見上げる。
「どうした?」
「……いえ」
夫は麗しい笑みで私を見下ろす。
殺気を含んだ視線なら、私よりアレンの方が先に気づくはずだ。
やっぱり気のせい?私みたいな素人が、誰かの殺気を感じることなんてそもそもあるのかしら?
よく考えたら、これまでそんな経験は一度もない。
今は立場が立場なだけに、殺気を向けられることがあるかも……と敏感になっているだけよね。
「ソアリス、何か気になることでも?」
アレンが私の髪を指で弄びつつ、そう尋ねる。
「いえ、気のせいでした」
そうよ、私みたいな文官に、そんな能力があるわけがない。
アレンが戦うのを見ていたせいで、自分まで強くなった気になったのかも。
「私は、どこにでもいる普通の妻ですからね」
頷きながらそう呟くと、アレンがくすりと笑う。
「ん?ソアリスは世界で一番愛らしい妻だ。普通だなんてそんなわけがない」
「…………」
さらりとそんなことを言われ、私は思わず絶句した。
今日も夫の目の曇り方がすごい。
言葉に詰まっていると、彼は少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「俺はまだ仕事があるから一緒には帰れないが、先に邸に戻ってゆっくりしていてくれ。今日は少し遅くなるだろうから、夕食はいらないとヘルトに伝えて欲しい」
御前試合の日も、将軍は忙しいらしい。
「わかりました」
一緒に夕食をとれないのは残念だけれど、軽食だけ用意してアレンの帰りを待っていようかな。今日は暑いから、冷たいお酒でも用意するのがいいかも。
「では、私は先に失礼を……」
言いかけた途中で、アレンはおもむろに私の手を取り移動を始めた。
てっきりここで別れるのだと思っていたし、向かっているのが馬車のある方向ではないので私は困惑する。
「アレン?」
大きな円柱状の柱の裏側。門番からも城内への扉からも陰になった場所で、アレンは私の手を離した。
ユンさんとジャックスさんはついてくる気配がなく、どうやらここには二人きり。
それを理解するより早く、抱き寄せられて唇が重なった。
「んっ……!」
城内でキスをされるなんて、いくら人目につかない場所とはいえ衝撃的だった。
必死で彼の胸に手をついて、どうにか逃げようとするもまるで抵抗になっていない。
こんなところを誰かに見られたら……!
どうやって言い訳すれば彼の名誉が傷つかないのか、頭の中でグルグルと言い訳が回る。
「ふっ……んぅ……」
後頭部にしっかり回った大きな手は、これまでになく強引な気がした。
なんでこんなことに!?
頭がくらくらして倒れそうになった頃、ようやく解放されて、私は力なくアレンの胸に寄りかかる。
「ソアリス」
低い声。
熱を持った身体に沁み入るようなその声は、行動とは裏腹に冷静さを感じさせた。
「今日はもう、邸から一歩も出ないで。寝るまでユンリエッタと一緒にいてくれ」
忠告にも似たその言葉に、胸がどきんと大きく跳ねる。
もしかして、さっきの視線は勘違いなんかじゃなかった?
アレンは私の頬に手をかけ、瞳を覗き込むようにしてさらに念を押した。
「いいか?なるべく部屋からも出ないように」
「はい……!」
コクンと頷くと、彼は再びチュッと軽くリップ音をさせて口づける。
理由は聞くな、ということなんだろう。
守秘義務なのか、それとも心配をかけないためなのか。
繋いだ手は温かく、守られているのだと実感できるものだった。
「馬車まで送ろう」
これから何か起こるのか、それともただの杞憂で終わるのか。不安はあるけれど、私にできることはアレンの言いつけ通りに待機するだけだ。
繋いだ手にぎゅっと力を込めると、彼はそれに応えるように指を絡めて握り直す。
アレンはさきほどとは打って変わり、甘やかさなど残さず、凛々しい騎士の顔で私の手を引き、ユンさんたちのいるところへと向かった。




