妻の本音と夫の告白
アレンディオ様が語ったのは、私の記憶にはまったく覚えのないことだった。
けれど、そのときに彼の傷をぬぐったというハンカチを見せられたら確かに見覚えがあり、それは私のものであることは覚えていた。
「あのときの俺は、喧嘩の後で瞼は切れて頬は腫れていたし、薄汚れていたし……君が覚えていなくても当然だ」
服はボロボロ、顔は腫れあがり、そんな状態だったからわからなくて当然だと彼は笑う。
私はたまたま傷だらけの青年を見かけて、ハンカチを渡したのだと思った。だから、そんな出来事があったこと自体まったく覚えておらず……。
「そんな顔しないでくれ。覚えていなくていい。君は、ただ天真爛漫で優しかった。俺が喧嘩で負けて落ち込んでいるんだと思った君は、無邪気な顔で『次は勝ってね』って言ったんだよ」
「私がそんなことを!?」
余計なお世話だ。いくら子どもの頃の話とはいえ、恥ずかしくなってくる。
「俺はその言葉で救われたんだ。あのときは、次があるなんて思いもしなかった。何もかもが無駄だと思えて、どれほどがんばったとしても母上のように儚くなってしまう未来しか見えなかった」
アレンディオ様のお母様は、10年に及ぶ闘病生活の末に亡くなってしまった。幼い頃から少しずつ弱っていく母を見続けた彼は、心にどれほどの傷を負ったのだろう。
「でもソアリスは、笑って『次』だと言ってくれた。俺はそれを信じてみたくなった。だからこそ、ボロボロで貧相な男ではなく、騎士になって立派になったらソアリスに会いに行こうとそう決意した。文官を目指すのはやめてアカデミーへは行かず、騎士になろうと思ったのもソアリスに出会ったからなんだ」
「嘘」
信じられない話に、思わずそんな言葉が漏れる。
アレンディオ様は懐かしそうに微笑み、話を続けた。
「でも1年後、目の前に現れた君は政略結婚の相手としてだった。俺は立派になって君に会いに行くどころか、無様にも君の家に買われて夫になった。それが悔しくて恥ずかしくて、堪らなかった。なぜ君なんだと神を恨んだよ」
「あ……」
私の記憶にあるアレンディオ様が脳裏に浮かぶ。
『なんで君なんだ』
悔しそうにそんなことを言った、昔のアレンディオ様。あれは、私みたいな成金の平凡顔の娘が妻だなんて嫌だって意味なんだと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。
「私はてっきり嫌われていると」
「違う。俺は街で初めてソアリスに会ったときから、君が好きだったんだ」
「は?」
ガツンと頭を殴られたくらいのショックだった。
今、アレンディオ様が「君が好きだった」と言った?そんなことがあるわけがないのに……!
「好き、という言葉でこの気持ちを表すのが正しいのかどうかもわからない。君が好きで、大好きで、大切で、愛している」
まっすぐに目を見てそう言われると、倒れそうなほどに驚いた。
一瞬で心臓がバクバクと早く鳴りだし、ただ座っているだけで息が上がりそうだ。
「ありきたりな言葉では表せないと思うくらい、君が愛おしい」
青い瞳が、まっすぐに私に向けられている。
この人が私を好き?「妻」としての私じゃなくて、「私」を好き?
「嘘です……!」
「嘘じゃない。真面目で優しくて、一生懸命で、家族想いで、君は素晴らしい女性だ」
息をするように繰り出される褒め言葉に、私は恥ずかしくて眩暈がしそうだった。
「俺にとって君は、高嶺の花なんだ」
「高嶺の花!?そんなわけないじゃないですか……!だってあなたは由緒正しい家柄で、英雄にまでなった将軍で、とても私とは」
釣り合うはずがありません。
そんな当然のことが、この人はわからないのか。
ところがアレンディオ様は、さらに予想だにしなかったことを口にする。
「英雄なんて、俺にはふさわしくない称号だ」
「?」
「俺は、国のために戦ったわけじゃない。ソアリスに認められたくて、ソアリスにふさわしい立派な騎士になりたくて、それで戦っただけだ。敵を殲滅すれば階級が上がって認められて、将軍になれば自信を持って君の元へ帰れると思っただけなんだ。国と君を天秤にかけたなら、俺は迷わずソアリスを取るよ」
「将軍がなんてことを言うのです……!」
私はかろうじて反論するが、アレンディオ様は顔色一つ変えずに言った。
「だとしても、それが本当の俺だ。ソアリスが俺のすべてなんだ」
これほど真剣に訴えられては、信じないわけにはいかないし、この期に及んで疑うほど私はひねくれてもいない。
けれど、素直に受け入れるには私の心が弱すぎた。真摯な思いを、どうやって受け取っていいかわからない。
「そんなこと、言わないでください」
彼から目を逸らし、泣きそうな声でそう呟く。
「だって私はこの10年の間、あなたをいないものとして生きてきました。『今何をしているのだろうか』とか『危険な目に遭っていないだろうか』とか、そんな心配すらしていなかった酷い妻なんです……!だから今さらそんなことを言われても、私にはあなたの気持ちに応える資格はありません」
「ソアリス、俺は」
今度は私が彼の言葉を遮った。
振り払った手は、あっけなく解けてしまう。
「贈り物を売ってしまうような、そんな酷いこともあったし」
「それは君のせいじゃない!そんな環境に陥っているとも知らず、助けられなかった俺の落ち度だ」
アレンディオ様は必死にフォローしてくれた。でも私はもう止まらなかった。
「私は、そんなに想ってもらえるような人間じゃありません。戦地で死ぬ思いをして戦って、立派になって帰ってきたあなたのことを『いきなり帰ってきても困る』って、お邸に連れて行かれて迷惑だとすら思っていたんです」
「うっ!!」
思わず叫んだ本音に、アレンディオ様が衝撃を受けたようだった。
しまった。
言うつもりのないことまで言ってしまった。でも勢いは加速し、堰を切ったように私の本音が飛び出す。
「パレードだって、あなたがきれいな人を見て好きな人でも作ってくれたらいいのになってそんな気持ちでいました。着飾ったところで微妙な私を見て、幻滅してくれればいいって……!カラーの花をもらったときも、あんなに大勢の前で逃げられないような状況を作られて、どうしていいかわからず戸惑いました」
「そ、そうか……」
「毎日手紙が来るのも、このやりとりはいつ終わるんだろうって、なんで毎日やりとりしてるんだろうって不思議で仕方ありませんでした」
全部言ってしまった。
解放感と罪悪感が同時に湧き、私はようやく一息つく。
「私はあなたに想ってもらえるような妻じゃないんです。好きだなんて言ってもらえるような女じゃありません」
「ソアリス……」
「あなたはとても立派な人です。だから、私の方があなたにふさわしくない。そばにいるべきじゃないんです。アレンには幸せになって欲しいから、だから……」
長い長い沈黙の後、アレンディオ様は静かに尋ねる。
「俺のこと、恨んでる?」
私は慌てて否定する。
「まさか!恨んでなんかいません!」
「そうだよな……。そもそも期待されていなかったんだし、いないものと思われていたんだし、恨む以前に俺のことはどうでもよかったんだよな」
「ど、どうでもいいとまでは」
どうしよう。
めちゃくちゃ落ち込んでいる!
しかし彼は突然ぐっと拳を握りしめ、目に力を込めて宣言する。
「これまでのことが許されるとは思っていない!だがこれからは、ソアリスのそばでソアリスのために俺のすべてを賭して精一杯尽くすことを誓う!」
「えええええ!?」
どこにやる気を出しているの!?
「私は川で魚を獲っていた女ですよ!」
「素晴らしい行動力だ。今度は俺が魚を獲るから、ソアリスはのんびり見ていてくれ」
いやいや、行かないでしょ!将軍がそんなところに!
「金庫番の仕事にかまけて、伯爵家のために社交をしない女ですよ!?」
伯爵夫人、将軍の妻としてはありえないことだと思う。
でも彼は一歩も引かなかった。
「好きなことをして何が悪い?これまで苦労したんだ、君は好きなことをすればいい。それに、社交なら俺が騎士団の連中を鍛え上げてしっかり繋がりを作るから任せてくれ」
鍛えて繋がりを作るって、何……?
剣を交えたら友情が芽生えるっていうアレですか……?
それを社交というのかしら、と私は首を傾げる。
「ずっと、伝えたかったことがある」
彼はソファーから降り、私の前で片膝をついた。その姿は凛々しい騎士そのもので、思わず見惚れてしまう。
しかも熱の篭った眼差しに射抜かれて、不覚にもドキドキしてしまった。
「ソアリス・リンドル子爵令嬢。俺と一緒に、これからの人生を生きてください。生涯をかけて、君を幸せにします」
疲れていても、目が眩むような美男子がまっすぐな目で私を見て求婚している。
それは10年前にはなかった求婚だった。
もう結婚しているのに、改めて結婚を申し込んでくるなんて……。
うれしいと思っては、いけない。
心を乱されては、いけない。
自分の理性を総動員して、この空気に抗った。でも私が何か言う前に、彼はトドメを刺してきた。
「君だけを、愛している」
「っ!」
右手の甲に、そっと唇が触れる。
離婚申立書を渡す気だったのに、なぜ求婚される事態になっているの!?
「政略結婚ではなく、君に俺自身から求婚したかった」
10年前にそっけなかった青年は、もういない。
好き?
好きって誰が?誰を?
お飾りの妻じゃなくて、アレンディオ様が私を好き!?
愛してるって言った!?
その「愛してる」は、私の認識している愛してると同じ意味なのかしら!?
顔だけでなく、指先まで真っ赤に染まった私は呼吸すらままならない状態で窒息しそうだ。ここからどうすればいいか、なんて頭が混乱していて何も思い浮かばない。
しばらく愕然としていると、アレンディオ様の目がキラキラと輝いているのに気づく。私の答えを待っているんだと思うと、心臓がまた一段と大きく跳ねた。
「「…………」」
ずっと好きだったと新事実を告げられ、真正面から誠意を伝えられ、甘い声で求婚されて私は揺らいでいた。
自分で自分がわからない。
これは夢?
「「…………」」
眩しい!
ご尊顔が眩しすぎる!!
好きって何なの……!?
頭の中でぐるぐると同じことが回り、アレンディオ様からのキラキラ光線がさらに私の思考を混乱させ、何も言えないまま時間だけが過ぎていき――――――
「失礼しまーす」
「「!?」」
突然、ノックもなしに執務室の扉が開く。入ってきたのはアレンディオ様の部下で、つい親しみを持ってしまう平凡顔の騎士だった。
「え!?アレン様が起きてる!?」
ピシリと動きを止めた私たちを見て、部屋に一歩踏み入った彼も動きを止めた。
そして慌てて弁解を始める。
「うわわわわ、ごめんなさいすみません!!申し訳ございません!!てっきり寝ていらっしゃると思ってノックもなしに……!」
「いや、構わない。ちょっと求婚していただけだ」
アレンディオ様、ちょっと求婚って何ですか?騎士も「は?」ってなってますよ!?
「あの、アレン様。宰相様が面会したいと」
「わかった。すぐに向かう」
アレンディオ様は、私の手を引いてその場に立ち上がった。
羞恥心から顔を上げられない私は、黙って彼と共に執務室を出る。
「返事はまた今度でいいから」
「はい……」
アレンディオ様は私の肩をポンと叩いてから、騎士に私を下まで送るように告げて去っていく。
残された私と騎士は、しばしの沈黙の後どちらからともなく階段へと向かった。
「すみませんでした」
「いえ、まったく」
「本当に申し訳ございません」
「……お忘れください、お願いします」
気まずい空気は、別れるまで続いた。




