攻める夫と悩む妻
「おかえりなさい、早かったんですね!」
近衛騎士や事務官からの聞き取り調査の後、定刻通りに邸へ戻った私は、少しだけ遅れて帰ってきたアレンを使用人たちと一緒に出迎えた。
「ただいま、ソアリス」
玄関で出迎えた私を長い腕で捕まえるようにして抱き締めたアレンは、いつものように頬に軽いキスをする。
お決まりの流れなんだけれど、未だに恥ずかしくて俯いてしまう。
ほら、人の目がね……?使用人たちが生温かい目でね?じーっと見てほんの少し口角を上げているのよ。「仲がよろしいことで、おほほほ」みたいな心の声が聞こえる気がして、被害妄想かもしれないけれどとても振り返れない。
アレンはまったく恥ずかしくもなんともないからこんなことをするんだろうけれど、一体どこでそういう耐性をつけてくるんだろう。
それとも注目されることに慣れているから、いつでも平然としていられるの?
ほとほと不思議に思う。
「夕食後に、少しお話があるんです。いいかしら?」
多分、王妹殿下と私が出会ったことは近衛から報告がいっているだろう。けれど念のためそう尋ねると、アレンは幸せそうな顔でふわりと笑った。
「少しと言わず、いつまででも」
「っ!?」
美形のゆるゆるな笑みは危険!心臓発作が起こりそうになる。
この人、普通に生きていて大丈夫かしら……?知らぬ間に色んな女性を惚れさせていないかしらね?
定期的に不安になるわ。
仕事が騎士で本当によかった。騎士はあまり笑っちゃいけないから、険しい顔つきのアレンに突撃できるほどのご令嬢はほとんどいない。
一部、いるにはいるとルードさんから聞いているけれど、私を差し置いてまで本気で誘惑にいくご令嬢は今のところいないんだとか。
浮気や略奪は手間と時間がかかるため、若い男性が少ない今そんなことをしている時間は適齢期のご令嬢にはないらしい。
ちょっとだけ話したいとか、挨拶したいとか、ご令嬢方はその程度の興味でしかないそうだ。
私は美形の夫を持った複雑な心境で、アレンと腕を組んで彼の私室へ向かう。
着替えをしたら食堂で夕食をいただき、その後はサロンで話をしようということになった。
「あぁ、これを」
アレンが持ち帰って来たのは、私が王妹殿下に貸した上着だった。たくさんあるからなくても困らないんだけれど、まさか夫経由で返ってくるとは思わなかった。
近衛の隊長が、報告時にこれをアレンに預けてくれたらしい。
「ありがとうございます。部屋に上着を置いてきますね?」
「奥様、わたくしが……」
流れるような所作で、使用人に上着を奪われた。
この邸の使用人は、どうにかして私とアレンを一緒にいさせようとする。上着を置きに私室へ行くことすら防がれてしまい、またもや生温かい目で「奥様はどうかこちらに」と訴えられてしまう。
先日、具合の悪い私をアレンが連れ込んだ疑惑が発生したときは、使用人が棘のある視線を彼に送っていたような気がするけれど、今はもう誤解だったとわかってくれて元通りになった。
でも、誤解が解けたら解けたで「奥様から寝室へ行くなんて!健気すぎる!」みたいな誤解が生まれていて……。どうにかしてアレンと私の距離を近づけようと、皆ががんばってくれている気配を感じる。
普通、どうか普通でお願いします。私はそう願わずにはいられない。
パタンッと閉まった扉。
アレンと2人きりになり、私は諦めてアレンの着替えを手伝うことに。ただし、手伝うと言っても夫が脱いだ上着を壁かけのハンガーセットに下げるだけなんだけれど。
帰宅してすぐに抱き締めてくる日は、午前に鍛錬があって湯を浴びた後なのだ。だから、インナーの上にシャツやベストを着るだけで、特に補助が必要な着替えはない。
今日だって私がハンガーに上着をかけているうちに、アレンはすっかり貴公子らしい姿になっていた。
食堂の準備が整うまで5分もない。だから、もうすぐに部屋を出てもいいのだが……。
アレンはソファーの定位置に座り、にっこり笑って両手を広げている。
「「………………」」
どうやら私は、彼のところへ行かないといけないらしい。
笑顔の圧に負け、私は静々とソファーへ近づく。
「はぁ……、幸せだ」
長い脚の間に座らされた私は、置き物のようにじっとする。
アレンは後ろからぎゅうぎゅうと抱き締めてきて、私の肩に頭を乗せてため息をついた。
「あの、普通に座った方がいいのでは」
もう何回目かになるかわからないこの提案。けれどやはり彼は同じ答えを述べる。
「疲労回復にはこれが一番だって、経験上わかっているんだ」
温かい背中はホッとするけれど、この密着状態は心臓に悪すぎる。
誰だったかしら、お義父様に適度な距離を保っていますって言った人は。これは婚約者ごっことして、適度な距離なの?
世の婚約者はとてもスキンシップが多いんだな、と感心してしまう。
「ソアリスは俺に触れられるのが嫌?」
言い終わると同時に、耳に軽くキスをされてビクッと全身がはねる。
アレンは、私が嫌だと言わないことがわかっていてそんなことを聞くんだからいじわるだ。
「嫌じゃありません。でも恥ずかしいのです。それに、くすぐったいです」
いつもの答え。何ら変わりばえのない返事だけれど、それでもアレンはうれしそうに笑う。
「かわいい」
「目が曇っています、アレン」
「それはない」
私への評価は、ずっとゆるいままだ。
「そろそろ誰かが呼びに来ますよ?」
「まだ大丈夫だろう。10年分を取り戻さないといけないから、こうして時間があればソアリスを抱き締めたいんだ」
「10年分ですか。気が遠くなる時間ですね」
「だから一時も離れたくない。本当は」
「ふふっ、お仕事は行ってください。あなたはこの国に必要とされている人なのですから」
将軍はたった一人。ほかに代わりなどいないのだ。
「ソアリスに必要とされていればそれでいい」
頭をすりっと寄せられると、私はまた一段と身体を強張らせてしまった。嫌じゃないのに、どうして素直に受け止められないのか。自分でも不思議なくらい身構えてしまう。
アレンはそれがわかっていて、絶妙な匙加減で迫ってくるから末恐ろしい。
「私だって、あなたを十分に必要としていますよ?」
「本当に?」
「ええ、本当に」
「魔除けのアレより?」
「え?」
なぜキノコの魔除けが出てくるのだろう。
黒曜石の目がきらんと光る怪しげな姿が頭をよぎる。
「ソアリスは毎日アレとは眠るのに、俺の部屋には来てくれないから」
「そう言われても……、アレはぬいぐるみではないですか」
キノコの魔除けは、安眠に必要な存在になりつつあるけれども。
確かにアレンの寝室へは、陛下に身を引けと言われたと勘違いした一件以来、一度も訪れていない。
でも自分から一緒に寝てもらいに行くなんて、あれくらいの事件がなければもう足が向きそうになかった。
「一緒に眠るだけなら……」
相当な疲労が溜まっていないと、隣で眠れそうにないなとは思う。
けれどアレンは、あっさり否定した。
「眠るだけは無理だ」
「それって……」
つまり、そういうことですか!?
思わず声が上擦る。
「結婚式までは婚約期間にする、と言い出したのはアレンです……」
「猛烈に後悔している」
「後悔って」
「ソアリスを抱きたい」
「だっ!?」
一瞬でカァッと頬が熱くなったのがわかる。そんなにも直接的な言葉で言われるとは驚愕だ。
そろっと逃げようと試みるも、アレンの腕はしっかりと私を捕らえて離さない。
「今すぐにでもソアリスを寝室へ連れていきたい」
「そ、それはさすがに」
「わかっている。今日は話をしないといけない。だが、近づくと理性が飛びそうになる」
「そ、それなら離れればいいのでは!?」
慌てて立ち上がろうとするも、やはり彼は離してくれなかった。
首筋を這う唇。
これはちょっと、いつもより接近度合いが高いのでは!?
「アレン……!」
控えめに言って、死ぬ。
これ以上何かされたら、私は多分死んでしまう。
「ソアリス」
耳元で囁かれる低い声。
「愛してる」
彼が話すたび、私の心音が大きくなるような気がした。
「ソアリス。俺は――」
ダメだ。流される。
結婚しているのだからダメじゃないけれど、何となく今はダメな気がする。
「もう待たなくてもいい?それとも絶対に嫌?」
「その聞き方はずるいです……」
絶対に嫌だなんて、言えるはずもない。思ってもいない。
ドキドキしすぎてぎゅっと目を閉じると、同じタイミングで廊下側から軽いノック音がした。
――コンコン。
「旦那様、奥様。お食事のご用意ができました」
突然のお知らせに、私もアレンもビクッと肩を揺らす。
「行きます!!」
「すぐ行く!!」
勢いよく返事をしすぎて、ものすごくお腹が空いていた人みたいになっている!
扉を開けられたら恥ずかしすぎて失神したかもしれないので、向こう側から声をかけてもらったことが唯一の救いだった。
「「…………」」
何とも気まずい空気が漂う。
私が先に腰を浮かすと、アレンは頑なに離さなかった腕をするりと解き、自分も立ち上がった。
「すまない」
「いえ」
「焦りすぎた」
「お気になさらず」
ちらりとアレンの方を見ると、彼も耳まで赤くして顔を逸らしていた。
政略結婚11年目。
10年も離れていた結果がこれである。
やはりこういうことはタイミングが難しく、婚姻届を出すか結婚式を挙げるかの節目でなければなかなか一歩踏み出せそうにない。
少なくとも私は動揺するばかりで、アレンの率直な気持ちにどう応えていいかわからなくなってしまった。
一言、「よろしくお願いいたします」と言えばいいの!?
こういうとき、何て言えばいいの!?
俯いて困り果てていると、アレンが先に声を発した。
「行こうか」
「……そうですね」
目を合わせることができず、そっと差し出された左腕に無言で自分の腕を絡める。
困ったわ。誰か相談できる人がいればいいんだろうけれど、あいにくメルージェやユンさんにこんな恥ずかしいことを言えるわけがなく。
私の悩みがまた一つ増えた気がした。




