王妹殿下の憂鬱
今夜は月が美しい。
空を見上げると、黄金色に輝く月が浮かんでいた。
「ローズ様?」
「あ……」
ぼんやりとしていて、ローズは手にしていたダリアの茎を切り損ねてしまった。短くなりすぎたこの花は、明日やってくる予定の講師には披露できそうにない。
「少し休憩になさっては?お茶をお淹れします」
控えていた初老の世話役・ゴドウィンは、まるで娘に愛情を傾けるかのような目で、慈しみを込めてローズを見つめていた。
ローズはかれこれ1時間以上、花を手にしてぼんやりとしている。
明日、講師に見せる装花はまだ出来上がっていないのに。
(ソアリスさん、怒っていなかったよね)
今日は舞踏会へ行くのだと聞いた。
宰相がうれしそうに話していて、「いつかローズ様も我が邸へ」と言ってくれて笑い合ったのはついさきほどの出来事だ。
(ソアリスさんは、私が最初にヒースラン将軍のことを「怖い」って失礼なことを言ったのに、ずっと優しくしてくれた。将軍と同じで信頼できる人だわ)
ローズのために選ばれた教育係は、その数なんと40名以上。とても家名まで覚えられない、と早々に諦めたのがよくなかったと彼女は反省した。
(あああ、私ったらあんなに素敵な人になんていう失礼なことを……)
頭を抱えて顔を顰めるが、ここにそれを咎める者はいない。
侍女長はすでに下がっていて、世話をしてくれているのはゴドウィンのみ。
白髪混じりの50歳の彼は、ローズが城へ上がったときからずっと見守っていてくれた存在だ。
「お茶が入りました」
「ありがとう」
テーブルには、白い湯気が立ち上る半透明のハーブティー。
「カモミールティーでございます。王妃様が、ローズ様のためにとご用意してくださいました」
「そう……」
心が落ち着く香りがして、ローズはようやく笑みを見せる。
今日はずっと混乱が続いていて、頭の中はヒースラン将軍とその妻のことでいっぱいだった。
(まさかソアリスさんが将軍の妻だったなんて)
王国一の美丈夫の妻は、一体どんな美人なのか。
文官や騎士らがたびたびそう話題にするのを聞いたローズは、将軍の妻は誰もが振り返るような美女だと思い込んでいた。
12歳で政略結婚した、深窓のお嬢様。
将軍に愛される唯一無二の妻。
きっと輝くような美貌で、出会っただけで皆が目を奪われるようなオーラがあるはず。
そんな風に思い込んでいたため、まさか親しみやすく話しかけやすいソアリスがそうだとは思いもしなかったのだ。
(ソアリスさんは優しくて素敵な奥様だわ。あの人が「大丈夫ですよ」って言って笑ってくれると、ホッとするもの。あんなお姉さんが欲しかったなぁ)
一人っ子だったローズは、腹違いの兄が国王陛下であると言われても未だに実感はなかった。
たびたび夕食や朝食を共にすることで、顔は怖いが自分を疎んでいるわけではないと気づき始めたものの、打ち解けるにはまだ時間がかかりそうだ。
最初に会ったとき、王妹である自分にクッキーを与えると罰せられる可能性があるにも関わらず、毒見までして見せ、クッキーをくれたソアリスにローズは妹のような気分で懐いていた。
心のどころかで「この人なら何を言っても受け入れてくれる」と思っていた。
だからこそ、救国の英雄である将軍のことを「怖い」と思う気持ちも吐露したのだが、まさかそれが彼女の夫であったとは。ローズは何度も後悔し、反省を繰り返す。
(きちんとお詫びをしないと……。王妃様なら、何かいい助言をくださるかしら)
明日の昼食に誘って、相談してみよう。
それに、気になるのはマルグリッドのこと。なぜソアリスが将軍の妻だと教えてくれなかったのか。
侍女に陰口を叩かれたときから、ローズは周りの女性に対して疑心暗鬼になっていた。
それについて尋ねると「お伝えするのを失念しておりました」と笑顔で返され、それ以上何も言うことはできなかった。
生粋の貴族令嬢で、しかもかつては王太子妃候補だっただけに腹芸がうまい。
ローズが太刀打ちできるわけもなく、表面的には納得したように黙るしかなかった。
(もしかして、他の侍女にも口止めしていた?マルグリッドさんは一番身分が高いし、筆頭侍女だからそれができるわ……。彼女は一体何がしたいの?私をどう利用したいの?さすがにもう、信用できない)
こんな環境だからこそ、ソアリスにそばにいてもらいたくなる。
けれど金庫番であり、将軍の妻でもあるソアリスとかかわる機会を今より増やすのはむずかしい。
(かといって侍女長は、マルグリッドさんのことを信頼しているみたいだし、誰にも相談なんてできない……。侍女長は身分重視な人だから、半分でも先王の血が入っている私のことは大事にしてくれるけれど、マルグリッドさんのことも「尊い血筋のご令嬢だから安心です」って最初に言っていたもの)
これまでローズが生きてきた下町と、城での人間関係はあまりに異なる。
(しっかりしなきゃ。王妃様も、社交界は魔女が蔓延るところだから気をつけなさいっておっしゃっていたもの。マルグリッドさんに怯えていたらいけないわ。がんばるのよ、私!)
ローズはそう決心して、ハーブティーを一気に飲み干した。
「ふぅ……」
その姿を見たゴドウィンは、ティーポットを手に目を細める。
「おかわりはいかがですか?姫様」
「いただきます」
雰囲気の和らいだローズを見て、彼はまた笑みを深めた。
「おいしい……。私にもこんな風にお茶が淹れられるかしら。いつかゴドウィンさんに、おいしいって言ってもらいたいわ」
「姫様がおのずから?それは冥府へのよい土産話になりそうです」
「もう、そんなおじいちゃんみたいな」
呆れた声を上げるローズに、ゴドウィンは優しいまなざしを向ける。
「姫様がお茶を淹れる機会はあまりないと思いますが、もしも婚約者がお決まりになったら練習してもいいかもしれませんね。妻として、いずれ夫にお茶を淹れるときが来るかもしれません」
「婚約者、ですか」
まだそんなことは考えられない、という風にローズは目を瞬かせる。
「もちろん、妻がそのようなことをするのを好まない男性もいます。ですが、姫様がそうしたいと思ったことを受け入れてくださるお相手が見つかればよろしいですね」
「そんな人、いるのかしら」
何気なく未来を語るゴドウィンに、ローズは困った顔をした。
(結婚かぁ。いいなぁ、ソアリスさんが羨ましい。結婚してから10年もヒースラン将軍に会えなかったのに、ずっとお互いを想い合える関係だなんて物語みたい。好きな人と結ばれるなんて、本当に羨ましい)
ローズの母は、父親のことを最後まで口にしなかった。祖父母もまさか先王が自分の娘を……とは思っておらず、城から知らされるまで誰もローズの父について知らずにいた。
(お母さんは、お父さんのこと好きじゃなかったんだろうな。仕方なく私を産んだんだわ。娘の私のことは愛してくれたけれど、結婚もできず私を1人で産んだ母は幸せだったのかな)
先王の離宮で働いていて、手つきになってローズを身ごもった母。未婚のまま子を産むなど、ノーグ王国に関わらず近隣諸国でも歓迎されない。まして死に別れたわけでもないとなれば、後ろ暗いことがあるのではと周囲にも勘繰られる。
ローズはその容姿があまりに美しかったことで、貴族の隠し子ではないかと近所の住人や花屋の客には噂されていた。
実際には貴族どころか先王の隠し子だったのだが、その原因を作った先王は最期までローズの存在を知らずにいた。
王妹とわかったからには、ローズはしかるべき教育を受け、決められた相手に嫁ぐことになる。
それに不満があるわけではないが、ただただ未来が不安だった。
(おじいちゃんとおばあちゃんは、昔から「おまえは好きな人と一緒におなり」って言ってくれていたのに……。私も、ヒースラン将軍とソアリスさんみたいな愛のある政略結婚ができるのかしら。皆、私のことを「市井育ちの王妹殿下」としてしか見てくれないのに……。ローズなんて娘は、どこにもいなくなっちゃったみたい。私は王妹として生きて、王妹として結婚するの?)
この豪華な部屋も、美しいドレスも宝石も、何もかもを手放すことになったとしても、王妹ではなくローズ自身を見てくれる人に愛されたい。
そんな願望が強くなっていることに気づく。
(政略結婚でも、ソアリスさんはあんなに愛されているのよね)
凛々しい将軍は、いつも無表情でそっけない。
けれど、ときおり見せる笑顔は妻を思ってのことだろうとローズも気づいていた。
「奥様とほかの女性の違いはどこ?」
「なぜほかの誰でもなくソアリスさんなんですか?」
など、聞いてみたいことはたくさんある。
(ヒースラン将軍みたいに妻だけを愛してくれる方と結婚できたら、きっと幸せよね。お互いを想い合って、寄り添って暮らして……)
ローズは知らない。
10年前のアレンディオが、ソアリスに何も言わず戦地へ旅立ったことを。散々に拗れた10年で、ソアリスは「夫はほぼ他人」と思っていたことを。
いいところだけを見聞きして、その結果「憧れの夫婦像」として刷り込まれてしまっていた。
(私もソアリスさんみたいに、幸せな結婚がしたいな)




