親切は高利だった
――シャッ……シャッ……。
――カリカリカリカリ……。
「あの、メルージェ。ソアリス。君ら一体、どうしたの?」
金庫番の休憩室。
オーク材の木のぬくもりを感じるカウンターで、私たちはいつもの3人が横並びに座っている。
メルージェを真ん中に、両サイドに私とアルノーが座り、その状況はおなじみの光景だった。
ただ一つ違うのは、メルージェと私が分厚い本を読んだりノートをとったりしていること。アルノーは、スツールに座った状態で体を私たちの方に向けて尋ねた。
「どうしたのって、勉強しているの。見てわからない?」
蒼い長い髪を後ろで一つにまとめたメルージェは、今日もクールビューティ―な姉御だった。難しそうな本がよく似合う。
「私もメルージェと同じよ。勉強しているの。昇級試験を受けようと思って」
私はペンを握ったままそう答える。
冬は、文官の昇級試験がある。受けても受けなくてもいいのだが、今後異動や出世することになれば階級が上であればあるほど優遇されるので受けておいて損はない。
今年はアレンが帰ってきたことでバタバタしていて、昇級試験の存在すら忘れていたけれど、チャンスがあるからには挑まないとと思ったのだ。
まぁ、これはちょっと建て前みたいなものなのだが……。
アルノーは私たち2人を交互に見て、その顔を顰めた。
「勉強に走った原因は何?」
「「うっ」」
都合が悪いことや嫌なことが起こると、勉強に走る。一瞬で見抜かれてしまい、メルージェと私は同時に呻き声のようなものを上げた。
「はい、ソアリスから!まぁだいたい予想つくけれど」
予想がつくなら聞かないでもらいたい。
でも言うまでこの話題が終わりそうにないので、私は諦めて白状した。
「夫が、将軍なので……」
「うん、知ってるね。全国民が知ってるよ」
そんなわけはない。
「ローズ様が万が一アレンのことを好きになったらどうしようって、いや、何だかもう多分好きになっているんじゃないかって疑惑を感じていまして……。それで、毎日一緒にいたらあんなかわいくてきれいで守ってあげたくなる系のお姫様を、アレンが好きになるんじゃないかって……。考えていたら、考えるのが嫌になって『そうだ、勉強しよう』とひらめきました」
勉強をすれば、無心になれる。
そもそも嫉妬なんてしているくらい暇だからいけないんだって思ったら、もう昇級試験を受けない理由はなかった。
勉強に集中して嫌なことは忘れたい。
それが私の本音である。
アルノーは困った子を見るような目で私を憐れんでいた。
わかってるわ、どうせ「将軍が浮気や心変わりなんてするわけない」って思っているんでしょう?私だって、そんなことは誰よりもわかっている。
でも、頭でわかっていても心が聞き分けてくれないのだ。
「で、メルージェはなんで?」
アルノーは、今度はすぐ隣に座るメルージェに問いかけた。
「私は金庫番の任期があと2年だから、そろそろ本気で昇級のことを考えようって思ったの」
「そのこころは?」
「………………ダグラスが、浮気しているみたいなの。近衛騎士の補助要員に異動して、そんなに忙しくないみたいなのに帰りが遅くて、問い詰めてもはぐらかされるから腹が立って腹が立って。それで『そうだ、勉強しよう』って思ったのよ」
状況は違えど、メルージェも私も似たような理由で勉強に走っていた。
顔を見合わせて、つい苦笑いになる。
「ダグラスのやつ、なんで浮気なんて」
アルノーは苛立っていた。
幼なじみで親友で、誰よりも近い関係だからこそ腹が立つんだろう。ましてメルージェはアルノーの想い人だ。メルージェを蔑ろにして、浮気するなんて許せないはず。
私だってそんなこと、絶対に許せない。
メルージェはダグラス様が戦地へ行っていた2年間、ずっと待っていたのに。
私たちとは違って恋愛結婚だから、どうか無事に戻ってきて欲しいと心から心配して祈っていたのに。
戻ってきたら今度は「浮気しています」なんて、悲しいし腹が立つ。
でも私たちよりも、メルージェの方が冷静だった。
「ほら、騎士ってモテるじゃない?若い男が少ないんだから、なおさらよ。サブリナや使用人の子たちが、ダグラスが騎士団の食堂の女の子と仲良さそうにしているのを見たって。それに、下級文官の子たちも何人かダグラスと親密な関係かもしれないって噂されているわ」
妻の存在が知れ渡っているアレンと違い、ダグラス様は既婚者だと自分で言わなければバレることはない。相手が調べたらすぐにわかることだけれど、もしかしたら城勤めの一部の女の子には独身騎士だと思われているのかも。
メルージェによると、誰にでも気さくで明るいダグラス様は昔から女の子に人気があったという。「顔だって、ヒースラン将軍には遠く及ばないけれどそこそこかっこいいからなぁ」と、まるで他人事のようにメルージェは話した。
「戦地から戻った独身騎士が、結婚相手探しに女の子に声をかけているっていうのは聞くけれど、まさかそれに混ざってダグラスも?あいつ、何やってんだよ」
「本当よね~。面倒な女に手を出していないことを願うわ」
「いやいや、ダメだろう!?2年もメルージェをこっちに残して戦地へ行ったんだから、帰ってきたらそれこそ大事にしないといけないだろう。結婚するときに一夫一妻で契約しているよね」
結婚契約書。
婚姻届と同時に提出するそれは、主に貴族が取り交わすもので、家同士の金銭の授受を中心に、子どもが複数生まれた場合の財産権や相続権、浮気や2人目以降の妻について可否を予め取り決めて契約を交わすのだ。
私とアレンはおもいきり政略結婚なので、家同士の金銭授受について露骨に書かれた契約書がある。
子どもが複数生まれた場合、すべてヒースラン家の相続人とすることも。
メルージェは平民だけれど、ダグラス様が男爵位持ちなので結婚契約書はもちろん用意したと話す。
「浮気しない、第2夫人もなしって取り決めはしているけれどね~。結局のところ、心が離れちゃったらそんなもの意味をなさないわ。私にできることは、せいぜい彼がフラれて戻ってきたときに黙って受け入れるのか、『バカにしないで!』って突き放すかの2択よ」
「ど、どうするの……?」
私は自分のことのように不安になる。
「わからないわ。浮気なんて嘘であって欲しいって、信じたい気もするけれど多分それは望みが薄いし。かといって、すっぱり別れられるかっていうと……」
いきなり気持ちの整理はつかないだろうな。
「ソアリスは、もし将軍が浮気したらどうする?まぁ、しないと思うけれど」
「アレンが浮気したら……?」
どうするかしら。
離婚はしないだろうけれど、多分今までみたいな夫婦関係は保てない。
「見て見ぬふりをして、毎晩泣くわ」
「「暗い」」
「ちょっと!二人して暗いって言わないでよ!そもそも、暗いのなんて当然でしょう!?」
「「カビが生えそう」」
酷い言われように、私は2人をじとっとした目で睨む。
「私はソアリスみたいにじめじめできないわ~。ほかの女の影がちらついているなんて嫌だもの。もしも、疑惑の食堂の女の子が『何もなかったです』って言ったとしても、どうやってそれを信じたらいいの?毎日、その子とダグラスが顔を合わせているのも嫌なのよ」
何もなかったとしても、そばにいられると嫌。
私がローズ様とアレンに抱いている感情に、ちょっと似ている気がした。
するとアルノーがポケットから小さな瓶を取り出し、メルージェの前にコツンと置いた。
「これは?」
淡いオレンジ色の液体が入った小瓶は、どうやら香油の商品みたい。
アルノーによると、将軍の妻は髪がきれいという例の作戦から開発した「英雄淑女の香油」だそうだ。スタッド商会の化粧品部門でこのたび商品化されたという。
「たとえば、ここに毒薬があります」
アルノーは香油の瓶をそれに見立てて話を進める。
「この瓶は絶対に割れないし、毒が気化して漏れることもありません。絶対に安全です。けれど、この瓶はずっと君らのそばに置いてあります。どうですか?」
「「嫌だわ」」
いくら安全だとわかっていても、毒薬がそばにあるなんて落ち着かない。
「夫のそばにいるほかの女なんて、全員毒薬みたいなもんだってうちの姉さんが言っていたよ。そこにあること自体が気分を害するってさ」
お姉さん……!例えが過激だわ!
メルージェは頬杖をついて小瓶を見ながら、ぽつりと呟く。
「いっそ叩き割ってやろうかしら」
「まぁ、それも手だよね~」
アルノーは否定しない。
「ダグラスも、浮気相手の女も」
「でもまだ好きなんだろう?」
「…………いきなり情がなくなるわけないじゃない。だからなおさら腹が立つのよ。なんで私じゃなくて、よその女なのかって」
メルージェの指で軽く弾かれた小瓶は、軽い音を立ててテーブルの上に転がった。
「きちんと話し合ってみたら?何もないかも知れないし」
「あら?アルノーにしては楽観的なのね」
「違うよ。離婚って消費が滞るんだよね。外出頻度が減るから。商売人としては『何もなかったけれど、心配させて悪かった。お詫びに宝飾品を贈るよ』って、ダグラスに言わせたいね」
「ふふっ、都合のいい展望ね」
「だろう?」
笑い合う二人を見ていたら、私は「もうアルノーにしなよ」ってメルージェに言いたくなった。でも、そんなこと絶対に口にできない。アルノーが望まないから、外野は沈黙するに限る。
「でも昇級試験は受けるわ!それとこれとは別だもの」
メルージェは私の顔を見て、にっこりと笑った。
私も微笑みながら頷く。
「あーあ、甘えられない、頼れない、損な性格しているよね2人とも」
大げさに嘆いて見せるアルノーに、私は言った。
「勉強とお金は裏切らないの」
これは没落して7年で覚えたことだ。アルノーだって「そりゃそうだ」と即座に同調する。
もしもアレンと政略結婚していなかったら、没落していなかったら、きっと私は誰かに頼って甘えて生きていける性格になっていたかもしれない。それだって生きるすべの一つだと思うけれど、今の私にはそんな人生は歩めそうになかった。
「真面目な人って、損するようにできてるんだよなぁ」
「「余計なお世話よ」」
「えー?損しないように助けてあげるのに?金利は4割だけれど」
「「高っ!」」
アルノーはクックッと笑いながら、布かばんを手にしてスツールを下りる。
「じゃ、勉強がんばって」
いつも通りの優しい笑みで、彼は先に業務室へと戻っていった。
メルージェと私は、休憩時間ぎりぎりまでこの部屋に残って勉強に励むのだった。




