夫と妻で朝食を
朝起きると、まだ早朝だというのに使用人たちが着替えと予定の確認にやってきた。
私が起きるどれくらい前から、扉の前に待機しているんだろう……。
伯爵夫人は勝手に起きて勝手にパンをかじって、ラフな服装で出歩いてはいけないんだと再認識させられる。お金があった頃は確かに優雅な生活だったけれど、自由はほとんどなかったなぁと密かに昔を懐かしんだ。
「おはようございます。アレン様から、一緒に朝食をとお誘いがありました」
ユンさんは私の着替えを手伝ってくれて、アレンディオ様が昨夜遅く戻ってきたことを教えてくれた。ショールを肩から掛けるとき、下ろしていた髪をふわりと持ち上げられて「お世話されてる!」とちょっとビクッとしてしまった。
没落して久しいため、こんな風に誰かに髪に触れられるのは緊張する。
結い上げた方がいいかとも思ったけれど、弟のエリオットがアレンディオ様に剣の稽古をつけてもらっていると聞き、慌てて庭へと向かう。
あぁ、忘れていたけれど貧乏貴族の朝は早い。
私だって寝坊したわけじゃないけれど、弟妹は身分を隠して新聞の仕分けや市場の呼び込みなど色んな仕事をしているので、朝というか夜中に起きる生活をしているらしく、今日も習慣でまだ夜が明けぬうちに目覚めていたらしい。
活動的すぎる弟妹は頼もしいけれど、お姉ちゃんとしては複雑な気持ちになる。
アレンディオ様は深夜に帰ってきたのに、仮眠程度の睡眠時間だけで早々に目覚め、日課の朝稽古をしていたという。そこへ弟妹は挨拶に向かい、すぐに親しくなったそうだ。
エリオットは運動神経がいいので、剣はそれなりに扱える。近所に住んでいるおじいさんが引退した傭兵団の元・リーダーで、無料で教えてもらえたのはかなり幸運だった。
いくら何でも英雄将軍のアレンディオ様とは比にならないだろうけれど、どれくらいエリオットが強くなったのか見たいと思い、私はいそいそと階段を下りた。
「奥様、こちらです」
邸の中は、ユンさんが案内してくれる。私は彼女がいなければ、玄関と食堂にしか行けない。
部屋が多すぎるし、扉にプレートもかかっていないので、迷うこと間違いなしだ。
扉を開けて外へ出ると、思っていたよりひんやりとした空気が肌を撫でる。
庭の開けた場所は朝稽古をつけるには十分な広さで、転んでも痛くないように芝生と柔らかな土で整えられていた。
急いでやって来たのにすでに弟の姿はなく、アレンディオ様が一人で剣を磨いているのが見える。
「おはようございます」
声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
そしてすぐに立ち上がると、うれしそうに目を細める。
「おはようソアリス。もう起きたのか」
「は、はい」
眩しい!
胸元を第3ボタンまで開けた白いシャツに、細身の黒いズボンというラフな姿ですら気品が漂っている。
これは直視したら危険だ。
しかし、先に目を逸らしたのは彼だった。
「朝から君はきれいだな」
ん?ちょっと照れているように見えるのはなぜ?
あぁ、そうか。私に言っているのではないんだなと思い、すぐに隣を見た。
すると、ぎょっと目を瞠ったユンさんが「こっちじゃありません」と顔の前でブンブンと手を振る。
どう見ても、「きれい」といえばユンさんなのに。
「……寒くないか?」
「大丈夫です」
春でも朝は風が冷たく、ここは高台だから寮よりも風があって気温が低く感じる。
気づいたら、アレンディオ様が目の前に歩いてきていた。声をかけられて、私は反射的に大丈夫だと答えた。
「朝からソアリスに会えるなんて、こんなに幸せなことがあっていいのだろうか」
この世の奇跡みたいに言うアレンディオ様は、よほどこれまで戦場でつらい思いをしてきたのかも……と思えてならない。
平凡顔の妻に会ったくらいで幸せだなんて、哀れに思えてきた。
ここまで来ると照れたり恥ずかしがったりする域を越えていて、彼が心の病を患っていないか心配になってくる。
困った顔で笑いつつ、私は弟妹のことを切り出した。
「弟に稽古をつけていただいて、ありがとうございます。あの、エリオットは?」
見回しても、弟の姿はない。
「さっきまでここに居たんだが、あまり無理するのは成長期の身体によくないと思って早めに部屋へ戻らせた。汗を流してから、ケガをしていないか確認して軟膏を塗るように言って」
「まぁ、何から何まですみません」
アレンディオ様によると、エリオットは年齢のわりに一撃が重く、身体の運び方がうまいらしい。勘もいいから、王都で騎士団に入れば要人の護衛を目指せるだろうと言ってくれた。
「あの子は、これからどうするか言っていましたか?」
何気なくそう尋ねると、アレンディオ様はおかしくて堪らないという風に笑いを漏らした。
「騎士団に行きたいなら推薦状を書くぞと言ったら、断られた。立派な借金取りを目指しているらしい」
「はぃ!?」
「憧れている借金取りがいると」
ひぃぃぃ!
天下の英雄将軍の誘いをあっさり断り、借金取りになるって言うなんて!!
アレンディオ様が寛容な人でよかった……!
歴戦の猛者みたいな武人にそんなこと言ったら、斬り殺されるわよ!?
彼が笑っているうちに話題を変えようと、私は弟妹がやってきたことについて謝罪した。
「あの、突然すみませんでした。私と、ニーナとエリオットがこんな風に急にお世話になってしまって」
「いや、いいんだ。ここは君の家でもあるんだから」
「いえ、ここは、その、陛下があなたに贈った報奨ですので……」
さすがの私もそこまで図々しくなれないわよ!?自分の家だなんて、思えるわけがない。
ところがアレンディオ様は、さも当然のように「君の家だよ」と言った。
「俺のものは、すべてソアリスの物だ。この10年間、君には不自由させてしまったんだから、妻の家族が滞在するくらいどうってことはない。もてなしこそすれ、置いてもらうなんて気を遣うことはない。ソアリスには、少しでも罪滅ぼしをしたいんだ」
なぜかしら。
アレンディオ様がちょっと元気がないような気がする。激務で疲れているのかな。
「この10年のことなら、それこそ気にしないでください。あなたは戦場で命がけで戦っていたんですから、罪滅ぼしするような罪はありません。それにヒースランのお義父様が、いつも何かと親切にしてくださいました。お金の援助もしてくださいましたし、王都へ来たときには必ず一緒に食事をして『本当に大丈夫なのか?』って何度も聞いてくださって。あぁ、このブーツもお義父様に買ってもらったんですよ?」
私は足元を指差して、彼に笑って見せた。
「父上が、それを?」
アレンディオ様は眉根を寄せて深いシワを作り、悲しそうな雰囲気に変わった。
え、何がいけなかったの?あなたのお父さんからもらったのに。
かわいいと思うんだけれどな、この茶色の皮のショートブーツ。
小首を傾げて無言で見つめると、その視線にハッと気づいたアレンディオ様は慌てて取り繕うように笑って見せた。
「いや、なんでもない。気に入っているなら、俺も嬉しい。父には俺からも礼を言っておく。…………ただ」
「ただ?」
蒼い目が優しく和らぐ。
それにちょっとだけドキッとしてしまった。
「今度は俺がソアリスに贈るから、それを履いて一緒に出かけて欲しいんだ」
「っ!」
そんな些細なことを、しかも贈る側の彼から「出かけて欲しい」とねだるように言われて息が止まるかと思った。
「君を飾るのを、父に先を越されたかと思うと悔しいよ」
「そんな……」
消え入りそうな声で、そう返すのが精一杯。私はどうやらこの目に弱いらしい。
肩からかけたショールの端をぎゅうっと握り締め、心音がうるさく鳴るのを必死で抑えようとする。
「そうだ、朝食を庭でどうかと思ったんだ」
アレンディオ様はそばに置いていた剣を手にすると、私に肘を差し出してエスコートしてくれた。
緊張しながらそれに触れると、彼は私に合わせた歩幅でゆっくりめに歩きだす。
ちょっと空気が冷たいなんて、私の勘違いだったかもしれない。
春だから、きっと春だから顔がこんなにも暑いのだと心の中で必死に言い訳を探した。
別に誰かに尋ねられたわけでもないのに、頬が熱い理由を自分自身に言い聞かせる。




