乗り込まれる国家最高権力者
その日は、風の強い夜だった。
政務を終えたフィリップ王は、愛する妃に呼ばれて離宮へ足を運んでいた。
出迎える使用人たちは、なぜかピリピリとした空気を放っている。平静を装っているが、よほどのことがあったらしく動揺を隠しきれていない。
(何事だ……?)
妃に何かあったのなら、すでに王の耳に入っているはず。
今一番危険があるとしたら属国となった帝国に移った第二王子だが、そちらも不穏な動きはない。
足早に廊下を進み、侍従を残して王妃の待つ私室へと入って行った。
「ヴィクトリア、今日は一体……」
何かあったのか。そう言いかけて、国王は言葉を飲み込む。
最愛の妃は部屋にいた。それはいつも通りだ。
長い黒髪を高い位置で結い上げた妃は、凛々しい切れ長の目が印象的。年齢を重ねるごとに、妖艶さは増している。
しかし彼女とテーブルを同じくし、チェスに興じる男を見ると口元が引き攣った。
「お待ちしておりました、陛下。先日は妻が世話になったようで……」
立ち上がった将軍・アレンディオからは、とてつもない黒いオーラと不穏な空気が漂っている。
そして、妻もまた怒りを孕んだ笑みを浮かべてこちらを見ていた。
ただ一人、いつも通りなのは、アレンディオの背後に控える補佐官のルード。しかし彼は完全に空気に徹しているため、たとえ国王といえど味方をしてくれないと予想できる。
(あ、これは死んだかもしれないな)
国王は遠い目で沈黙する。
つい2日前、舞踏会でアレンディオの妻に対し、国王は激励を行ったつもりだった。
10年間ご苦労だったと妻の健気さを労い、いかにアレンディオをかっているかを伝え、王妹の警護を任せるほど信頼を寄せていると話した……つもりだった。
『これからどうすべきか、わかっておるな?』
国王はあくまで2人の幸せを願い、「これからは仲睦まじく暮らして子をもうけよ」と言ったつもりだった。
しかし、将軍の妻というプレッシャーを常に感じているソアリスには「別れろ」という催促に聞こえてしまったのだ。
王妹の警護につくのはアレンのため。
なぜならば、早く邸へ帰れるから。
己の本心が微塵も伝わらなかったことを、この場で初めて知ることになる。
悩んだソアリスから事情を聞いたアレンディオは、国王の真意を確かめようと動いた。王妃という、もう1人の国家最高権力者に協力を仰いだのだ。
「あなたは、未だにご自分の顔の怖さを自覚していらっしゃらないのですね」
王妃は呆れて、冷たい目を向ける。
「かわいそうに、ヒースラン夫人はきっと死ぬほどおそろしかったと思いますわ。そもそも私は昔から言っているではありませんか。あなたは顔が怖すぎるから、もっとはっきり、誰にでもわかるような言葉を選んでお話しくださいと」
「……面目ない」
「しかもよりによって、夫人にローズの話をするなど。ローズと将軍を娶せようとしていると、彼女が勘違いしても仕方がないですわ。あなたの将軍贔屓は有名ですし、さぞご不安だったでしょうね夫人は」
「アレン、そなたの妻はどうしておる?」
恐る恐る尋ねるその姿は、国王の威厳などなくなっていた。
アレンディオは無表情で国王を見返し、淡々と告げる。
「心労がたたって休んでおります(夜だけな)」
国王は知らない。
事情を話してすっきりしたソアリスが、アレンディオの寝室で熟睡し、翌朝には元気いっぱいに出勤していったことを。
そして、ソアリスを腕に抱いたまま一睡もできずに朝日を拝んだアレンディオが、八つ当たりの感情も含めて国王に仕返しを目論んだことを。
「な、なぜそなたは妻に『早く帰れるから警護を引き受けた』と言っておかなかった!?私がそなたらに好意的であると、なぜ話しておらん!」
「話しませんよ、仕事の話など。俺は妻の声が聞きたいのです。あいにく俺はソアリスではありませんので、いくら自分が喋ったところで妻の愛らしさには遠く及びませんから、俺は黙って妻の話を聞いていたい。かと言って何も話さなければ面白みのない男だと思われても困りますから、多少なりとも気を引ける話は仕入れたいと思っています」
「は?」
「第一、早く帰りたいから警護を引き受けたなど話せるわけがありません……!愛が重いと思われたらどうするのです」
「今さら……?そなた、真面目な顔して何を言っておるんだ」
国王は呆れ顔でアレンを見つめる。
しかし彼は表情一つ変えずに言い放った。
「要約すると、今度こそ辞職願いを受理していただきたいということです」
「それだけは……!償いは必ず!」
項垂れる国王は、なぜか部下であるはずの将軍に深く謝罪した。
(ユンリエッタには獣呼ばわりされ、使用人には白い目で見られ、結局のところソアリスがどれほど説明してくれたところで、俺は具合の悪い妻を押し倒した非道な夫だと思われている……。確かに、いっそもう強引に迫ればと何度も思ったが、あんなに心地よさそうに寝られては起こせるわけもない)
自分の邸なのに、皆が妻の味方をしている。アウェー感に打ちひしがれたアレンディオだったが、それでもあの夜ソアリスから「あなたが好き」という言葉を引き出せたことだけには感謝していた。
「そなたの妻に詫び状を送ろう」
平謝りの国王を見兼ね、ヴィクトリア妃が助け舟を出す。
「詫び状など、とんでもございません。国王たる者がそんなものを出せば、ソアリス夫人がよほど酷い目に遭わされたと皆の憶測を呼びましょう。夫人の名誉が傷ついたらどうするのです?」
「そ、それは」
「アレンは同盟国であるわたくしの祖国を救った功績もあるのですよ!アレンの部隊が到着していなければ、わたくしの弟は死んでいたでしょう。アレンはノーグ王国の誉高い将軍であり、王妃であるわたくしの恩人でもあるのです。贖罪は、まず彼の希望を聞くべきでございましょう」
「そうだな……」
ますます小さくなる国王。
その様子を見ていたルードは、小さくため息を漏らす。
(王妃様が話すたびに、どんどん陛下が小さくなっていくな……。さすが、陛下の顔にまったく怯えず嫁いできたお方だ)
王妃はかつて、皇女でありながら騎士顔負けの剣の腕を誇った人物だった。
4人の子を産んだ今ではその手に剣を取ることはないが、少なくとも今でも国王より強い。
剣でも、内面でも。
そもそも、ノーグ王国の女性は強く逞しい。
ヴィクトリア妃の逞しさは、この国にぴったりだった。
長いドレスの裾を翻し優雅に向き直った王妃は、アレンディオを見て微笑んだ。
「確か、夫人にはまだ社交界デビューしていない妹がいましたね?」
「ええ、17歳の妹がおります」
ヴィクトリアは扇を手に、麗しい笑みを浮かべる。
「妹の名はなんと?」
「ニーナ・リンドルと申します」
「わかりました。デビューの日には、わたくしがニーナ嬢に直々に声をかけましょう。よき縁談を見つけるのにも協力いたします。あなたの妻は控えめな方と聞きましたから、己への詫びよりも妹への心尽くしの方が喜ぶのではないですか?」
ヴィクトリア妃の提案に、アレンディオはかすかに口元を綻ばせて頷いた。
「それはありがたい。ぜひともよろしくお願いいたします」
リンドル子爵家は、極貧は脱しているが没落して久しいため良家とは言い難い。
ニーナの縁談は、戦で結婚適齢期の男が少ない今かなり厳しいと予想される。
恋人がいれば余計なお世話なのだが、先日アレンディオの邸を訪れたときにそんなものはいないと確認済みだった。
『私は多分結婚できないと思います。持参金もないし、特別な美人でもないし。だからどこかで働いて、いずれは平民として暮らそうと思うんです』
割り切った考え方は姉妹揃って逞しいが、本人が少し残念そうだったのは伝わってきた。
姉の幸せそうな姿を見て、すこし揺らぐ部分もあるのだろう。
アレンディオは自身のことを最大限に利用してくれて構わないと言ったのだが、「将軍の義妹っていう立場が目当てで寄ってくる男の人って、なんか胡散臭いと思うんですよね」と警戒されてしまった。
(しっかりした娘だ、本当に)
きっかけはどうあれ、中にはまともな男もいると思ったのだが、ニーナは早くも諦めようとしていたのであのときはかける言葉がなかった。
だがその後も、騎士で誰か紹介できればと思っていただけにヴィクトリア妃の申し出は渡りに船である。
出会いが多ければ多いほど、ニーナとうまくやっていける結婚相手が見つかる可能性も高まるだろうとアレンディオは思った。
しかもソアリスは、「ニーナに無理強いはしたくないけれど、もし好きな相手が見つかったら姉としてはうれしい」と言っていた。
『その、私があなたに惹かれたみたいに、ニーナにもいいお相手が見つかればと』
少し恥ずかしそうにそんなことを言われては、妻のためにもツテを使ってどうにかしないわけにいかない。
(照れた顔がとてつもなくかわいかった……!ソアリスが俺を好いてくれる日が来るとは)
10年間も初恋を拗らせた将軍は、国王陛下さえも利用して妻の喜ぶ顔を見ようとしている。
「ほかにあなたの希望はありますか?」
アレンディオは少し考えた後、わざと遠回しな言い方をした。
「妻と出かけたいと思っています」
王妃は口角を上げ、深く頷く。
「では、わたくしがよく利用するレストランへ招待しましょう。女性にとても人気があって、若い夫人もきっと気に入ってくれると思います。けれどそれだけでは足りませんね。夫人と妹君のために宝飾品を用意させましょう」
「王妃様のご厚情に感謝を」
「休みはルードに調整させなさい。王女宮へは連絡を入れておきます。夫人の次の休みに、アレンディオが休めるようにしましょう」
隣で「私も何か」と呟いた国王は、王妃の鋭い視線によって口をつぐんだ。
「だけれど、ごめんなさいね。ローズの警護は予定通りでお願いするわ」
「承知いたしました」
王城に、身一つで乗り込まなくてはいけない市井育ちの王妹。その苦労を思うと、将軍という立場にあるアレンディオの名声は役に立つ。
王妃の気持ちを汲んだアレンディオは、礼をして静かに下がっていった。




