最終話 愛され妻のその後
春の柔らかな日差しが窓辺に降り注ぎ、私は自分が座ったままうたた寝をしていたのだと気づいた。
「ぶぅ」
ゆりかごの中にいる愛娘は、ゆらゆらと動かしていた私の手が止まったことにちょっと怒っているみたいで、じっと抗議の目を向けている。
「あぁ、ごめんね。ルチア」
生後4ヶ月のこの子は、アレンに似た黒髪に蒼い瞳の女の子。
大きな目が堪らなく愛らしくて、見ているだけでつい笑みが零れる。
「お姉様、そろそろミルクあげてもいい?」
そばでおもちゃを手にしているのは、婚約者の家に花嫁修業に行っているはずの妹。ルチアが生まれて以来、すっかり叔母バカになってしまったニーナは、何かと理由をつけてはこの子を構いに来ている。
「ミルクはあげてもいいけれど、そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
「ええ~、今日は泊っていく。ルチアと一緒に寝るわ」
「またそんなこと言って……」
そろそろお迎えが来るのでは、と思っていると予想通り扉をノックする音が聞こえてきた。
――コンコン。
「奥様。お客様です」
リルティアの声に、私はすかさず返事をした。
「どうぞ」
ガチャリと扉が開く音がして、扉の前に置いてあった衝立の脇から姿を現したのは見目麗しい紳士だった。
「こんにちは、姉君。ニーナを迎えにまいりました」
「クリス様。いつもすみません」
ジェイデン様の補佐として働くクリス様は、お忙しい合間を縫ってこうしてニーナを迎えに来てくれる。
いつかの夜会の折に、どこかのご令嬢に媚薬を盛られたクリス様をニーナが発見して、大量の水を飲ませて口内に指を突っ込んで吐かせるという暴挙(英断?)の末、医局塔まで背負って運んで行ったのが二人の婚約のきっかけだった。
大きなリュックを背負って歩ける体力と根性があることは知っていたけれど、まさか成人男性を背負って歩けるくらい力があったとは……。
目を覚ましたクリス様は、妹の逞しさに惚れ込んで求婚したというのも驚いた。
私としては、ニーナと年は10歳ほど離れていても誠実なお相手が見つかってうれしかったのだけれど……。
問題は婚約後だった。
「さぁ、ニーナ。帰りますよ」
「……今日はここに泊まっちゃダメですか?」
「それは承服しかねます。私を邸に1人にする気ですか?」
「お邸にはいっぱい使用人がいるじゃないですか」
ニーナが帰りたがらない理由は、何とも残念な理由だった。
私は呆れて苦言を呈す。
「せっかく迎えに来てくださったのだから、シュヴェル家に戻りなさい。それに私は婚約前に言ったでしょう?質素倹約と極貧は違うって」
「だって、想像以上にお金持ちだったんですもの……!詐欺だわ」
これにはクリス様も苦笑いだった。
これまで数々のご令嬢から質素倹約が嫌だとお断りをもらってきた彼からすれば、まさかお金持ち過ぎるという理由で実家(?)に逃げられるとは思ってもみなかっただろうな。
クリス様は怒りもせず、「もうすぐ慣れますよ」とだけ言った。
「さぁ、帰りましょう。私はあなたがいないと淋しいです」
きらきらのご尊顔と優しい声でそんなことを言われては、その手を取らないわけにはいかない。
ニーナはちょっと照れたように目を伏せつつも、差し出された手を取ってようやく立ち上がった。
「そこまで言うなら、帰ろうかしら。お姉様、また来るわ」
もうしばらく来たらダメでしょう。
いくら近いとはいえ、花嫁修業はきちんとしなくては。
三人で一階へと下りて行くと、すでにニーナの荷物をまとめたリルティアが待っていた。
できる使用人がいて何よりだわ、本当に。
「クリス様、今度はゆっくりお茶でも飲みにいらしてください」
私は苦笑いで手を振って、ルチアと共に見送りをする。
二人は仲睦まじい姿で帰っていき、私も一安心だった。
せっかく玄関まで下りてきたのだからルチアと庭を散歩しようかと思っていたところ、このタイミングでアレンが訓練から戻ってきた。
「クリス殿とすれ違った。またニーナが逃げてきていた?」
アレンが大体の事情を察し、苦笑いで話しかける。
「おかえりなさい。そうなんです。でも二人して邸へ帰りました」
私とルチアの二人の頬にキスをして、笑顔を向けるアレン。
凛々しい将軍も、愛らしい娘の前では自然に表情が和らぐ。
「元気に遊んでいたか、ルチア」
「だっ、ばっ、ぶぅ」
「そうか、いっぱい遊んだのか」
まるで、会話できているように見えるときがあるから笑ってしまう。
「今日は早かったのですね」
子どもが生まれても、アレンは相変わらず忙しい毎日を送っている。めずらしく夕暮れ前に帰ってきたから驚いた。
「隣国の使者の到着が遅れていて、今日の会談がなくなった。明日の午後まで休みだ」
「よかったですね」
笑顔を向けると、アレンも口角を上げて頷いてくれる。
「見送りだけなのに上着を着ているのは、散歩でもする予定だったのか?」
「ええ、そのつもりでした」
「俺も付き添おう」
帰って来たばかりなのに、アレンは当然のように私たちと共に庭へ向かう。
剣を家令に預けると、私の手からルチアを引き受け歩き始めた。
「アレン様、おかえりなさいませ」
外へ出た私たちを追いかけてきたのは、メイド姿のユンさん。
先日、騎士を辞職し、正式に私の護衛兼メイド兼話し相手というマルチな側役になった。
ユンさんはルチアの顔を覗き込み、うれしそうに話しかける。
「ルチアお嬢様、お散歩ですか。早く大きくなって、私と剣の稽古をしましょうね」
「えーと、お手柔らかにお願いしますね?」
ルチアがアレンに似ていればいいけれど、運動神経が私に似ていたら……。
考えるのはやめよう!
見た目がアレンに似ているんだもの、きっと能力もアレンから引き継いでいるはずよ。
私は曖昧な笑みを浮かべ、アレンの隣を歩いて行く。
「すっかり温かくなりましたね」
「そうだな。昼間なら、もっとルチアと散歩ができるかもしれないな」
庭園の入り口へやってくると、辺り一面にはすでにバラの香りが広がっている。
ルチアはアレンの隊服を小さな手でぎゅっとつかんでいて、色とりどりの花をじぃっと見つめていた。
平和だなぁ、としみじみ感じていると、背後から人が走ってくる気配を感じて振り返る。
私たちを追ってきていたのは、相変わらず補佐官として忙しくしているルードさんだった。
「あら、お迎えが来ましたよ。ユンさん」
「本当ですわね」
ユンさんが迷惑そうな顔をしている。
ルードさんが今日ここへ来たのは、アレンの持ち帰り仕事を運んできたわけではない。
新妻を叱りに来たのだ。
「ユンさん!メイドの仕事はせずにじっとしていてくださいって言いましたよね!?」
開口一番、ユンさんに苦言を呈すルードさん。
アレンから心配性が移ったのかもしれないわね、と秘かに思った。
「あら、心配せずとも大丈夫ですよ」
「大丈夫と言う保証はどこに!?」
ルードさんが心配するのも無理はない。
だってユンさんったら、もうお腹がぽっこり目立つくらいなのに訓練に参加しようとしたりメイドとして私の世話をしようとしたりするんだから。
妊娠がわかってから、この二人の言い争いはもう毎日のように発生しているから見慣れてしまった。
「もう、過保護なんですよ!?ルードさん言ってましたよね、いざというときもアレン様を優先するからあなたのことは守れないと。それでいいと私は言ったではありませんか!」
反論するユンさんは、過保護にされてうっとおしそうだった。
急に行動を制限されても困る、というのが言い分らしい。
「あれは究極の二択の場合です!平時から妻に優しくない夫なんて人としておかしいでしょう!?私は日常的には、あなたを気にかけますし案じもします!」
ものすごく正論で返されて、ユンさんは不満げに唇を尖らせる。
それがおかしくて、私はふっと笑ってしまった。
アレンは付き合いきれないとばかりに私の背中に手を添え、庭園の先へ行くように促す。
「ユンリエッタはルードに任せて、俺たちは家族水入らずで散歩をしよう」
「ふふっ、そうですね」
なんだかんだ喧嘩しつつも、あの二人は仲がいい。
私たちはバラを見ながら、ゆっくりと庭園の奥へ歩いて行った。
そしてしばらくすると、アレンの腕の中でルチアがすーすーと寝息を立てていることに気づく。さっきまでニーナと遊んでいたから、今になって眠気がきたんだろう。
「気持ちよさそうに寝ていますね」
「そうだな」
「寝顔なんてさらにアレンにそっくりですね」
「ルチアはソアリスに似ていると思うが」
「ええ?そんなはずは……。アルノーとメルージェも、『将軍にそっくり』って言っていましたよ?」
二人は昨日、揃ってこの子を見に来ていた。
結婚の報告をするために来たんだけれど、メルージェがルチアをかわいいと言って離さなかったのですっかり話題が子どものことに移ってしまっていた。
「あの二人は、結婚式はいつにすると?」
「来月、親族だけで行うそうです。二人とも平民だから、大げさなことはしないと」
平民の場合、教会で二人きりで婚儀を行うのが一般的だ。
アルノーの場合はスタッド商会の看板があるのでそうもいかず、親族を集めたパーティーは開くという。
休暇も三日間だけで、家の方はしばらく家族向けの寮に入るらしい。
ようやく二人が幸せになってくれて、私だけでなく金庫番の皆も安心している。
「結婚の贈り物は、何にしましょうか」
「アルノーからは、魔除けはいらないと事前にくぎを刺されたからな」
あの魔除けは、私室のソファーに置いてある。
娘があれに気づいたとき、何を思うのだろうか。成長が楽しみだ。
庭園の奥までやってくると、花の香りが満ちる小路で私たちは立ち止まった。
「ここに来ると、ソアリスとやり直そうと必死だった頃を思い出す」
「ふふっ、色々ありましたね」
この場所は、アレンが離婚しないと宣言してくれた場所だ。
「結婚しているのに、今日から婚約者として……って言われたときはどうなることかと思いました。でも、とてもうれしかったです」
「あのときはただソアリスと離れたくなくて、どうすれば俺を見てくれるのかとそれだけを考えていた。あれからもう二年なのか、まだ二年なのか」
気持ちが通じ合って、こんなに早く娘まで授かって、あのとき離婚しようと悩んでいたことが嘘みたいに思えてくる。
アレンも同じことを思ったのか、目を合わせて笑い合った。
私をまっすぐに見つめてくれる蒼い瞳は、あの頃と変わらず優しい。
「俺と一緒になってよかったと、思ってくれるか?」
この期に及んでそんなことを聞くなんて。
世間でどれほど武勇を称えられようとその実は妻を愛する一人の人間で、私の心を欲するこの人がかわいらしく思えてしまう。
「もちろんです。私はあなたの妻になって、本当に幸せです」
笑顔でそう伝えると、アレンは満足げに微笑んだ。
そしてゆっくりと顔を寄せ、柔らかな唇を重ねる。
できれば、この平穏な日々が永遠に続いて欲しい。
離れ離れだった10年よりも、これからの日々の方がずっと長いのだから。
そっと寄り添えば、呟くような声が降ってきた。
「あぁ、幸せ過ぎるなこれは」
「………………そうですね」
花びらが風に舞う庭園で、心安らかでいられるひとときは続いた。




